
極楽寺駅入り口左側の桜の木は、極楽寺の桜と異なりすっかり葉を落とし裸になっていた。極楽寺は初めて訪れたのだが、極楽寺駅は二度目だった。高校3年の時のちょうどこの季節、たしか大学受験のために大学の下見に東京へ出て、兄のアパートに泊めてもらった時のことだ。
僕はまず鎌倉を訪れ、大学の下見は翌日にした。その頃まだ沙織の長い影は、僕から去っていかなかった。友達との愉快な時間も多かったが、それ以上空白の冷めた時間が多かった。特にひとりの時間は虚無の色彩が強く、無意味な時間を過ごしていた。沙織の影が通り過ぎてくれることと、意識の底からも沙織を姿が消えていくのを黙って見つめていた。
しかし姿は消えず影も去っていかなかった。だったらいっそのこと、記憶の中の風景の中で沙織との光景がいちばん鮮明な鎌倉へ行こう思った。逆療法というような意味ではなく、鎌倉に行き同じ場所を訪ねれば、何かしらの変化が自分の中で起こるのではないか。たとえ沙織の姿が、その時よりも明瞭に精緻に甦っても、影が濃くなりそこに居続けても、それはそえで仕方のないことではないか。そんなふうに思った。ある種の決断が必要な鎌倉行だった。
あの日と同じように北鎌倉から寸分違わず歩いた。違ったのは、泊まることなく一日で歩いたことだ。長谷に行き『鎌倉ホテル』の前を通った。立ち止まるとあの日のこのホテルへ泊るかどうか、思案する二人の姿が浮かんだ。白い街灯に映る沙織の表情が浮かんだ。予約もなく、でも僕たちに不安はほとんどなく、無邪気な16歳の二人の光景が浮かんだ。
しかしそれ以上なすがままに記憶の中の風景を歩くことはできなかった。少なくとも鎌倉ホテルでの二人の光景をそれ以上前に進めて見続けることはできなかった。僕はそれから先のことは、暗幕カーテンを引くように遮り長谷観音へ行った。少しは落ち着くかもしれないと長谷観音の見晴台に立ち、由比ヶ浜を見つめていた。しかしあの日沙織とその場で話したことがそのままそっくり浮かんできた。暗幕カーテンはどこかに消えてしまい、僕はそれ以上耐えらなくなり、あの日長谷観音の次に行った高徳院には行かず、急ぎ足で長谷駅に戻り、行き先を考えず最初にホームに着いた江ノ電に乗った。江ノ電の中で僕はさらに混乱した。トンネルの中で息苦しささえ感じ早く降りたいと思い、次の駅で降りた。そこが極楽寺駅だった。僕はホームの木製のベンチに座り、電車が去っていったホームでしばらくぼんやりしていた。ぼんやりしているというより虚無の淵に佇んでいたのだと思う。そしてその淵を辿りながら改札を出た。右手に古い桜の木が佇んでいた。その古木は妙に僕を惹きつけた。
あの日見た桜も今と同じようにすっかり葉を落とし、寒そうに寂しそうに佇んでいた。僕はその時その桜に自分を見たのだと思う。「まったく同じじゃないか」と。“同類相哀れむ”と言うがたぶんその範疇に無理やり押し込めたのだと思う。僕は乾いた孤独の原野にいた。
しかし、僕があの日見たのは風情だけだった。葉を落した老木が醸し出す雰囲気だけだったのだ。
桜の古木は、あの日と同じように佇んでいる。強い雨に打たれ風に煽られていることを少しも感じさせぬまま、まるで何もなかったようにただじっと佇んでいる。僕はこの桜の木が、華麗な花咲かせた姿を見たいと思った。
「今度、桜の季節に来ようか」と僕は優子に言った。何も知らない優子は、古典的な赤い郵便ポストを懐かしそうに見ながら言う。
「そうね。散歩気分で来られるもんね」
僕たちは江ノ電に乗り、長谷へ向かう。
Cowboy Junkies - Lost my driving wheel
