史跡ハンター 臥龍

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三国「蜀」終焉の旅⑧~陝西省五丈原『諸葛亮廟』編

2007年10月04日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
10月4日(木)
さて今日はまず「陝西省宝鶏」に出て、それから「五丈原」で『諸葛亮廟』を見て、「山西省運城」まで行けたら行く…というハード・スケジュールです。
“三国「蜀」終焉の旅”も、ここが最終地かな。
明日、明後日は『関羽』に関する史跡だけですから。

5:30に「起床」し、7時に切符を買うつもりで、6:45に「天水汽車站」に着くも、昨日応対してくれた「ネーちゃん」は「ちょっと待ってなさい」と言います。
7:30くらいになっても何も対応してくれず、「どうすればいいんだ…」と困っていると、「掃除のオバちゃん」が「どこまで行くんだい?」と。
「宝鶏に行くんだけど、いつになったら切符が買えるのか分からない」と話すと、「買って来てあげるから、お金よこして」と言います。
「オバちゃん」に切符を買って来てもらいました。
結局「バス」は8:00発のようです…
その後も「オバちゃん」はいろいろ話し掛けて来ます。
「ご飯食べて来たのかい?」と「マントウ」をくれそうになりましたが「いいから、いいから」と断ります。
だって「マントウ」だけ食っても美味しくないんだもん。
8:00「バス」は発車しました。

「宝鶏」まで3時間くらいで、「11時には着くだろう」と見込んでいたのに、これまた誤算
13:15「宝鶏」に着きました…
今日の史跡ハントは『五丈原諸葛亮廟』だけですが、モタモタしてられないぞ。
すぐ「蔡家坡」行きの「バス」に乗り、「バス」は13:30出発しました。

14:20「蔡家坡」に着きました。
そして14:30「汽車站」前で「タクシー」を拾い、『五丈原諸葛亮廟』まで行くことにしました。

最初「オネエさん(運転手)」は「下までしか行けないわよ」と言っていましたが、『諸葛亮廟』近くまで上がって行けたようです。
14:50「この奥よ」と、着いたようですが、どう見ても帰りの「タクシー」なんて拾えそうに無いので交渉です。
「俺が見学中待っててもらって、また汽車站まで戻っていくら?」と。
この「オネエさん」、メーター倒してないんだもんな…
「オネエさん」は見学に2時間ほどみていたようですが、「1時間くらいで戻る」と言い、「100元」+ここの「駐車場代3元」で手を打ちました。
「タクシー」を降り、『諸葛亮廟』入口に向かおうとすると「ババア」が2人寄ってきて「線香」などを俺に手渡して来ます。
そして「10元」と言っています。
「金取るなら要らねーよ」と返そうとするも受け取りません。
だから、その辺に置いて来て逃げて来ました。

これが『五丈原諸葛亮廟』入口です。
前にはトウモロコシが干されています…。

この『五丈原』は「蜀」の『丞相・諸葛亮』と「魏」の「司馬懿」の「最後の対決」の舞台となった古戦場です。
『諸葛亮』は234年、第五次「最後の北伐」に出ます。
この戦いで『諸葛亮』は屯田を行い、持久戦の構えをとって『五丈原』で「司馬懿」と長期に渡って対陣します。
しかし頼りにしていた「呉」が「荊州」と「合肥の戦い」で「魏」に大敗し、「司馬懿」は専守防衛に徹しました。
すでに「宿痾」に犯されていた『諸葛亮』はそのまま陣中で病没しました。
234年8月23日のこと。享年54。

門を入ると「魏延」と「馬岱」の塑像があります。

これが「大殿」でしょうか。

この2人が誰なのか分かりません。(名前見落とした?)

「張苞」と「廖化」

「王平」と「関興」

そして『諸葛亮』ですが、黄金の「ツタン・カーメン」みたいやな…

「大殿?」を出て奥へ行くと『諸葛亮衣冠塚』があります。

そして、これは『落星石』といいます。

『演義』では北伐中、『諸葛亮』が「魏延」の危険性を察知し、追撃してきた「司馬懿」を谷に誘い込んで「魏延」共々焼き殺そうとしましたが、雨が降ったことで失敗します。
その後の「最後の北伐」に於いて「病状」が悪化した『諸葛亮』は幕内に「祭壇」を築いて「寿命を延ばす祈祷」を行いますが、唐突に幕内に入ってきた「魏延」がこの「祭壇」を壊してしまったために「祈祷」に失敗し、死去しました。
『諸葛亮』の「死」の時に大きな「流星」があり、「司馬懿」はこれを見て『諸葛亮』が死んだ事を悟り、「蜀」軍に対して総攻撃をかけようとします。
ところが「蜀」軍には『諸葛亮』の姿があり、これに狼狽した「司馬懿」は慌てて引き上げます。
ですが実はこの『諸葛亮』は木像でした。
後に現地の人間は「死諸葛嚇走活仲達」(死せる孔明、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす)と言ったといいます。

「八卦陣」です。

最後に「お土産」を物色します。
もう大体今まで見てきた「お土産」と似たり寄ったりです。
ここにも『劉備』『諸葛亮』『張飛』『関羽』の4点セット人形が売っていました。
売り子の「ギャル」は『りゅーべい』『しょかつりょう』『ちょうひ』『かんう』と「日本語(名前だけ)」で言っていますが、どうして『劉備』だけ「中国語」なのさ

『五丈原諸葛亮廟』を出て、入口付近には「三国城」という人形館がありましたが、入らず15:40『五丈原』をあとにしました。

晴れていれば下が見渡せて、『諸葛亮』が持久戦に対して屯田を行わせた『諸葛田』が見えたかも知れません。
そして、また「タクシー」で『五丈原』を下り、16:05「蔡家坡汽車站」に着きました。
案の定「蔡家坡」からは「山西省運城」までは行けず(あっても運城に着く時間が心配だよ)、「西安」まで出ることにしました。

16:30「バス」は出発し、18:30「西安・城西客運站」に着きました。
やっぱ高速道路は速いや
とりあえず「ホテル」を探すために「火車站」に行こうと、18:40「タクシー」を拾いました。
でも、この「ニーちゃん」、メーター倒して、すぐ「ガソリンスタンド」に入ります。
そして「ガソリン」入れてる間にメーター上がっちゃいやんの。

19:05「西安火車站」に着きました。
また「いくらだ?」と、わざと聞きます。
はい、またメーター通りです。
…という事で「テメェがガソリン入れてる間に初乗りが終わっちまったのに、メーター通り払えってのかよ」と捲くし立て、「2元」くらい負かしたかな。
まったく人民には非常識な奴が多くて呆れるよ。

「ホテル」は「火車站」の並びにすぐ決めちゃいました。
240元は予算オーバーなんだけど、もう19:20だしさ。
そして19:35夕飯を食べに外出します。

この「西安」は5月に1度来ているので(5.2、3 ブログ参照)、「路線バス」に乗って、20:05以前も食べた「日本料理店」に行きました。

「寿司」と「牛肉豆腐」をつまみに「ビール」です。
久々にまともな食事したな…
20:50店を出ました。
やっぱ「日本料理」はサイコーです。

以前のブログにも載せていますが、「西安」市内の中心にある「鐘楼」です。
また「路線バス」に乗り、21:40「ホテル」に帰りました。
明日は「陝西省西安」「山西省運城」「河南省洛陽」へ行く予定です。
それでは、また明日…


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三国「蜀」終焉の旅⑦~甘粛省天水『諸葛軍塁』編

2007年10月03日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
10月3日(水)
今日は「陝西省漢中」から「甘粛省天水」まで行きます。
「天水」周辺でピックアップした三国史跡は4ヶ所です。
①天水:『諸葛軍塁』
②甘谷:『姜維祠・姜維墓』
③秦安:『街亭古戦場跡』
④礼県:『祁山武侯祠』  です。
そして「陝西省宝鶏」へ移動して宿泊。
これがこの旅に出る前に立てていた計画でしたが、やっぱ「漢中」から移動後4ヶ所巡って、「宝鶏」へ行くなんて到底無理です。(元々全部行こうとは思っていませんでしたが)
「甘谷」「秦安」「礼県」は、いずれも「天水」から「バス」で1~2時間は掛かる町ですし…
なので行動を絞りました。
まず「天水」までの移動に5時間くらいとみて、遅くとも12時には「天水」に着く。
そして「天水」市内にある『諸葛軍塁』は確実に行けるので、「宝鶏」行きに乗る17時(←調べていないけど)までの4~5時間の間に行って帰って来れる史跡は…。
「礼県」は片道2時間くらい掛かりそう(待ち時間なども含めたら非常に危険)なので却下。
そうなると「甘谷」か「秦安」ですが、「秦安」にあるのは『街亭古戦場跡』で石碑が建っているだけのようなので、ここも却下。
…と言う事で「天水」に着いたら『諸葛軍塁』と「甘谷」の『姜維祠・姜維墓』に絞りましたが…大きな誤算が 

「天水」行きの「バス」は6:30出発なので、4:45「起床」しました。
5:45チェックアウトし、「漢中汽車站」へ。
6:30「バス」は4~5人だけ乗って、予定通り発車しますが、「雨」も降り出して来ました。
これから向かう地が「天水」だからだろうか?
な~んて余裕こいてたんだけどね。

ある程度は予想していたけど、ずっとこんな山中を進みます。

景色はとても素晴らしいんだけど…。
途中10:00くらいに「トイレ休憩」かと思ったら「運転手」と「車掌」が食事をするために30分以上停車しました。
中国の「長距離バス」は大抵「車掌」が同乗しています。
これは「途中乗車」する人民がいるんで、主に料金を徴収するためです。
通過する町を地図で確認するも、ちっとも進んでいないよ…。
これ、いつになったら「天水」に着くのだろうか…

結局12時どころか、16:20「天水汽車站」に着きました。
完全な「計画ミス」ですね…。
俺は地図の縮尺をあまりよく見ていなかったんです。
省のページによって縮尺が異なり、しかも山中を走るでしょ…誤算でした。

着いてすぐ「宝鶏」に行くことも少し頭をよぎりましたが、それなら初めから「漢中」から直接「宝鶏」に行けばよかったんだけど、特に「宝鶏」には見たい史跡も無く、移動だけの1日になってしまうのも悔しいし。
だから今日は「天水」に宿泊することにして、16:30「汽車站」近くの「ホテル」にチェックインしました。
しかし今日は、この旅で一番寒い日でした…。
さすがに「半袖」「短パン」「サンダル」だと変な目で見られてるし…

昨日の「漢中」の「ボロホテル」より10元高い(60元)だけで、雲泥の差ですね。
とにかく「天水」に来たからには、1ヶ所でも史跡を見ないことには
16:40「ホテル」を出て、「タクシー」で『諸葛軍塁』まで行きます。
「運チャン」に「オマエ、寒くないのか?服持ってないのか?」と言われる始末。
もう、ほっといてくれ

16:50『諸葛軍塁』に着きました。(門票無し)

『諸葛亮』が「第四次北伐」時に「司馬懿」軍と対峙した場所で、『諸葛点将台』とも呼ばれているそうです。

この角度で見ると城上から『諸葛亮』が指揮を取っているように見えるでしょ 

これが『諸葛軍塁』にある『諸葛亮像』です。
あまり大きくないね…。

この公園?前です。
この川を隔てて「司馬懿」軍と対峙したのかな?
17:05『諸葛軍塁』を出ました。
17:15「タクシー」で「天水汽車站」に行き、明日の「宝鶏」行きを確認しておきました。
時刻表には6:30の「宝鶏」行きがありましたが、「7:00と7:30がどうのこうの…」(聞いても分からなかった)と言われたので、「7:30出発で7:00に券が買える」と受け取りました。
17:20「ホテル」に戻り、ぬるいシャワーを浴び(熱湯が出ない)、布団に入って身体を温めます。

いい加減お腹も空いたので、18:30外に出て「麺」を食べました。
…って、また麺類ですね…
中華料理って量が多いから、数種類食べたい場合って1人で食べるのには適さないんですよね…
19:00すぎ部屋に戻り、布団の中で丸くなっていました。

今日はほとんど移動だけで終わってしまった…
「天水」まで約10時間だもんな…
これも俺の計算ミスのせいだけど『諸葛軍塁』に行けただけでも「良し」としましょう。
明日は「陝西省宝鶏」に出てから、『五丈原武侯祠』を見て、「山西省運城」か「陝西省西安」で宿泊する予定です。


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三国「蜀」終焉の旅⑥~陝西省勉県『武侯祠・馬超墓』編

2007年10月02日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
10月2日(火)2/2
14:30『武侯墓』を出たものの、大きな通りに出るまで「タクシー」が拾えそうに無いので少し歩くことにしました。
すると1台空車の「タクシー」が来たので手を挙げます。
「タクシー」は停まりましたが、後ろに客乗せてんじゃん…
「どこまで?」と言うので、『武侯祠』と言うと「乗りな」と。
相乗りかよ…。

14:45「タクシー」に乗り、14:55『武侯祠』に着きました。

「入場券25元」で中に入りますが、さっきの『武侯墓』と同様、人民で溢れています。

さらに門をくぐり…

これが「大殿」でしょうか。
この『武侯祠』では内部をガイドする「キレイなオネエさん」が数人いました。
もっと「可愛い子」がいたんだけど写真に収めることが出来ず…残念。
ここにも武将の塑像がありましたので紹介します。

「馬忠」と「馬岱」

「張嶷」と「王平」

『姜維』と「李恢」

「魏延」と『黄忠』

『馬超』と『趙雲』

「李福」と「楊儀」

「費禕」と「許靖」

「董允」と「劉巴」

「呂義」と「蒋琬」

「法正」と「芝」

そして『諸葛亮孔明』です。

この建物の中には「位牌」かな?がありました。
そして15:50『武侯祠』を出ました。
次はこの『武侯祠』と同じ通りにある『馬超墓』に行きます。
『武侯祠』まで「タクシー」で来たときに『馬超墓』の前を通ったので、場所は確認済みです。

『武侯祠』から徒歩200mくらいでしょうか…(俺、距離感覚って無いんだよね)『馬超墓』に着きました。
写真(左)は『馬超墓』の向かい側に建てられている「馬超墓碑」で、『漢征西将軍馬公超墓』と彫られています。
『馬超墓』の入場料は10元と安く、『武侯祠』から近いのに人民は全然いませんでした。
『関羽』『張飛』『趙雲』『黄忠』と共に「五虎将」の中の1人だというのに…可哀想な『馬超』。

これは『馬超祠』です。

中には『馬超』の塑像があります。

『馬超祠』の奥の橋を渡ると…

『馬超墓』があります。
『馬超孟起(176-222)』
『三国志演義』では、父「馬騰」が「曹操暗殺計画」に加担していた為、後に謀略によって一族のほとんどを『曹操』に謀殺されてしまいます。
「涼州」に留まっていたため、難を逃れた『馬超』は、唯一生き残った従弟の「馬岱」と共に復讐の為に兵を起こしたとなっています。
復讐戦で『馬超』は「韓遂」と連合軍を起こしましたが、「賈詡」の「離間の計」により「韓遂」と決裂します。
「韓遂」は『曹操』軍に寝返り、『馬超』は敗走し、その後も挙兵しますが敗れ、妻など残った一族をほぼ皆殺しにされます。
「漢中」の「張魯」の元に身を寄せて、「劉璋」の援軍として『劉備』軍と戦い、『張飛』と一騎討ちをしていますが、これは「演義」の創作で、この時に『馬超』は『諸葛亮』の策によって、『劉備』軍に降り、「劉璋」を脅し、「劉璋」は援軍が来ない事を悟り、降伏したと記してあります。
その後『馬超』は「五虎大将軍」に任じられていますが、「蜀」に身を寄せてからの『馬超』は精彩を欠き、「西涼の錦」と言われた力は発揮出来ませんでした。

14:10『馬超墓』を出て、更に100mほど歩くと『漢丞相諸葛武侯墓』の碑があります。
なぜ、ここに「墓碑」だけがポツンとあるのかは分かりません…
墓碑前にはトウモロコシが干されてるし…

『武侯祠』前まで戻って「バス」で市内まで帰ろうとすると、前方から砂ぼこりを巻き上げて走る車が

「な、なんじゃ、この車は…」
路傍を歩いてる俺にとっては迷惑もいいとこだよ。

16:25「路線バス」に乗って、16:35「汽車站」が見えたので付近の「バス停」で降りました。
明日の目的地は「甘粛省天水」なので、この「勉県汽車站」で「天水」行きを聞くも「無い」と。
「火花汽車站なら天水行きがある」と教えてもらい、17:00「輪タク」で行ってみるも「無い」ってさ、嘘つき
どうやら「天水」に行くには「漢中」に出なければならないようです。
「勉県」から「漢中」なら、そう遠くないんで「漢中」まで出ることにしました。

17:10「バス」は発車し、18:05「漢中汽車站」に到着。

「ホテル」が思ったように探せず、18:55客引きの「オバちゃん」に連れて来られた「ボロホテル」です。

「1泊50元」でシャワー無し。
昨日の「(広元の)ホテル」とはえらい差だな…
もう寝られりゃ、いいや…

「ホテル」探しの時、街中に「ケンタ」を見つけていたので夕飯を買いに行こうとしたら、この「ボロホテル」は路地が入り組んでて、辺りも暗く、道に迷って戻って来れなくなりそうだったので、「ケンタ」は諦めて、そう遠くない「麺屋」で「羊肉炒麺」を食べました。
なんか「スパゲティ」みたいな感じでした。

明日はここ「陝西省漢中」から「甘粛省天水」へ行きます。
もう事前に6:30発の切符も買っておきましたが、予想外の事態になります。
それは明日の更新にて…


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三国「蜀」終焉の旅⑥~陝西省勉県『武侯墓』編

2007年10月02日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
10月2日(火)1/2
さて、この旅も中盤に入りました。
そして今日の目的地は初日の『成都武侯祠』と同じく、この旅で最も重要な地である「陝西省勉県」の『武侯墓』『武侯祠』です
昨日「ホテル」に連れて来てくれた「ニーちゃん(タクシー運転手)」と6:30に待ち合わせる約束をしたので、5:00「起床」しました。
6:00ごろ一度「フロント」に降りて、昨日も夜「フロント」に確認した「上西汽車站」が何時に始業するか聞きに行きました。
高い「ホテル」に泊まったんだから、いろいろ利用しないとさ。
そしたら「フロント」の「オネーちゃん」は椅子を並べて寝てました。
起こして「汽車站」に電話してもらうも、まだ始業前みたい…。
これじゃ、6:30に出るのは無理だな…。
じゃあ「アイツ(ニーちゃん)」はどうしようかなぁ。
本当に来る気あるんだろうか…
とりあえず昨日「携帯番号」教えてもらっていたから電話しました。
「6時半に出れないから来なくていいよ」と。
俺も「自分の伝えたいこと」くらいは「中国語」で何とか話せるんだけどな…。
「聞き取り」が全然出来ないよ。(それでも少しは進歩してるけどさ)

とりあえず、6:50チェックアウトしました。
これが今迄で最高値の「ホテル」…

「タクシー」で、7:00「上西汽車站」に着きました。
「汽車站」の近くには「火車站」もありました。
当初一度「漢中」に出てから「勉県」に行かなきゃならないかな…と思っていましたが「漢中」行きが「勉県」も通るようで、うまく「勉県」まで買えました。
…ですが出発は8:20です…
またロビーでボォ~っと待ち、8:20「漢中」行きの「バス」は出発しました。
これは途中下車になるんだろうと思ったので、「運転手」に「私は中国人ではありませんから、勉県に着いたら教えてください」と「中国語」で書いたメモを見せておきました。

途中は、こんな山の中を走り続けます。
そして「勉県」の高速出口付近で大渋滞です。
ほとんど全員が「漢中」に行く人民なので、「どうして勉県で(高速を)降りるんだ?」と渋滞のせいもあって車内の人民たちが文句を言い出しました。
普通の人民なら高速出口前の分岐点で降ろされちゃうんだろうけど、行きに見せておいたメモが効きました。
「運転手」は「中国語話せない外国人が勉県で降りるんだけど、こんな所で降ろせないだろ」と車内の人民たちに説明してくれていました。

渋滞の原因はトラックの荷重検問みたいだったので、うまくすり抜けて、11:50「勉県」に入りました。
すると、ある広場に『諸葛亮』像を発見
運良く「バス」もこの広場近辺で停まって降ろしてくれました。

どうやら、ここは『三国広場』というらしいです。
「史跡アタッカーさん(仮)」も紹介していないので、きっと彼の訪問以後に造られた広場なんでしょう。
この『諸葛亮』像、なかなか「目つき」がいいと言うか、今までいろいろ見てきた『諸葛亮』像の中でも、かなり好きかも。
12:15『三国広場』を出ました。
「バス」が高速を降りたとき見えたのが『定軍山』の標識だったので、『武侯墓』から行くことにします。
「輪タク」を拾って行くも、近くで「この先を真っ直ぐ行けば武侯墓だ」と降ろされてしまいました。

入口まで10分以上歩いたかな?
最初、値切ったから入口まで行ってくれなかったんだ、と思いましたが、この入口に着くまで車は渋滞してたからね。
まぁとにかく、12:40『武侯墓』到着です

入場券30元を買って中に入りましたが、また並ばずに券を買う人民がいます。
怒ってるのは俺だけで、他の人民は何も言わない…
これじゃ、どんなに都市が発展しても、住む人民の文化(常識)レベルが上がらなきゃ、真の国の発展にはなりませんよ…。

これは何の壁だろう?