木造の観音像では、日本で一番大きいといわれる十一面観音菩薩像に手を合わせる。金箔なのか金泥なのか判らないが、薄暗い広い本堂に厳かに重い光を発している観音菩薩像の存在感は、必ずしも金色の姿だけによるものではなく、半眼の瞳にあり、その瞳が手を合わせる人の心の内を高いところから見透かしているように感じるからではないだろうか。僕は委縮し緊張する。その感じ方は、沙織があの日手を合わせて、解いた後に言った言葉と重なる。
「私たちがしたことも、これからしようとすることもすべて知っているみたい」
お参りを済ませた後、御朱印をいただく。
『海光山 十一面大悲殿 昭和五十八年十一月七日 長谷寺』
意図せずあの日と同じように見晴台の柵の手摺に手をかけて由比ヶ浜を見つめる。
円覚寺や建長寺、鎌倉の大仏の高徳院と並び、有名な大寺院である長谷寺は平日でも人は多く、外国人の姿も見られる。人の流れは、本堂でお参りを済ませた後、見晴台にいったん落ち着く。見下ろす海をバッグに写真を撮る人が多く、僕はふたつのグループからシャッターを押してほしいと頼まれシャッターを押す。逆光なんてどうでもいいみたいだ。そのうちのひとり若い女性が、僕たちにお返しのつもりなのだろ、同じように海を背にした逆光の写真を撮ってくれた。僕のカメラに優子と二人の姿がまた記憶された。
海は淡いブルーが、水平線に近くなるほどさらに淡く拡がりぼんやりとした水彩画となっている。細かな光の粒を一面の撒き散らしたように光っている。まるで水彩画の上にビーズ玉が細かく散らばっているようだ。
「寒くない?」と僕は優子の揺れる長い髪を見て訊いた。正午近くになり風が出てきたみたいで僕は少し寒いと思ったからだ。
「大丈夫よ。風の冷たさ以上にお日様が暖かいから最高の日向ぼっこ気分。景色はぼんやりしているけどそこがまたいいところで温もりを感じるの。それにしてもこのお寺の山号は、見事に風景そのものでとても素敵だと思う。あまりに風景そのものでちょっと、という気がしないでもないけど」
「ほんとだね」と僕は同意する。「ここにお寺を開いた人たちにそれほど印象が強かったのだと思う。いいところに気づいたね」
「誰でも気づくわよ。ここに立って海を見れば」
「そうか、処置なしだね」と僕は言って優子に微笑みを向ける。
「たまには圭ちゃんの足もとをすくわないとね」と言って優子は爽やかな微笑みを僕に向けた。
「そうだね……。いつも僕ばかりしゃべっていて、優子に話したり、考えたりするチャンスを僕は妨げているかもしれないね」
「何言ってるの、圭ちゃん。そんなつもりで言ったわけじゃないし、そんなことは微塵も感じていないわよ。空気の流れと同じように知識や経験的教訓は、高い方から低い方へ流れるものなのよ。風のようにね。私から圭ちゃんに流れるのは、数学力と英語力くらいかしら」と優子は、可笑しそうに言った。
「だといいけど」
「どうしたの?いつもより元気ないわね。寝不足かしら?疲れてる?」と優子が心配そうに訊いた。
「そんなことはないよ。寝不足もないし、疲れてもいないよ。江ノ電と競争してもいい」
何となく風が肌に違和感を与えた。それほど強くも冷たくもない風が、肌を力なく苛立たせるように、あるいは何かを喪失させるように。だるい……という表現が妥当な感覚だった。
「だといいけど」
「心配いらないよ。ウインドサーフィンをしたいくらいだから。できないから言うんだけどね」
「ねえ、圭ちゃん」と優子は言う。両手をコンクリート製の柵に載せ僕を見つめる。「私は圭ちゃんの話を聞くのが好きだし、圭ちゃんの話を聞いていると落ち着いていられるし、興味津々になれるし、ときめきながら聞くこともあるし、可笑しくてお腹が痛くなることもあるんだから。言ってみれば私にとって百薬の長なんだからね」