『武侯墓』に入りまーす。

「大殿」に入るとあるのが…

『諸葛亮』の塑像です。

左右にいた2人は誰だろう…

ジオラマで「北伐」を紹介していました。
これは、このすぐ近くの『定軍山』での戦いです。

そして、これが『諸葛亮孔明』の墓碑です。
『漢丞相諸葛忠武侯之墓(左)』と『漢諸葛武侯之墓(右)』と彫られています。

その後ろにあるのが墓陵です。
『諸葛亮』は「漢中」の『定軍山』に「魏」が見えるように葬られたといいます。
そして「遺言」により質素な墓とされました。

この建物の中には…

『諸葛亮』の「位牌」でしょうか?

ちょっと上の方にある「亭」を覗いてみると…
『漢丞相諸葛忠武侯之真墓』と彫られています。
これが本物の「墓石」なんでしょうか

また別の場所ですが「青年諸葛亮像」なんてのもありました。

14:20ごろ『武侯墓』を出て、「お土産屋」を物色します。
『諸葛亮』グッズを買い込みました。
その最中「日本語」で「高けーよ」とか言ってたら、横から「あぁ、日本語だ」と。
日本語を勉強中という男性に思い切り聞かれていました。
写真(右)は「お土産屋」の前の駐車場にあった『諸葛亮像』ですが、今まで見た『諸葛亮像』の中で一番カッコ悪いぞ。

駐車場付近の壁画にも「三国志」の名シーンが。
「桃園豪傑三結義」

「虎牢三英戦呂布」

「甘露寺劉備招親」

14:30『武侯墓』をあとにしました。
近くの風景です…って思いっ切り田舎やね。

恐らく、この山の辺りが『定軍山』なんだと思います…
さて次は『武侯祠』と『馬超祠』に向かいます。
続きはまた後の更新にてレポートします。


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三国「蜀」終焉の旅⑤~ロウ中『張桓侯祠』編

2007年10月01日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
10月1日(月)
さて今日は『張飛』の最期の地である「閬中」に行きます。
昨日の調査で「富楽汽車站」から8:20発の「閬中」行きがある事が分かったので、7:20チェックアウトしました。
「タクシー」を拾い、7:30「富楽汽車站」に着きましたが…
な、なんと「午前発の閬中行きの切符は全て売り切れた」と言うんです。
これは困った事になったぞ…。
この旅では「閬中」も大切な地です…。
「他に近くまで行く方法が無いか?」と従業員に尋ねたところ、「平政汽車站から南部に行ける」と教えてもらえました。
「南部」は「閬中」の手前の町です。
とにかく時間が勿体無いんで、また「タクシー」を拾い、「平政汽車站」に行きました。

7:40「平政汽車站」に着きましたが、「南部」行きは9:10発です…
でも、これが一番早い「閬中」までのルートですからね…
「汽車站」内でボケ~っと時間を潰し、9:10「バス」は出発しました。
途中で隣に「バアちゃん」が座って来たんだけど、「バアちゃん」の足元に置いてる「荷物」が、たまに俺の素足(短パンだから)に当たる…。
何か「変な感じ」がして、途中のトイレ休憩の時見たら「ニワトリ(生きてる)」でした…
ビニール袋から左右1羽ずつ顔を出してて、そいつがたまに俺の脚を突いてたワケだ…

12:20「南部汽車站」に到着。
この町も小さいぞ…
ここから「タクシー」で「閬中」まで行こうか考えましたが、今日は「閬中」で『張桓侯祠』を見た後は「広元」まで出ることだけを目的にしたので、「バス」で「閬中」まで行く事にしました。
「バス」は40分後の13:00に出発しました。

13:50「閬中汽車站」に到着。

まずは「閬中汽車站」に着く前に車窓から確認していた『張飛像』を見にロータリーまで歩きました。

それから「タクシー」を拾い、14:05『張桓侯祠』に到着。
『桓侯』とは『張飛』の死後、「劉禅」が皇帝のとき諡されました。

入場料40元で中に入りましたが、「国慶節」当日もあって多くの人民で溢れていました。

この大殿の『張飛像』は「清」の時代に『桓侯大帝』に追封された皇帝バージョンです。

『張飛』の息子「張苞(左)」の塑像です。
写真を撮ってる俺も写っていますね。

『張飛』の活躍に関する塑像もあります。
「桃園結義」

「鞭督郵」

『張飛益徳』

「義釈厳顔」

「夜戦馬超」

「立馬勒銘」

「張飛遇害」

「虎臣良牧」

「墓亭」です。
この奥に「墓陵」があります。

『張飛墓』への入口です。

右側は「墓陵」の石壁です。

これが『張飛(168?-221)墓』です。

『張飛』は君子を敬う一方、小人には「無慈悲」に振る舞い、『劉備』の戒めにも改めませんでした。
『劉備』が『孫権』を討つため軍勢を催すと、一万人を率いて「江州」で合流することになっていましたが、出陣のとき幕下の「張達」、「范彊」に殺されました。(先程の塑像「張飛遇害」)
2人は首を持って『孫権』のもとに逃れました。
『劉備』は『張飛』の陣営から使者が来たと聞くと「ああ、張飛が死んだ」と歎いたといいます…。
…と言うことで、ここは「胴塚」ってことになります。
ちなみに首は「雲陽(重慶)に葬られた」とされています。
14:50『張桓侯祠』を出ました。

『張桓侯祠』を出ると…『張飛』がいました
…って黒塗りの「妖怪」だよ、これ…
これからパレードでもやるのかな?
『張桓侯祠』前の通りも古い町並みが再現された「土産物屋」がたくさんあります。

そして「タクシー」を拾い、15:00「閬中汽車站」に着きました。
…が、「広元」行きの「バス」は14時が最終でした…
どうしよう…まだ15時なのに、ここから先に進めないんじゃ明日の旅程にも影響が出てしまう…。
こうなったら「タクシー」しかない
「広元」まで「約150Km」。
「1Km=2元」と勝手に計算して予算を300元に設定して交渉します。
最初「350元」と言われたので、他の「タクシー」と交渉しようとしたら「300元でいい」と。
その時焦ってたんで、顔を乗り出して話していたのにドアを開けてしまい、思い切り顔面をドアにぶつけてしまい、右目下を少し切る始末…
でも、その「タクシー」はなかなか進まず、携帯で誰かと(この事を)話しています。
早くも棄権か?と思ったら、ちょっと進んだ所にいた別の「タクシー」に移されました。
それから2台目で40~50分くらい山道を進み、3台目に移らされました。
「俺はリレーのバトンじゃないぞ」って感じですよ。
3台目に「あんたが広元まで行くの?」と聞いたら、「そうだ」と言うので、どうやらこいつがアンカーのようです。
でも、俺1人じゃ「もったいない」のか途中の「蒼渓」という町でも「広元」に行く客を1人相乗りさせました。

「閬中」を出て1時間半くらい、町以外はずっとこんな山道を進んでいます。
すると「広元」から来た「タクシー」とすれ違いました。
すかさず停める「運チャン」。
どうやら、その「タクシー」は「広元」から「閬中」方面に客を乗せて行く途中らしい。
俺らは「閬中」から「広元」方面に行く途中という事で「運チャンズ」の利害が一致です。
それぞれ「客」を「乗せ替える」ことになりました。
まぁ「運チャンズ」からすれば、帰りは空車で地元に帰らないで済むからね…。
俺は別に300元で「広元」に行けりゃいいんだし。
ついに4台目で「広元」に行くことになりました。
19:00くらいには「広元」に入ったかな?
そしたら「ニーちゃん」はメーターを倒しました。
俺は3台目に「300元」払ってるし、「ニーちゃん」も前の客から金は貰ってるんで、市内に入ったから、他の人民が乗ろうとしないようにしてるんだと思っていました。
この「ニーちゃん」けっこう「いい奴」で市内に入ってから「ホテル」探しも手伝ってくれました。
でも今は「国慶節」連休中だし、外国人が泊まれる「ホテル」は最低三ツ星で、「この期間中だと1泊500元はするよ」と。
「明日は漢中に行くなら、今日これ(タクシー)で800元で行って、車中で寝かせてあげる」と言いますが、外国人が泊まれる「ホテル」が最低三ツ星と言うのも「表向き」です。
俺だって今までいろんな「ホテル」に泊まってるんですから。
こいつの「言いなり」になって800元も出してまで、今から「漢中」まで行く意味は無いし、同じくらいの金出すなら「今日はいいホテルに泊まってやろうじゃないか」と、19:40ごろ三ツ星ホテルに連れて行ってもらいました。
やっぱ通常500元以上でしたが「320元」と言う事で、即「OK」です。
ここで「ニーちゃん」と別れますが、結局市内に入ってからは「別料金」でした。
こいつが一緒のせいで高い「ホテル」に泊まるハメになったってのに。
分かってりゃ早く降りて、自分で安い「ホテル」を探せたかも知れないし、追加で「100元」も払わないで済んだのにな…。
まぁ仕方ないや。
とりあえず「広元」に出て来れて、旅程を狂わさずに済んだ事の方が大きいからね。

高いって言っても、俺から見りゃ200元前後の「ホテル」と大して変わらねーよ。
俺は「ベッド」「シャワー(お湯)」「エアコン」さえあれば、ちょっとくらい汚くてもいいんだよな…。
どうせ「史跡ハンター」の朝は早いんだから。

…と言うワケで、今日の夕飯も「カップラーメン」です…
あぁ~疲れた。


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三国「蜀」終焉の旅④~四川省梓潼『七曲山大廟』編

2007年09月30日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月30日(日)3/3
14:55「バス」は発車し、15:50「梓潼汽車站」に着きました。

これは「梓潼汽車站」前ですが站も小さく、町も小さい
当初の計画では、この「梓潼」では2ヶ所の三国史跡を巡る予定でした。
1つは『臥龍山』で、ここには『孔明泉』『諸葛喬墓』『諸葛寨』『諸葛堂』などがあるんですが『臥龍山』は登山に約1時間掛かるので断念しました。
もう1つは『七曲山大廟』という「文昌帝」を祀る大廟内に『関帝廟』もあるんです。
そこだけ行く事にしました。

「梓潼汽車站」前で「タクシー」を拾って、16:05『七曲山大廟』に着きました。
けっこう山を登って来たので帰りが心配になり、「タクシー」を待たせて大廟に入りました。