「だといいけど」
「ほら……ちょっとおかしいわよ。今日の圭ちゃんは」と言って優子は僕の手を握った。
「十一面観音菩薩に邪な心を見抜かれてしまったことに気づき、たぶん平常心を失っているんだと思う」
「またそんなふうに面白いことを言う。そういう時の圭ちゃんは、とても調子がいいか悪いかのどちらかなのね。たいていは調子がよく充実している時なんだけど、ごく稀に逆の時があるの」
「そうかな……。かもしれないけど今日は前者だと思うよ。なんなら優子のお腹がねじれるほどのとっておきのジョークを言ってみようか」
「言ってみて。それで私が診断してあげる」
「よし、よく聞いてね、いいかい?」
「いいわよ」と優子は優しく微笑む。
「隣の客は、よく牡蠣食う客だ」
「ぜんぜん面白くない。かなりの重症とみたわ。そう診断せざるを得ないわよ」と優子は言ったが、まったくつまらなかったわけではない証の微笑みを浮かべた。
「よく聞いてよ。もう一度言うよ。隣の客はよく牡蠣食う客だ」
「ただの早口言葉じゃない」
「そこが違うんだな」と僕は言う。「まずイントネーションを聞いてね。柿じゃなくて牡蠣。カキのキが下がるんだ。それとゆうべ食事した店で僕たちの隣りに座っていた二人組の女性を思い出してよ。牡蠣のチーズ焼きを三皿くらい食べていたよね。それでも面白くないかな?」
優子は一瞬吹きだすかのように笑う。そして言う。
「もう圭ちゃんたら。やっぱり圭ちゃんには敵わない。ただね、宮崎では、柿と牡蠣のイントネーションが、関東と逆なのよ」と言って優しい微笑みを僕に与えた。
いずれにせよ、僕の体調は下降していた。それもかなり急激に。
見晴台で風にふれているのがだんだん辛くなり、僕は理由を言わず優子を促して下段の庭園へ降りる石段に向かった。途中、穏やかで優しい表情の小さな水子地蔵が並んでいる一角があり、おもちゃや花やお菓子が、彩色豊かに供えられている。線香の煙は絶えない。
小さくしゃがんで手を合わせている初老の婦人がいる。若い女性の二人が蝋燭の炎で買い求めた線香に火をつけている。蝋燭を立てる中年の女性がいる。それぞれの事情があり、それぞれの想いがある。霊場というのはそれぞれの想いを静かに受け入れ吸収してしまうものなのだと思う。生と死の間にあるさまざまな具象への悔みや哀しみが主体となり、願いが生まれる。負の感情の中でしか生まれ得ない想いが願いとなる。優子はそうした願いを感じているかのように言う。
「ねえ、蝋燭を灯していきましょうよ」
「いいよ」と僕は言う。優子はサーモンピンクのサンローランの財布から2本分の小銭を出して木製の賽銭箱に入れる。優しい金属音が生まれる。優子は僕に1本を手渡し、蝋燭が灯されているガラスに覆われた燭台の前に立つ。短くなった1本の蝋燭の炎から引き継ぐ。空いている場所に並べて蝋燭を立てる。手を合わせる。場所を移動し数多くの水子地蔵に向かって手を合わせ頭を垂れる。僕は目を閉じ、手を合わせながらも優子の横顔を見ることができる。優子が何を願っているのか雪が積もる音のように伝わってくる。とても静かにとてもやわらかく。
合掌を解いた後僕を見つめ「ありがとう」と言う。若い僕たちに視線を向ける人がいる。まるで僕たちの事情を探るかのように。でも僕たちに事情はなく、匿名の失われた小さな生命への優子の慈しみだけがある。
庭園を廻る小道を静かに歩きながら僕たちは長谷寺の朱に彩られた山門を後にする。昨日ほどではないにせよ、大仏通りの人の流れは止むことはなく続いている。