『七曲山古柏林』の説明があります。
現在の「川狭公路」と「古蜀道」の両側に『張飛』が柏を植えて道にしたと言われています。

時間も無いし、「文昌帝」もよく知らんので、すぐ『関帝廟』へ行きました。
ここの『関羽』もガラスケースに入ってる…

いつも通り「周倉」(写真・左)と「関平」(写真・右)ですね。

『七曲山大廟』と『関帝廟』は中でつながっていますが、ここが『関帝廟』の正面入口です。

この『関帝廟』の先の入口は『翠雲廊』と言い、「梓潼・七曲山」から「剣閣」「閬中」に至る道のことを指します。

この『翠雲廊』の途中に『張飛柏』があるらしいです。
けど、そんな歩いてる時間も無いし、「タクシー」を待たせてあるので16:20『七曲山大廟』をあとにしました。
明日は「閬中」に行く予定なんですが、せっかく「梓潼」まで来たんで『臥龍山』にも行きたい…。
なんたって『諸葛亮』関連の史跡だからさ。
それで「運チャン」に「梓潼閬中へ行くバスってあんの?」って聞いたら「無いよ」ってさ。
もしあれば今日は「梓潼」に宿泊して、明朝『臥龍山』に行ってから「閬中」に行こうかと思ってたのに…。
今日は朝から大きく時間をロスしてしまったからね…。
朝の「成都」からのバス、「富楽山」での銅像探し…と。
ここは諦めも肝心です。
「閬中」へ行くためには「綿陽」に戻らなければなりません。
16:30「梓潼汽車站」に着き、16:40「綿陽」行きの「バス」は出ました。

17:40『富楽山』から目と鼻の先だった「富楽汽車站」に到着。
一応明日の「閬中」行きは8:20発らしい。
ちょっと遅いけど仕方ないや。
でも、この「富楽汽車站」近くには「ホテル」が無いので、「綿陽市汽車客運站」に行って、そこでも明日の「閬中」行きを調べてから、近くで「ホテル」を探そうと思って「タクシー」を拾いました。
「綿陽市汽車客運站」というメモを見せてるのに、「平政汽車站」に連れて来やがった。
「ここじゃねーよ」と「デジカメ」に撮った「綿陽市汽車客運站」の写真まで見せました。
すると「綿陽市汽車客運站」に向かう途中で「友人?」だかを乗せて行き、全然「綿陽市汽車客運站」と違うとこで「運チャン」は降り、「友人」だか「同僚」だか知らんが、そいつが運転を替わって18:10「綿陽市汽車客運站」に着きました。
「そんなの客を降ろしてからやれよ」って感じですが、明らかに「遠回り」になったし、時間だって掛かりました。
だから「怒り爆発」。
メーター見れば金額は分かるけど、そんなに払うつもりは無いんで、わざと「いくら?」と聞きます。
が、案の定メーター通りの金額です。
ここで俺も「待ってました」とばかりに「テメェ、途中で友達送って遠回りして、メーター通り払えとは、どういう事や」と捲くし立てます。
こういう時は「中国語」なんて、むしろ出来ない方がいいんです。
アクションと相手が分からない「日本語」で怒りを伝えればいいんですから。
「19元」を「15元」にさせました。
だって、今日「綿陽市汽車客運站」から『富楽山』に行った時も「15元」でしたからね。
「タクシー」を降り、「綿陽市汽車客運站」で「閬中」行きを聞いてみるも…「無い」だって。
明日はまた「富楽汽車站」に行くことになったけど、「ホテル」はこの「綿陽市汽車客運站」付近じゃないと探せないからね…。

このように「火車站」にも近いので周囲にはたくさん「ホテル」があります。

適当に当たって、泊まった「ホテル」です。

でも周囲には「日本食」も「マック」や「ケンタ」も無く、「カップラーメン」と「パン」が今日の食事です。
中国の「カップラーメン」て、外や火車などで食べる人民が多いんで「フォーク」が必ず中に付いてるんですよ。

さぁ明日は『張飛』の墓参りをしに「閬中」へ行って来まーす。


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三国「蜀」終焉の旅④~四川省綿陽『富楽山』編

2007年09月30日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月30日(日)2/3

12:00「綿陽市汽車客運站」に着きました。
当初の計画では、この「綿陽」では2ヶ所(富楽山、西山公園)の三国史跡を巡るつもりでしたが、今日だけで「成都」→「徳陽(羅江)」→「綿陽」→「梓潼」→「綿陽」という移動なので、「綿陽」の三国史跡は『富楽山』だけに絞りました。
もう1ヶ所の三国史跡は『西山公園』という所にある『蒋琬』関連のものです。
『蒋琬』は『諸葛亮』の死に際して後事を託されました。
卓越した政治手腕を持ち、『諸葛亮』に「社稷之器(国家を担う器である)」と評されますが…「三国志」末期の人物だからね…。
俺の中での「三国志」は『諸葛亮』が死んだ時点で終わってるから…

まぁとにかく12:20「タクシー」で『富楽山』に着きました。

入場券(5元)を買い、門を入ると長い階段があり…

「亭」の中には「三国志」関連の絵が描かれています。
いくつか紹介しましょう。
ここにある『富楽堂』での『劉璋(左)』と『劉備(右)』の「宴」。

『劉備』に「蜀」を獲る三策を進言する『龐統』。
この『富楽山』での最重要目的は敷地内に点在する三国志登場人物の銅像を見る(写真に収める)ことです。
でも敷地内の建物などは案内標識があっても、銅像の案内標識までは無いので、ひたすら銅像を探して、広い敷地内を歩き回ることになります…

適当に歩いていると「三国志」のいろいろなシーンが彫られている橋を発見
左右17枚ずつありましたが、しゃがんで1枚ずつ一生懸命写真に撮ってる変な日本人がいます…って俺だよっ
いくつか紹介します。

「桃園結義」

「虎牢関」

「轅門射戟」

「煮酒論英雄」

「千里走単騎」

「三顧茅廬」

「長坂坡」

「舌戦群儒」

「載江奪阿斗」

「単刀会」

「定軍山」

また更に歩いて『富楽堂』へ。

その中の建物を覗くと…

『劉備(右)』らの魂胆も知らずに宴で持て成す『劉璋(左)』。
『富楽堂』を出て別の『富楽山』入口にありました…

『五虎将』像です
左から『黄忠』『趙雲』『関羽』『張飛』『馬超』です。

『五虎将』像の更に入口前にあったのが、『蜀漢四英』像です。
『諸葛亮(左から2番目)』と、あとは『費禕』『董允』『蒋琬』ですが、この3人のことをよく知らないので、どの像が誰か分かりません…
あと『富楽山』にある銅像は、俺の調査では『桃園三結義』像と『劉備&龐統』像です。
あと2つ見つけなきゃ…

この「五重塔」内には「三国演義」の名場面を再現した人形館もあるらしいんだけど、忘れてたし、時間の都合で塔に入りもしませんでした。
まぁ今までも(華中の旅で)「人形館」はいろいろ見て来たから…

ここは「綿州碑林」です。
『諸葛亮』の碑がありました。
『富楽山』内をほとんど彷徨いましたが、どうしても残り2つの像が見つかりません…
もう入場してから1時間半です。
再び入口に戻り従業員に聞いてみると、『桃園三結義』像は外にあるらしいです。
『劉備&龐統』像は一応場所を教えてもらい、再アタックするも付近には無さそうです…。

そしたら、まだ行っていない所があって、行ってみると『魚水君臣』像なるものを発見
これはサイトでも「紹介」されていなかった像です。
『諸葛亮(左)』は『劉備(右)』にとって「魚が水を得たようなもの」のような関係で、当初『関羽』や『張飛』は嫉妬していたらしいです。
その後も『劉備&龐統』像を探し求めて歩き続けましたが見つからず仕舞い。
いくら広いと言えど道がそんなにたくさんあるワケじゃないからね。
もう撤去されて、代わりに『魚水君臣』像が造られたのかなぁ…
もし、そうだとしたら、また『龐統』が妬くぞ…。

14:40『富楽山』を出て入口から交差点の方に歩いて行くとありました。
『桃園三結義』像です。
左から『関羽雲長』『劉備玄徳』『張飛益徳』だね。
来た時は入口前まで「タクシー」だったから気づかなかったよ。

さぁ次は「梓潼」まで移動しなきゃ…
「タクシー」を拾い、「長途汽車站まで」と言うも、運チャンは「どこまで行くんだ?」と。
「梓潼に行くんだ」と答えると、「タクシー」は2分も走らず、14:45「富楽汽車站」という所で停まりました。
こんな近くにも「汽車站」があったのかよ…。
運チャンに「梓潼行きあるの?」と確認したら「ある」と言うんで「初乗り5元」を払って降りました。
「綿陽市汽車客運站」しか無いと思っていたからね。
知ってりゃ、歩いても10分掛からない距離でした…
14:55「梓潼」行きの「バス」は出発しました。

それでは続きは次の更新にて。


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三国「蜀」終焉の旅④~四川省徳陽『ホウトウ祠墓』編

2007年09月30日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月30日(日)1/3
今日は「成都」を離れ、まず「徳陽」へ行き、それから「綿陽」、「梓潼」へ行き、翌日「閬中」へ行くために「綿陽」に戻って宿をとる予定です。
今日は行き先も多いし、移動時間がどのくらいか分からないので、6:15チェックアウトしました。
実際は「徳陽」から「羅江」へ行かなければならないので、どっち行きの「バス」も出ている可能性が高い「城北汽車站」まで「タクシー」で向かいます。
6:30「城北汽車站」に着きました。
「羅江」行きの切符は買えたけど、「羅江」行きの乗り場が無い…
「従業員」に聞くと、「17番に来る」と言うので待ちますが、いつ来るのかも分からないし、しかも「羅江」は途中下車しなければならないようです…。
7:30近くなっても、一向に「バス」が来ないので、「徳陽」行きに買い換えました。
「徳陽」行きなら本数も多いし、またそこから「羅江」に行けばいいので。
7:45「徳陽」行きの「バス」は出発しました。
1時間もロスしちゃったよ…

9:30「徳陽」に到着しました。
9:00には着くと見込んでたんだけどな…。
大分時間をロスしたので、「タクシー」で「羅江」の『龐統祠墓』へ行くことにしました。

30分くらい掛かり、10:00『龐統祠墓』入口に到着です。
今日から荷物を全部持っての移動なのに「小雨」が降っています。
「タクシー」には入口で待っててもらい、『龐統祠墓』に入りました。

ちょっと『龐統士元(179-214) 』について紹介しましょう。
現在の「湖北省襄樊市」の出身。
『諸葛亮』の『臥龍』に対し、『鳳雛』の異名を取る俊才で、若い頃は風采があがりませんでしたが、「司馬徽(水鏡先生)」に評価されたことによって名声を高めます。
人物評価を好み、「呉」の名士達とも親交があったため『周瑜』の幕下となりますが、『周瑜』が病死したためにその遺骸を送り届ける役目を担いました。
その後「荊州」を領有した『劉備』の元に転じ、「耒陽の県令」という職を任ぜられるものの、そこの仕事が滞ったために罷免されます。
これを聞いた「魯粛(呉の軍師)」は『劉備』に手紙で、「龐統は大役を与えてこその人物」と薦め、『諸葛亮』も取り成したので再び『劉備』の元に戻り、『諸葛亮』と同じ役職である「軍師中郎将」に任命されます。
『臥龍』、『鳳雛』のどちらかでも味方に付ければ天下が取れると言われていましたが、『劉備』はその両者とも配下にしました。
それが『劉備』の人徳ですよね。
『劉備』陣営の次の方策として西の「蜀」を獲ることが考えられていましたが、『劉備』は「蜀」の主が同族の「劉璋」であることを理由にこれを渋っていましたが、『龐統』は『諸葛亮』と共にこれを諫めて「蜀」を獲ることを『劉備』に決心させます。
「入蜀」に際しては『龐統』が『劉備』に同行し、『諸葛亮』は(荊州にて)留守とされました。
「蜀」に入った当初、「劉璋」が『劉備』たちの本心を知らずに「歓迎の宴」を開き、無防備になっていたので『龐統』は「この機会に劉璋を捕らえて戦う事無く蜀を取ってしまいましょう」と『劉備』に進言しましたが、『劉備』はこれを聞き入れませんでした。
その後、『劉備』軍は「漢中」の「張魯」と対峙する振りをして「成都にいる劉璋をどうやって攻めるか」を考えていましたが、東で『曹操』と『孫権』が戦い、『劉備』に対して援軍を求めてきたことを隠れ蓑にして軍団を移動させることを考えました。
この時に『龐統』は『劉備』に対して、「昼夜兼行で成都を強襲する上計」、「関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計」、「いったん、白帝まで退く下計」の三計を提示し、その結果『劉備』は「中計」を採用しました。
『劉備』軍は「成都」攻略の前に「雒」を包囲しましたが、この最中『龐統』は「流れ矢」に当たって死去しました。
享年36歳。『劉備』は『龐統』の死を大いに悲しみ、「関内侯」を追封し、『靖侯』と諡号を贈りました。
この「雒」の包囲は越年して(213年から214年に)行われており、『龐統』の没年は判然としていません。

ここが『龐統墓』です。
墓石には『漢靖侯龐士元之墓』と彫られています。

『龐統墓』前には廟があり、石碑がありますが、管理人らしき「ジジイ」が邪魔です…

『龐統祠墓』内には、どういう訳か『張飛殿』というのがあります。
でも中の『張飛』の塑像はガラスケースに入ってるし、しかもそのガラスが汚くて、うまく写真が撮れませんでした…
もうちょっとキレイに掃除してあげてよ…。

ここが『漢靖侯龐統祠』の門です。

まず最初の建物を覗いてみると…

『鳳雛(龐統)』と『臥龍(諸葛亮)』の塑像があります。

奥の建物にも『龐統』の塑像がありました。

その脇の建物(展示室?)にも『龐統』の塑像がありました。

10:30またこんな道を通って入口(出口)まで戻ります。

調査では、この近辺に『落鳳坡』の石碑があるらしいので従業員に聞くと、「あの向こうだ、15分くらい歩くぞ」と門を指差して教えてくれました。
停めていた「タクシー」に「ちょっと下まで行って来るから待ってて」と言って山道を下りました。

歩けど全然見付からず、もう「引き返そう」と思ってたら、やっと発見出来ました

『漢靖侯龐鳳雛先生尽忠処』と『落鳳坡』の石碑です。

『三国演義』においては『龐統』の兄弟が『諸葛亮』の妹を娶り、義兄弟となります。
「赤壁の戦い」において『周瑜』に対して『曹操』を破るための忠告を行ないます。
それは『周瑜』は『曹操』軍の軍船を火責めにしようと考えていましたが、「火をつければ他の船は逃げてしまい、火は燃え広がらない」と言うことでした。
そこで『龐統』は「連環の計」と呼ばれる策を『周瑜』に勧めました。
この策は『龐統』自身が『周瑜』の陣営に来た「蒋幹」をうまく欺いて、『曹操』の軍営に潜り込み、『曹操』と面会して「北方人の弱点」である「船酔い対策」として船同士を鎖で繋げることを進言しました。
このことにより「火」がつけば『曹操』軍は逃げられないようになり、『劉備・孫権』の連合軍による火責めで『曹操』軍は大破されたということになっています。
また『曹操』の臣下となった親友の「徐庶」が「赤壁の火計」に巻き込まれないように、絶妙な方法を授けています。

その後『周瑜』の葬儀に参列した『諸葛亮』と対面し、『劉備』への仕官を誘われます。
一度「魯粛」によって『孫権』の下へ引見されますが、「醜い風貌」と「歯に衣着せぬ言動」から疎まれてしまいます。
結局『劉備』の元へ訪れますが、『劉備』が『龐統』の風貌を見て『諸葛亮』が推挙する『龐統』なのかが分からず、閑職の「地方県令」をあてがいました。
『劉備』には人を見る目がないと思ったのか、「県令」の仕事を一切行わずに1ヶ月の間酒ばかり飲んで職務を怠けていました。
村人からの訴えにより派遣された『張飛』が詰問しに来たところ、それまで溜まっていた1ヶ月分の仕事を半日で全て片付けたため、その才能を『劉備』に認められ、さらに『劉備』は自身の行為を戒めることになりました。

また死去の場面では、『劉備』の代わりに危険な間道を進み、『劉備』の愛馬「的盧」に乗っていたので『劉備』と間違えられて伏兵に会い、『落鳳坡』という所で射殺される設定となっています。
ちなみに『落鳳坡』という地名は『龐統』の死後名付けられたと思われます。

その『落鳳坡』がここってわけね?(本当かなぁ?
『龐統』は『劉備』の「入蜀」の際、『諸葛亮』が「荊州」にて留守をすることになったので『劉備』に「もっと自分を認めさせたい」と思っていたんですね。
それは同じ「軍師」として『諸葛亮』に対する嫉妬心からです。
それが死を早めてしまったのかも知れませんね…。

周囲はこんな感じです。

10:55『龐統祠墓』入口まで戻りました。
小雨降る中、「サンダル」で早歩きしてたので足が泥だらけですよ…

それから「綿陽」まで行くために「羅江汽車站」まで「タクシー」で行きました。
11:10「羅江汽車站」に到着しました。
「綿陽」行きの「バス」は11:15に出発しました。

では、続きは“綿陽『富楽山』編”でレポートします。


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三国「蜀」終焉の旅③~四川省自貢『西秦会館』、宜賓『丞相祠』後編

2007年09月29日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月29日(土)2/2
さて続きですが、先程の「神殿?」から少し行くとありました…

『孔明井』です。

きっと『諸葛亮』が使ってたから『孔明井』と言うんだろうけど、まだよく調べていません…

なかなかいい眺めですね。
この『孔明井』まで来る時、案内図に「点将台」と書かれていたのを見たので、それも探しに行きます。
サイトの情報では、この「江北公園」は『丞相祠』と『孔明井』しか紹介されていなかったので、その「点将台」が「三国史跡」関連なのかは分かりません…
とりあえず時間はまだあるんで探索してみました。

「点将台」というからには「高台」にあるんだろう…と勝手に解釈し、裏手の山の方へ行ってみました。

更に山奥へ続く怪しい道を発見
ガキの頃にした「探検ごっこ」みたいに「薮」の中を登って行くと…

「こんなの」を発見

碑には『蜀丞相諸葛武侯推演兵法処也』と彫られています。
その碑の下は「八卦陣」になってるのが分かりますか?
でも偶然発見した「三国史跡」だから、ここで『諸葛亮』が何をしたのか?よく分からないんだよね…

先の方に「亭」が見えます。
あれが「点将台」かな?

行ってみましたが違いました。
その「亭」から、さっきの「碑」があった所を撮りました。
もう「点将台」は諦めて帰路についたんだけど、この記事を編集してて気が付いたよ。
ここ(写真)が「点将台」なんじゃ~ん
まぁ何か「字」が書いてあったから写真に撮ってたんだけど、字が「繁体字」で、右から読まなきゃならないんで今まで気付かなかった…
アップでも撮ってたので説明を読んだら、『諸葛亮』が「南征時に兵を招集した所」だそうです。
なんか部屋に居ながら、1つ「史跡」を発見しちゃって、変な感じ…
13:05「江北公園」を出て、「タクシー」で13:10「宜賓汽車站」に着きました。
あとは「成都」に帰るだけですが、切符売場で「成都(Cheng du)」と言うも「無い」と言われました。
行きは「成都宜賓」があるのに、帰りが無いわけがない。
まだ13時すぎだし、「省都」に行く「バス」がですよ。
今度は別の窓口で「成都」と書いたメモを見せて切符を買うことが出来ました。
俺の発音が悪すぎて、違う地名と聞き間違えられたんだな…
切符は買ったけど「99元」という高値でした。
行きに「成都宜賓」を見たときは「60~70元」くらいだった気がしたのに…。
まぁこういう「バスターミナル」が人を騙すような事は無いだろうから、文句は無いけどさ。

13:45「バス」は出発し、17:30「成都汽車総站」に到着。

「成都汽車総站」から少し歩くと「塔子山公園」というのがありました。
この塔は「九天楼」といいます…って今記事を編集しながら調べました。
まだ18時前だし、市内の史跡探索をしようと「タクシー」を拾って、中国のネットから出した情報を「運チャン」に見せるも、全然「知らない」ってよ。
ちょっとマニアックすぎた要求でした…
『黄忠祠(址)』が残っている「黄忠村」にも行ってみようかと思ったけど、着いた「成都汽車総站」から「黄忠村」は遠いんで断念しました。
まぁ行っても「文化大革命」で壊された「廃祠」があるだけだからさ…

もう「ホテル」に帰ることにしました。
「成都汽車総站」→「塔子山公園」→「成都飯店」は一直線です。
17:45「タクシー」に乗り、18:00「成都飯店」に着きました。
ここが3泊した「成都飯店」です。
昨日、今日と「成都」を拠点に近郊の町へ出たので「ホテル」を替えないで、3泊で予約していました。
「1泊=220元」とちょっと予算オーバーだけど、他にネットで探せなかったしさ。

「タクシー」で「ホテル」に帰る途中に「カルフール」を見つけました。
「ホテル」から歩ける距離だったので、部屋で30分ほど休んで、18:45「カルフール」に着きました。
ここは「無錫店(8.9、10ブログ参照)」と違い「日本料理店」も「味千ラーメン」も入っていませんでした。
ちょっと店内で買い物をして19:30に出ました。