高徳院までのわずかな距離を、狭い歩道の人混みの流れと化して歩きながら、流れの一部になっていることを抑圧されたように感じ、かすかな苛立ちを感じる。流れの中でわずかに人とふれただけで感じる悪寒。免疫力が落ちていることを実感する。歩くことが次第に苦痛になる。並んで歩けなかったことから、僕たちは言葉を交わすことなく高徳院の山門をくぐる。
「圭ちゃん体調悪いんでしょ?」と優子が隣に並んで言う。露座の大仏が、青空と枯れ始めた背景を背にして佇んでいる。佇んでいると感じてしまう。
「どうやら、僕の強がりだったみたいだよ。とても江ノ電と勝負できない」
優子は僕を日向で立ち止まらせ僕を見つめ額に手を当てる。優子の手がひんやり感じる。少し熱があるみたいだ。
「何となく熱っぽいように感じるんだけど」
「肌に小さな虫がたくさん蠢いているようだよ」
「そういうのを悪寒っていうのよ」
「知っている」
「どうも大丈夫じゃないみたいね」と優子が言う。心配そうな表情が生まれる。「ホテルに帰って寝ようね。お薬と栄養ドリンクを買って飲んで暖かくして寝るのよ。それがいちばん」
「薬と栄養ドリンクは却下。大仏さんに手を合わせ、功徳を積めばいずれよくなる。それに美味しいお昼御飯を食べることも忘れてはならない」と言って僕は優子の腕をそっと取って大仏に向かって歩きだす。
「古典的な人ね」
「熱心なブッディストだからね」
「ああ言えばこう言う」と言いながら優子は腕を絡め僕の手を握る。
「止めようと思っても止まらないんだ。清流が流れるごとく」
優子は僕を止め人の流れの中で穏やかな表情で静かに見つめ、僕の額に流れた髪を梳くようにふれる。
「お薬と栄養ドリンクは却下でもいいから、大仏様をお参りしたら、温かいものを食べて、ホテルに帰って寝ましょうね」
「全面的に同意します。優子さえよければ」
「お薬を飲んでもらいたいけど、嫌なら仕方がないから修正案よ」
「申し訳ない」と僕は言う。「兄貴から薬のインチキ性は嫌っていうほど聞かされているから飲みたくないんだよ。それにまだ風邪だと決まったわけじゃないし。もうひとつ栄養ドリンクを飲むとやたらとおしっこが黄色くなるし、あれを見るとその毒々しさにかえって体調が悪くなるんだよ」
「とても説得性のある理由だと思う」と優子は言う。「でも好きな人が体調を崩したらたいていの人は、お薬を飲んでもらいたいと思うわよ。おしっこが黄色くなることは理由にならないしね。でも圭ちゃんの姿勢を受け入れるわ。その代わり部屋に着いたら私の方針に従ってね?いい?」
「たぶん」
「たぶんじゃだめ。絶対服従」優子の瞳に憂慮と気遣いの光が映る。優子は身体の芯から心配しているのだ。
「今のうちに優子の方針を説明してくれないかな」
「私の方針が不安?」
「医者じゃないから注射されることはないと思うけど」
「もう笑わせないでよ。心配しているんだから」
「心配するほど重篤じゃないよ」
「でも心配するの。解って」
「知っている……」と僕は言う。
「部屋に帰ったら、熱過ぎず、温過ぎないお風呂に入って身体を芯から温めてベッドに入る。そして眠る。疲れをとる。それだけよ。とにかく温まり眠ること。圭ちゃんは疲れているんだと思う」
「その間優子は何しているの?せっかく鎌倉に来たのにホテルに缶詰めだなんて可哀想だよ」
「何言っているの。鎌倉はお散歩気分で来られることが分かったし、海が見えるホテルの部屋で圭ちゃんを看病するのも素敵なことよ」
「そんなふうに言ってもらえると、体調が崩れたかいもあるというものだよ。物語にはそういう場面も必要だからね。たしかに旅先のホテルの海が見える部屋で愛する女性に看病してもらうのは悪くない」