19:50「ホテル」に帰って、「カルフール」にあった「マック」を夕飯にします。
あと「カルフール」で「プリンケーキ」も買いました。
これ、今日初めての食事だ…
だから「カルフール」でお菓子を買い込みました。
これを明日以降移動中に食べれば、少しは「腹の足し」になるでしょう?
俺ね…中国のトイレ事情の問題もあるから、あまり食べないんだよね…。

さて2日間、「成都」とその周辺の「三国史跡」を巡って来ましたが、まだ周辺には「史跡」があり、「址地」なんかも含めたらえらい数になると思います。
まぁでも俺にとっては、これで満足かな。
また機会があれば、次回は「世界遺産」をメインに「成都」に来て、余った時間で「三国史跡巡り」をしたいですね。
明日は「成都」を離れ、「徳陽綿陽梓潼」の「三国史跡」に行って来まーす。


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三国「蜀」終焉の旅③~四川省自貢『西秦会館』、宜賓『丞相祠』前編

2007年09月29日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月29日(土)1/2
さて今日の目的地は「成都」から南へ4時間ほどの「宜賓」とその途中の「自貢」という町に行きます。
元々この「宜賓」と「自貢」は旅程には入れていませんでしたが、「どうせ四川省に行くんだから、行ってみるか…」って感じで加えたんです。
そのおかげで今回の旅は「国慶節」休暇だけでは収まらず、有休を使うことになったんですがね…
とにかく今日は遠出なので5:00「起床」しました。
一応「ホテル」は朝食が付いてるんだけど、6:30からなので何も食わず(昨日は朝食食べてから出ました)、6:20「ホテル」を出ました。
「ホテル」前から「タクシー」に乗り、「宜賓」や「自貢」行きが出ている「北門汽車站」に向かいます。
まだ外は真っ暗ですよ…
6:35「北門汽車站」に着きました。
「自貢」は「宜賓」の手前の町で大体「成都」から3時間くらいです。
「宜賓」、「自貢」どっちから先に行ってもいいんで、発車時間で決める事にしました。
今の「時間」は6:40…「宜賓」行きは7:20発。
「自貢」行きは7:00発だったので、「自貢」から行く事にしました。

6:55「バス」は出発し、9:55「自貢汽車站」に到着。
読み通り3時間だったね。
この「自貢」での目的は『西秦会館』へ行くことです。

「汽車站」から「タクシー」を拾い、10分ほどで『西秦会館』に到着。(10:05)

『西秦会館』は1752年竣工です。

この『西秦会館』は寺名「武聖宮」で、「関帝廟」とも呼ばれているらしいです。
だから来てみたんだけど…。
「安徽省亳州・花戯楼」(8.15ブログ参照)と同じですね。
「関帝廟」という呼び名もあるものの、『関羽』に関係ある物は何もありませんでした…

これが中の「本殿」かな?

このように「自貢市塩業歴史博物館」として使われています。
ちょっと見て、10:30『西秦会館』を出ました。
今日はここだけが目的なら来ていないでしょう…
真の目的は「宜賓」ですからね。
でも「宜賓」1ヶ所だけだと、それも面白くないからさ。
それで通り道の「自貢」も旅程に加えた程度のことなので。
また「タクシー」で「自貢汽車站」に戻ります。
10:40「汽車站」に着き、次は「宜賓」へ向かいます。

「バス」は11:00に出発し、12:00「宜賓汽車站」に着きました。
ここ「宜賓」で目指す場所も1ヶ所です…。
また「汽車站」で「タクシー」を拾い(行き先言ったら2台乗車拒否された)、「江北公園」に向かいます。

この「江北公園」には『丞相祠』があるんです。

公園は無料で入れます。
入るとすぐ見える「忠」の字。

ちょっとした山道を登って行くと『丞相祠堂』があります。

「位牌」には『漢丞相諸葛忠武侯先賢位』と書かれています。
中には左右4体ずつ塑像があります。
まず左側から紹介しましょう。

「李厳」、「姜維」

『馬超』、『趙雲』

これは奥から撮った右側の塑像です。
こっちも紹介します。

「馬忠」、『黄忠』

『張飛』、『関羽』
塑像の後ろには『諸葛亮』の活躍が描かれていますね。

そして奥の建物に入ると…

蜀漢丞相『諸葛亮』がいます。

左側には孫「諸葛尚」、右側には息子「諸葛瞻」が。

この『丞相祠』(写真左)、隣には『関帝廟』が併設されていました
サイト(日本)でも、ここに『関帝廟』がある…とは紹介してなかったですからね。

『宜賓関帝廟』とでも名付けておきましょうか。

中央の『関羽』の塑像です。

左右はお馴染みの「周倉」と「関平」ね。

しかし『丞相祠』が「入場料2元」で、しかも『関帝廟』まで見られるなんて。
「10元」以上出しても見る価値ありですよ。(それでも安い
『宜賓関帝廟』を出て、この「江北公園」内の、もう一つの「三国史跡」である『孔明井』を目指します。
その途中には「神」を祀る祠がありましたが、ちょっと覗いて「三国志関連じゃない」と分かると素通りです。

それじゃ、また続きは「後編」でお楽しみください。
たくさん写真を載せて紹介したいんでね…


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三国「蜀」終焉の旅②~四川省新津『先主寺』、成都『市内』編

2007年09月28日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月28日(金)3/3
さて「続き」からですね。
13:50「大邑客運中心」に着き、「バス」は程なく出発しました。

15:00「新津客運站」に到着。
サイトでの調査では「新津客運站」から『先主寺』まで行く「乗合いタクシー」が出ているらしいんだけど…どこにいるのか分からない…
「客運站」の従業員に聞いて、「乗合いタクシー」乗り場を見つけました。

15:10「ワゴン車(乗合いタクシー)」は出発し、15:25『先主寺』に着きました。
「先主」とは『劉備』のことを指すので、「劉備寺」ってことやね。

特に「拝観料」も無く、中に入れました。

中央に『劉備』の塑像があります。
その両脇には『諸葛亮(右)』と『龐統(左)』の塑像もありました。

右側には『張飛』の塑像があります。
従えてるのは息子の「張苞」かな?(どっちかが)
左側には『関羽』の塑像があります。
従えてるのは「関興(左)」と「関平(右)」ですね。
珍しく(左は)「周倉」じゃないね。

今度は右側の建物を覗いてみました。

中央にあったのは明らかに「三国関連人物」では無い、「神」の塑像でしたが左右にあったのは、左に『諸葛亮』?、右は「誰」なんだろう…ちょっと雰囲気が『劉備』っぽいけど…

15:45『先主寺』を出ましたが「ワゴン車」がいない…
どうやって「新津客運站」まで帰りゃいいんだ?
でも探したら近くに停まってた…よかった~。
16:05「新津客運站」に着き、「成都」まで帰ります。

16:20「バス」は発車し、17:20「成都新南門汽車站」に着きました。
この「成都新南門汽車站」に着く前に車窓から『老南門大橋』を確認していたので、下車後そこを目指します。

17:40『老南門大橋』に着きました。
別名「万里橋」といい、『諸葛亮』が「費褘」を「呉」に遣わした時に、ここで宴会を開き、見送ったといいます。
「費褘」は「万里の路はこの橋より始まる」と詠みました。

『老南門大橋』を渡り、『洗面橋文化広場』を目指す途中の公園で見つけました。

写真(左)は『諸葛亮』、写真(右)は『張飛(左)』と『関羽(右)』です。

この橋は『成都武侯祠』から市中心に向かうとある橋です。
(さっきの『老南門大橋』と同じ川に架かっています)
左右8枚ずつ「三国志登場人物」が描かれていました。
主な人物を紹介しましょう。

『劉備玄徳』

『諸葛亮孔明』

『趙雲子龍』

『張飛益徳』(「三国演義」では『張飛翼徳』)

『関羽雲長』

橋の先には「臥龍園」という公園がありました。
とにかく公園とか見つけると「何か」あるかも知れないので必ず入ります。

やっぱありましたね。
「甕(かめ)」に「三国志」関連の絵が彫られています。

18:15やっと『洗面橋文化広場』に着きました。
ここは「史跡アタッカーさん(仮)」がサイトにレポートしていない場所で、俺は中国サイトから情報を入手しました。

『劉備』の「銅像」のみが単独であるなんて珍しいと思います。

「10月1日」には「国慶節」のイベントがあるみたいですね。

そのステージのせいで見落としそうになった「洗面橋」の由来の碑と、ステージのボード裏に隠されていた壁画です。
『劉備』は『関羽』の死を悼み、ここに廟を建て『関羽』の衣冠を供奉しました。
『劉備』は毎度この『衣冠廟』を参拝する前に、廟前の「河畔」で顔を洗って清めていたそうです。
それが「洗面橋」の由来らしいです。

『洗面橋文化広場』を出て、更に歩きます。
通りで見つけた「麺店」です。
これが有名な「3回店に来て、やっと食べられる」という(そんな訳ないよ)「三顧麺」かぁ。

もはや地名としてしか残っていない『衣冠廟』。

『衣冠廟』から、この『神仙樹』辺りに、昔は『関羽衣冠墓』があったようです。
この『神仙樹公園』内を探索しましたが何もありませんでした。
もう19:15…約2時間「市内」を探索して、まあまあの成果はあったかな。
もう陽も落ちてきたので「タクシー」を拾って、19:45「ホテル」に戻りました。

いつものことながら日中は、ほとんど何も食べていないんでね…。
20:00すぎ「ホテル」近くの食堂で「麻婆豆腐」と「水餃子」を食べました。
やっぱ「四川省」に来たからには「麻婆豆腐」は食わなきゃね。
俺の最も好きな「中華料理」だし。
やっぱ本場の「麻婆豆腐」は美味しかったですよ。
20:45「ホテル」に帰りました。

今日(28日)は俺の「誕生日」だったんですが、この日に『成都武侯祠』を見れて「幸せいっぱい」でした。
「三国志グッズ」もいろいろ入手出来たし。
さて明日も、この「成都」を拠点に「三国史跡」をハントして来ます。


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三国「蜀」終焉の旅②~四川省成都『成都武侯祠』後編、大邑『子龍祠』編

2007年09月28日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月28日(金)2/3

続いて『三義廟』を出て『桃園』へ。

『劉備』『関羽』『張飛』の3人が「義兄弟」の契り(桃園結義)を交わした「桃園」です(…って、ここが本当のその地ではないよ)。
3人は「生まれた年月日は違えど、死ぬときは3人同じ日に死のう」と固い「絆」で結ばれます。

中央のが『劉備』の石像ですね。

やっぱり左は『張飛』です。

そして右の赤い石像が『関羽』ですね。

え…「お…お前は誰や」。

次は『孔明苑』へ。

『諸葛亮孔明』になった気分で写真が撮れます。(もち有料

『諸葛亮』開発の「木牛流馬」です。

これも『諸葛亮』開発の「孔明鎖」だって。

『孔明苑』を出て『恵陵(劉備墓)』へ向かいます。
これは『恵陵』へ続く道です。

『恵陵』の入口です。
墓碑には『漢昭烈皇帝之(墓?陵?)←削れてる』と彫られています。

裏側は『漢昭烈之陵』と書かれています。

高さ12m、周囲180mの「墓陵」です。
1周してみたけど、特に何もありませんでした。

これが『漢昭烈陵』の正門かな?