「まったくもう、圭ちゃんには敵わない。この言葉をいったい何度私に言わせたら気が済むのかしら」と言って優子はやわらかい愛しみの表情を僕に贈った。
僕たちは露座の大仏に手を合わせた後、御朱印所に行き朱印をお願いする。なんとなく対応がこれまで訪れた寺の対応と異なり雑だ。あわただしく事務的に簡単に済ませる。僕は書いているところをじっと見ていたのだが、呆れるほど下手な書だった。なんとなくありがた味が失せる。これも体調のせいでそう感じるのだろうか。
『参拝 かまくら大仏殿 本尊阿弥陀如来 昭和五十八年十一月七日 高徳院』
体調の下降は、露座の大仏への興味や懐かしさも薄れさせ、優子が奨めてくれたホテルへ戻る気持ちが、大雨が降った後の川の流れのように増大した。水量だけでなく土砂の粒子が大量に混ざり濁流となっていることも似ていた。旅の途中で優子に迷惑をかけているという想いが、重い土砂の粒子となっていた。
露座の大仏を背にしながら僕を支えるように腕を組んでいる優子に「ごめんね」と言う。
優子は静かに首を振り「謝ることはひとつもないわよ。どんな状況でも圭ちゃんと一緒にいたいんだから」と言った。
僕は優子の肩を抱きしめたいと思った。
僕はまず鎌倉を訪れ、大学の下見は翌日にした。その頃まだ沙織の長い影は、僕から去っていかなかった。友達との愉快な時間も多かったが、それ以上空白の冷めた時間が多かった。特にひとりの時間は虚無の色彩が強く、無意味な時間を過ごしていた。沙織の影が通り過ぎてくれることと、意識の底からも沙織を姿が消えていくのを黙って見つめていた。
しかし姿は消えず影も去っていかなかった。だったらいっそのこと、記憶の中の風景の中で沙織との光景がいちばん鮮明な鎌倉へ行こう思った。逆療法というような意味ではなく、鎌倉に行き同じ場所を訪ねれば、何かしらの変化が自分の中で起こるのではないか。たとえ沙織の姿が、その時よりも明瞭に精緻に甦っても、影が濃くなりそこに居続けても、それはそえで仕方のないことではないか。そんなふうに思った。ある種の決断が必要な鎌倉行だった。
あの日と同じように北鎌倉から寸分違わず歩いた。違ったのは、泊まることなく一日で歩いたことだ。長谷に行き『鎌倉ホテル』の前を通った。立ち止まるとあの日のこのホテルへ泊るかどうか、思案する二人の姿が浮かんだ。白い街灯に映る沙織の表情が浮かんだ。予約もなく、でも僕たちに不安はほとんどなく、無邪気な16歳の二人の光景が浮かんだ。
しかしそれ以上なすがままに記憶の中の風景を歩くことはできなかった。少なくとも鎌倉ホテルでの二人の光景をそれ以上前に進めて見続けることはできなかった。僕はそれから先のことは、暗幕カーテンを引くように遮り長谷観音へ行った。少しは落ち着くかもしれないと長谷観音の見晴台に立ち、由比ヶ浜を見つめていた。しかしあの日沙織とその場で話したことがそのままそっくり浮かんできた。暗幕カーテンはどこかに消えてしまい、僕はそれ以上耐えらなくなり、あの日長谷観音の次に行った高徳院には行かず、急ぎ足で長谷駅に戻り、行き先を考えず最初にホームに着いた江ノ電に乗った。江ノ電の中で僕はさらに混乱した。トンネルの中で息苦しささえ感じ早く降りたいと思い、次の駅で降りた。そこが極楽寺駅だった。僕はホームの木製のベンチに座り、電車が去っていったホームでしばらくぼんやりしていた。ぼんやりしているというより虚無の淵に佇んでいたのだと思う。そしてその淵を辿りながら改札を出た。右手に古い桜の木が佇んでいた。その古木は妙に僕を惹きつけた。