続いて『三国文化陳列室』に入ります。
でも文化的な遺跡には興味が無いので、早々に出ました。
『成都武侯祠』内は大変広く、まだ見ていない所もありましたが、主要な所は大体見れたので「お土産屋」に入り、「三国志グッズ」を物色します。

そして11:15『成都武侯祠』を出ました。

『成都武侯祠』の右側から『錦里』という「三国時代」の街並みを再現した400mほどのストリートに入れます。

「旅館」「レストラン」「土産物屋」など、いろいろあります。

でも今日は(も)そんなにゆっくり出来ないので、『錦里』はちょっとだけ覗いて出ました。
この後、「バス」で1時間ほどの町「大邑」と、更にそこから1時間ほどの町「新津」に行かなきゃならないんでさ。
『成都武侯祠』から少し歩いた所で「タクシー」を拾い、「大邑」行きの「バス」がある「金沙車站」へ向かいます。

11:45「金沙車站」に到着。

11:55「大邑」行きの「バス」は出発し、12:50「大邑客運中心」に到着。
この「大邑県」は「成都」から西へ行った所の町です。
ここから目的地の『静恵山公園』までは、初の「チャリタク」で行きました。

13:05『静恵山公園』に到着。

入園料はありませんでしたが、『子龍祠』は園内の「山頂」付近にあるので、ひたすら登山です。

これは『趙雲』ファンの「有志」が建てた碑のようです。

登山10分ほどで『子龍祠』の入口に着きました~。

ここが『趙雲子龍』を祀っている『子龍祠』です。

ここの『趙雲』の塑像も「ジジイ・バージョン」だ…

右側は若かりし頃の「長坂坡」での『趙雲』ですね。

左側は絵で「長坂坡」での『趙雲』が描かれています。
「阿斗(劉禅)」を『趙雲』に託し、井戸に身を投げる「劉備夫人」まで描かれているとは。
そこまでして救った「劉禅」がアホで「蜀」が滅んだんだから嘆かわしい限り…。

祠の装飾なども見逃しませんよ
『趙雲』が彫刻されています。

『子龍祠』のちょっと奥にある『望羌台』です。
『趙雲』は晩年この地に駐屯し、敵を防ぐために「土城」を築きました。
現在ある台は当然修繕したものですが。
ちなみに『趙雲』は病死後、隣の「錦屏山麓」に埋葬されていました。
しかし「文化大革命」の影響で、墓前にあった『子龍祠』もろとも墓は破壊され、『子龍祠』だけこの『静恵山公園』に再建されたようです。
「まったく何てことしやがるんだ、毛(沢東)のヤロー
13:40『静恵山公園』を出て、また「チャリタク」で13:50「大邑客運中心」に着きました。
次は「大邑」から東南へ1時間ほどの町「新津」へ向かいます。
また字数の都合上、続きは次の更新でレポートしますね。


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三国「蜀」終焉の旅②~四川省成都『成都武侯祠』前編

2007年09月28日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月28日(金)1/3
それでは“三国「蜀」終焉の旅”と題した今回の旅のレポートの始まりでーす 
まず、ざっと「27日」の「成都」到着までを綴ってから、「28日」の『成都武侯祠』編にいきたいと思います。
9月27日(木)は「仕事」を終えてから、12:20学校を出発しました。
しかし、あいにくの「雨」です…
出発から「傘」を使うハメになるとは…
また、いつも通り近くで「タクシー」を拾って(輪タクは汽車站前まで行かない可能性があるので)行こうとしたら、ある「男子生徒」が車で担任と、もう1人の教師(彼女たちは国慶節休暇は実家に帰るらしい)を「火車站」まで送って行くところで、俺も乗せて行ってもらえました。
12:35「汽車站」に着き、12:40「済南」行きの「バス」は出発しました。
そして15:10「済南汽車站」に着き、「汽車站」の「ケンタッキー」で昼食を買って、15:25「タクシー」に乗りました。
15:45「空港」までの「バス」が出ている「玉泉森信大酒店」に着くも、「空港」行きの「バス」が停まっていない…
あれ… もう、ここからの「バス」は無くなったのか…と思っていたら「空港まで行くのか?」と「オッさん」が話し掛けてきました。
「こっちだ」と言うから「停車場」が変わったのかと思ったら「白タク」で、「バス」なら「20元」で行くのに「40元」と言う。
「高けぇー」と言ったら「30元」になったけど、ここから「空港」に行くには、これしか手段は無いのか…と思ってたら「バス」到着
「バス」が来てしまえば「白タク」使うアホはいないんで、「オッさん」も引き上げです。
「バス」は16:00出発しました。
「バス」内で「ケンタ」を食べ、16:55「空港」に到着~。
「飛行機」は19:00発で、予定通り21:15「成都」に着きました。
21:30「成都」市内まで出る「バス」に乗り、21:50下車するも「ホテル」まで近いのか遠いのかも分からない…
とりあえず「タクシー」を拾って、22:05ネットで予約しておいた「ホテル」に着きました。
夜中は「雷」が鳴ってて、明日の天気が心配でした。

そして今日(28日)は『成都武侯祠』に行きます
天気は「霧雨」がちょっと降ってて「傘」を持って出掛けました。
昨日「チェックイン」の際、フロントで「成都」の市内地図を貰えたので、それを頼りに7:20「ホテル」を出て周辺の「三国史跡」を探しながら、8:00くらいに『成都武侯祠』に着けば…って目論んでいたんだけど…甘かった。
「ホテル」から歩いて『諸葛亮点将台』があったと言う「点将台街」に行くも、もうここは地名しか残っておらず何も無し。
そのまま歩いて『三義廟』があったと言う「提督街」、『丞相府』があったと言う「紅照壁」に行こうとするも道が分からなくなり、偶然『三聖祠』があったと言う「青年路」に着くも、もうそれらは全て地名しか残っていません。
時間も8:15になってしまったので「タクシー」を拾って『成都武侯祠』に向かいました。

8:35『成都武侯祠』に着きました。
まさにここは“「三国志」好き”にとっては「聖地」のような場所です。
「入場券(60元)」を買って「大門(写真)」を入ると…

「二門」が見えます。
「二門」に向かう左右にあるのが…

左側にあるのが「明碑」。

そして右側にあるのが「唐碑」です。
809年に創られ、全名は『蜀丞相諸葛武侯祠堂碑』と言います。
これは「唐」朝の著名な宰相「裴度」が原稿し、有名な書道家の「柳公綽」が筆をとって書き、名匠「魯建」が彫刻した石碑で、その「文章・筆跡・石彫り」の全てが優れていたので『三絶碑』とも呼ばれています。

「二門」をくぐります。

これが『漢昭烈廟』(別名「劉備廟」、「先主廟」)です。

中央にある『劉備(昭烈皇帝)』の塑像です。
1672年に創られたものだって。

右側にあったのが『劉備』の孫「劉」の塑像です。
ここには『劉備』の息子「劉禅」は祀られていません。
「劉禅」は『劉備』の死(223年)後、「蜀」の皇帝を継ぎますが「ダメな二代目」そのもので『諸葛亮』の死(234年)後は、「魏」に降伏(263年)し、「蜀」を滅ぼしました。
その時「劉」は「魏」との決戦を主張するも、父「劉禅」の反対に憤慨し、「先帝(劉備)」と「蜀」のために自害します。
だから「劉禅」は祀られておらず、「劉」が祀られているんですね。
この塑像は1788年に創られたものです。
それから『漢昭烈廟』の左右の個室にあるのが…

左側の個室にあるのが『張飛』の塑像。
…って「化け物」みたいやな。

右側の個室にあるのが『関羽』の塑像。
なんかイメージと違うなぁ…
ほとんどの塑像が1700~1800年代に造られており、保護するためか暗室で「ガラスケース」に入ってるから、うまく写真が撮れないや。

「周倉(右)」と「関興(左)」の塑像。

これは「関平(左)」の塑像。
「二門」から『漢昭烈廟』に向かう右側には「文臣廊」があり、「文臣」14名の塑像があります…って、そんなにあったかな。
いくつか紹介します。

これは「費褘」。

これは「蒋琬」。
「二門」から『漢昭烈廟』に向かう左側には「武将廊」があり、「武将」14名の塑像があります…って、これもそんなにあったかな?
見落としたかな?
またいくつか紹介します。

これは『黄忠』。

これは『姜維』。

これは『馬超』。

そして『趙雲』です…って「ジジイ」になってる。

『漢昭烈廟』を出て『武侯祠』に向かいます。

これが『武侯祠』です。
『武侯』とは『諸葛亮』のことです。
だから、この『成都武侯祠』は『諸葛亮』のためのものなんですね。
『恵陵』という「劉備墓」もあるのにね。

『武侯祠』内の中央に『諸葛亮』の塑像があります。

左側には息子の「諸葛瞻」の塑像があります。

右側には孫の「諸葛尚」の塑像があります。

『武侯祠』を出ると『三義廟』があります。
以前は「提督街」にあったものが、今は『武侯祠』内に移転されています。

中央に『劉備』の塑像。

左に『張飛』の塑像。

右に『関羽』の塑像があります。
3人ともこの『三義廟』の塑像の方がカッコいいよね。
まぁそれだけ『漢昭烈廟』内の塑像より造られた年代が新しいからだけど。

次は『桃園』に行きますが、字数の都合上で続きは“『成都武侯祠』後編”でレポートします。


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三国「蜀」終焉の旅①~出発『旅程』編

2007年09月27日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月27日(木)
明日から「国慶節」休暇が始まります。
でも、俺は時間を無駄に出来ないので、通常午前3・4と午後1・2の授業(今週もほとんど資料作成だが…)なんだけど、今日は午前1時間目から4時間(1コマ=45分だけど)通しで「仕事」して、12:30には学校を出発するつもりです。
今日のうちに「四川省・成都」に入っておきたいんでね。
だから、いつも8:30起きなのに、今日は7:00起きですよ~
そしたら「午後の授業はありません」だって…
だったら午前3・4だけ「仕事」入れときゃよかったんじゃん
早起きしちゃったから、ずっと「大学資料」作りしてましたよ。
しかも今日は朝からずっと雨です。
まぁ「四川省」が晴れててくれりゃいいんだけど、最初から「傘」差して出発かぁ…。