あの日見た桜も今と同じようにすっかり葉を落とし、寒そうに寂しそうに佇んでいた。僕はその時その桜に自分を見たのだと思う。「まったく同じじゃないか」と。“同類相哀れむ”と言うがたぶんその範疇に無理やり押し込めたのだと思う。僕は乾いた孤独の原野にいた。
しかし、僕があの日見たのは風情だけだった。葉を落した老木が醸し出す雰囲気だけだったのだ。
桜の古木は、あの日と同じように佇んでいる。強い雨に打たれ風に煽られていることを少しも感じさせぬまま、まるで何もなかったようにただじっと佇んでいる。僕はこの桜の木が、華麗な花咲かせた姿を見たいと思った。
「今度、桜の季節に来ようか」と僕は優子に言った。何も知らない優子は、古典的な赤い郵便ポストを懐かしそうに見ながら言う。
「そうね。散歩気分で来られるもんね」
僕たちは江ノ電に乗り、長谷へ向かう。
Cowboy Junkies - Lost my driving wheel
木造の観音像では、日本で一番大きいといわれる十一面観音菩薩像に手を合わせる。金箔なのか金泥なのか判らないが、薄暗い広い本堂に厳かに重い光を発している観音菩薩像の存在感は、必ずしも金色の姿だけによるものではなく、半眼の瞳にあり、その瞳が手を合わせる人の心の内を高いところから見透かしているように感じるからではないだろうか。僕は委縮し緊張する。その感じ方は、沙織があの日手を合わせて、解いた後に言った言葉と重なる。
「私たちがしたことも、これからしようとすることもすべて知っているみたい」
お参りを済ませた後、御朱印をいただく。
『海光山 十一面大悲殿 昭和五十八年十一月七日 長谷寺』
意図せずあの日と同じように見晴台の柵の手摺に手をかけて由比ヶ浜を見つめる。
円覚寺や建長寺、鎌倉の大仏の高徳院と並び、有名な大寺院である長谷寺は平日でも人は多く、外国人の姿も見られる。人の流れは、本堂でお参りを済ませた後、見晴台にいったん落ち着く。見下ろす海をバッグに写真を撮る人が多く、僕はふたつのグループからシャッターを押してほしいと頼まれシャッターを押す。逆光なんてどうでもいいみたいだ。そのうちのひとり若い女性が、僕たちにお返しのつもりなのだろ、同じように海を背にした逆光の写真を撮ってくれた。僕のカメラに優子と二人の姿がまた記憶された。
海は淡いブルーが、水平線に近くなるほどさらに淡く拡がりぼんやりとした水彩画となっている。細かな光の粒を一面の撒き散らしたように光っている。まるで水彩画の上にビーズ玉が細かく散らばっているようだ。
「寒くない?」と僕は優子の揺れる長い髪を見て訊いた。正午近くになり風が出てきたみたいで僕は少し寒いと思ったからだ。
「大丈夫よ。風の冷たさ以上にお日様が暖かいから最高の日向ぼっこ気分。景色はぼんやりしているけどそこがまたいいところで温もりを感じるの。それにしてもこのお寺の山号は、見事に風景そのものでとても素敵だと思う。あまりに風景そのものでちょっと、という気がしないでもないけど」
「ほんとだね」と僕は同意する。「ここにお寺を開いた人たちにそれほど印象が強かったのだと思う。いいところに気づいたね」
「誰でも気づくわよ。ここに立って海を見れば」
「そうか、処置なしだね」と僕は言って優子に微笑みを向ける。
「たまには圭ちゃんの足もとをすくわないとね」と言って優子は爽やかな微笑みを僕に向けた。
「そうだね……。いつも僕ばかりしゃべっていて、優子に話したり、考えたりするチャンスを僕は妨げているかもしれないね」