飛行機は前回の「華中の旅(8.4~8.17ブログ参照)」と同じく「済南空港」発を手配しました。
19:00フライトなので、遅くとも17:30には「済南空港」に着いておかなきゃ。
今回の旅は題して『三国「蜀」終焉の旅』って感じかな…
「劉備」や「諸葛亮」など…「蜀」で活躍していた人たちの「墓参り」みたいな旅ですよ…。

それじゃ、今回の主な旅程をお知らせします。
9月27日(木) (PM)青州→済南、済南(19:00)→成都(21:15)
9月28日(金) 四川省・成都「武侯祠(劉備墓)」、大邑「趙雲墓」、新津「先主寺」
9月29日(土) 宜賓「丞相祠」、自貢「西秦会館」
9月30日(日) 羅江「龐統墓」、綿陽「富楽山」、梓潼「臥龍山」「七曲山大廟」
10月1日(月) 閬中「張飛墓」、広元「昭化古城」
10月2日(火) 陝西省・勉県「武侯墓(諸葛亮墓)」「馬超墓」
10月3日(水) 甘粛省・天水「諸葛軍塁」、秦安「街亭古戦場」、甘谷「姜維墓」
10月4日(木) 陝西省・岐山「五丈原・諸葛廟」
10月5日(金) 山西省・運城「解州関帝廟」
10月6日(土) 河南省・洛陽「関林」
10月7日(日) 山東省・青州市(帰宅)

実は「国慶節」休暇は「9月28日~10月5日」なんですよね~。
「2日」オーバーです 
もう「有休」使うしか無いですね…。
わざわざ「四川省」まで行くんだから、行ける所は行っておかなきゃね。
「四川省」には「九寨溝」「黄龍」「都江堰」「楽山(大仏)」「臥龍(パンダ)」、「重慶市」には「大足(石窟)」と…「世界遺産」がたくさんあるんです。
でも今回の旅行は全て「三国史跡」のみ…ですね。
もう完全な「三国史跡ハンター」ですな…
しかも「四川」「甘粛」「陝西」「山西」「河南」「山東」と、「華中の旅」と同じく6省をまたぐ旅ですね。
ただ今回は「華中の旅」と違い、「成都市」「洛陽市」以外は小規模な町なのでね…。
移動手段や所要時間などが心配ですが…。
まぁ何とかなるでしょう。

それじゃ、行って来ま~す。


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日帰り「三国史跡」巡り・第3弾~高密市『鄭公祠』編

2007年09月23日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
9月23日(日)
今日で3週目になりました“日帰り「三国史跡」巡り”ですが、前回の更新で書いたとおり「高密市」に行って来ました。
朝7:08発の「火車(列車)」なので、6:30に「M先生」と学校を出発しました。
「火車」に乗るのも、5月に「M先生」と一緒に行った「中国・悠久の古都」旅行(4月29日~5月5日ブログ参照)以来です。
あの頃の俺はまだ「三国史跡ハンター」では無く、ただの「世界遺産ハンター」だった…
それが今では…「三国史跡」専門ハンターです。
これは、もう来週に迫った「国慶節」旅行で実証されると思いますが…

6:45ごろ駅に着くと、あるクラスのカップルと、その女子生徒の妹がいました。
その女子生徒の方は最近「東京」の某大学に「合格」したんで、妹を「青島」から「青州」に連れて来ていたらしいです。
で、今日は妹を「青島」に連れて帰るらしく、男子生徒は「見送り」で来てたんだって。
でも、その女子生徒の妹って「5歳」ですよ…。
確か、その女子生徒は「20歳」くらいだから…えらい歳の差だよね。
けっこう中国って、そういう歳の差が激しい「兄弟姉妹」って多いですよ。
「火車」は7:08発だったのに、20分以上遅れて来ました。
女子生徒も同じ「火車」だったんだけど、お互い「無座」だったんで別れました。

9:00ごろ「高密站」に着きました。

これが「高密站」です。
町も「青州市」の方が、まだマシです。
次は「バス」で「双羊鎮」まで行くため、「汽車(バス)站」に向かいますが…ここで「高密市」が実家の男子生徒とその彼女にバッタリ会いました。
彼は春に「岡山県」の某大学に「合格」してて、本来ならもう「日本」に行ってなければいけないんですが「ビザ」が下りてないんです。
彼もこれから「青島」に行く彼女を「駅」まで送りに行くとこでした。
彼女(うちの生徒ではない)とは「春の遠足」で一度会っていますけどね。

「高密站」から徒歩5分くらいで「汽車站」に到着。

そして10:15「双羊鎮」に着きました。

それから15分ほど歩き、10:30「鄭玄像」に着きました
今日の目的は、この「鄭玄」の故里である「高密市双羊鎮」を訪ねることです。
だって「X」の墓がメインだと…見つけられなかったり、「ニセモノ」や「ガセネタ」だったらイヤだしさ。
さて、次はここから西にあるという「鄭公祠」へ行きます。
でも「史跡アタッカーさん(仮)」のサイトでは、この「鄭玄像」のある場所から「約6、7Km」と紹介されていますが…歩くのはキツイし、西ってどっちだろう?
しかも「タクシー」なんて通りゃしない…

近くの店の人かな?
「とうもろこし(写真)」を干してる?人に「M先生」が尋ねてくれました。
そしたら主人が「バイタク(バイクタクシー)」してくれると言うんです。
じゃ、「ヨロシク」って事で3ケツで「鄭公祠」を目指します。

ずっと、こんな感じの道を進みます。

農道だし、3ケツだし、「バイク(写真)」もボロい…30分くらい掛かって、ようやく11:00「鄭公祠」に着きました。

「鄭公祠」前の道だって、こんなですよ…
「諸葛亮故里」(7.22ブログ参照)の時の場所も凄かったが…今回の場所は1人だったら行けてないよ。
入場料も「2元」という安さです。

入ると奥にある「碑」です。

そして、これが「鄭公祠」と「鄭玄」が植えたとされる「柏の木」です。
…が「柏の木」は、もう枯れています。
「廟」に入ってみましょう。

「鄭玄(128-200)」です。
「三国志」に出てきた時の「鄭玄」は晩年の「オジイサン」の印象しかありませんが…。

息子の「鄭益恩(170-196)」。
若くして「孔融」(9.10ブログ参照)を救うために「死亡(戦死?)」してるんですね。

「鄭玄」の孫「鄭小同(196-259)」。
彼は「魏」に仕えていたようです。

「祠」の裏手にある「墓陵」と「墓碑」です。

そして、この「人民政府」が認定した「碑」、これが無い墓は「ニセモノ」か、単なる「言い伝え」ですよ…。
ここで「運チャン」に「X」の墓の事を聞いてみると、「ある」って
半信半疑で「高密市」まで来たんだけど、本当に「ある」とは。
…でも肝心な「人民政府」の「認定碑」や「墓碑」があるかは「知らない」って。
「X」の墓までは、また「運チャン」の店まで戻り、今度は北に行くんです。

じゃあ、ちょっと「鄭玄」について説明しておきましょう。
「後漢」時代の学者で、「宋」代の「朱子」と並ぶ「経学」の大成者でした。
若年は「下級官吏」となりますが「党錮の禁」に連座して10年間「獄」につながれ、その後は生涯仕えずに学問に専念しました。
ここらも「後漢」時代は「青州」でしたが、ここを統治していた「袁紹」に慕われていて、「曹操」に攻め込まれようとしていた「徐州」の「劉備」を助けるよう「袁紹」に手紙を書き、「袁紹」が「曹操」を攻めることで「劉備」の窮地を救っています。
が、その後「曹操暗殺計画」に「劉備」も賛同していたのが「曹操」に発覚してしまい、「徐州」は「曹操」に落とされ「劉備」は「袁紹」のいる「冀州」に逃げ延び、「張飛」は行方不明に、「関羽」は「下邳」で「曹操」軍の「張遼」の説得により降伏(8.16ブログ参照)します。
で、「鄭玄」ですが、その後「袁紹」軍Vs「曹操」軍の「官渡の戦い(200年)」で「袁紹」に従軍させられ、その途中で「病死」してしまいます。
だって「72歳」だもん…可哀想に。
11:30「鄭公祠」を出て、「X」の墓へ向かいます。
ここから先は日本の「史跡アタッカーさん」もレポートしていない、俺の「情報収集」だけでの探索です。
もう「超メジャー人物」である「X」を発表しましょう。
この「鄭玄」の説明でも出てきた「袁紹」の墓が、この「高密市双羊鎮」にある…らしいんですよ。

「運チャン」の店から、こんな道を10分ほど行って…

12:05ごろ、とある「畑」の前で降ろされました。

奥に入ると、「これが袁紹の墓だよ」と。
確かに中国サイトから出した地図とほぼ間違いない場所だし、地元民が何の迷いも無く連れて来たんだから「袁紹」の墓なのかも知れない。
でも肝心な「墓碑」や「人民政府」の「認定碑」が無い
一般の中国サイトでは「袁紹墓」は「河北省滄州市滄県高川郷前高龍華村」にある、と言われているんです。
だから、この「高密市双羊鎮」の「袁紹墓」には「信憑性」が無かったんだけど…。
その「河北省滄州市」の墓にも「墓碑」や「人民政府」の「認定碑」が無いらしいんです。
でも「冀州」が「袁紹」の居城だった事を考えると、やはり「河北省」の方が「信憑性」はありますからね。
ここ「山東省」にも全く「縁」が無いわけじゃ無いけど…「鄭玄」の故里との「つながり」から考えるのは、ちょっと難しいかもね。
上にも登ってみたけど、やっぱ「何も無い」。
残念だけど確実に「袁紹墓」だとは言い難いな…。
12:20「言い伝え?」の「袁紹墓」をあとにし、「バス」で13:30「高密」市内に到着。
最後は「タクシー」で「文化広場」に行きます。

13:40すぎ「文化広場」に到着。
先週「高密市」出身の女子生徒から「文化広場」にも「鄭玄像」がある事を聞いてたんです。

「高密三賢」と呼ばれている、左から「鄭玄」「晏嬰」「劉墉」。
13:50「文化広場」を出て、14:00「汽車站」へ。
そして14:20発の「バス」で「濰坊」へ。
16:00に「濰坊」に着き、「味千ラーメン」で遅い昼食です。

また「濰坊」で「凧」を買って来ました。
「関羽」の「京劇バージョン・凧」ね。
そして17:00すぎ「濰坊」から「バス」に乗り、学校に19:00ごろ着きました。
今日は「M先生」が一緒で良かった~。
てか、「M先生」が一緒だから難易度の高い「高密市」の史跡巡りにしたんだけどね。
「袁紹墓」は…もし、そう言い張るなら、「山東省」よ、ちゃんと調査して正しいのなら「墓碑」と「認定碑」を設置しなさい 
また“日帰り「三国史跡」巡り”は「国慶節」休暇後も続けますから、お楽しみに~ 


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