「何言ってるの、圭ちゃん。そんなつもりで言ったわけじゃないし、そんなことは微塵も感じていないわよ。空気の流れと同じように知識や経験的教訓は、高い方から低い方へ流れるものなのよ。風のようにね。私から圭ちゃんに流れるのは、数学力と英語力くらいかしら」と優子は、可笑しそうに言った。
「だといいけど」
「どうしたの?いつもより元気ないわね。寝不足かしら?疲れてる?」と優子が心配そうに訊いた。
「そんなことはないよ。寝不足もないし、疲れてもいないよ。江ノ電と競争してもいい」
何となく風が肌に違和感を与えた。それほど強くも冷たくもない風が、肌を力なく苛立たせるように、あるいは何かを喪失させるように。だるい……という表現が妥当な感覚だった。
「だといいけど」
「心配いらないよ。ウインドサーフィンをしたいくらいだから。できないから言うんだけどね」
「ねえ、圭ちゃん」と優子は言う。両手をコンクリート製の柵に載せ僕を見つめる。「私は圭ちゃんの話を聞くのが好きだし、圭ちゃんの話を聞いていると落ち着いていられるし、興味津々になれるし、ときめきながら聞くこともあるし、可笑しくてお腹が痛くなることもあるんだから。言ってみれば私にとって百薬の長なんだからね」
「だといいけど」
「ほら……ちょっとおかしいわよ。今日の圭ちゃんは」と言って優子は僕の手を握った。
「十一面観音菩薩に邪な心を見抜かれてしまったことに気づき、たぶん平常心を失っているんだと思う」
「またそんなふうに面白いことを言う。そういう時の圭ちゃんは、とても調子がいいか悪いかのどちらかなのね。たいていは調子がよく充実している時なんだけど、ごく稀に逆の時があるの」
「そうかな……。かもしれないけど今日は前者だと思うよ。なんなら優子のお腹がねじれるほどのとっておきのジョークを言ってみようか」
「言ってみて。それで私が診断してあげる」
「よし、よく聞いてね、いいかい?」
「いいわよ」と優子は優しく微笑む。
「隣の客は、よく牡蠣食う客だ」
「ぜんぜん面白くない。かなりの重症とみたわ。そう診断せざるを得ないわよ」と優子は言ったが、まったくつまらなかったわけではない証の微笑みを浮かべた。
「よく聞いてよ。もう一度言うよ。隣の客はよく牡蠣食う客だ」
「ただの早口言葉じゃない」
「そこが違うんだな」と僕は言う。「まずイントネーションを聞いてね。柿じゃなくて牡蠣。カキのキが下がるんだ。それとゆうべ食事した店で僕たちの隣りに座っていた二人組の女性を思い出してよ。牡蠣のチーズ焼きを三皿くらい食べていたよね。それでも面白くないかな?」
優子は一瞬吹きだすかのように笑う。そして言う。
「もう圭ちゃんたら。やっぱり圭ちゃんには敵わない。ただね、宮崎では、柿と牡蠣のイントネーションが、関東と逆なのよ」と言って優しい微笑みを僕に与えた。
いずれにせよ、僕の体調は下降していた。それもかなり急激に。
見晴台で風にふれているのがだんだん辛くなり、僕は理由を言わず優子を促して下段の庭園へ降りる石段に向かった。途中、穏やかで優しい表情の小さな水子地蔵が並んでいる一角があり、おもちゃや花やお菓子が、彩色豊かに供えられている。線香の煙は絶えない。
小さくしゃがんで手を合わせている初老の婦人がいる。若い女性の二人が蝋燭の炎で買い求めた線香に火をつけている。蝋燭を立てる中年の女性がいる。それぞれの事情があり、それぞれの想いがある。霊場というのはそれぞれの想いを静かに受け入れ吸収してしまうものなのだと思う。生と死の間にあるさまざまな具象への悔みや哀しみが主体となり、願いが生まれる。負の感情の中でしか生まれ得ない想いが願いとなる。優子はそうした願いを感じているかのように言う。
「ねえ、蝋燭を灯していきましょうよ」
「いいよ」と僕は言う。優子はサーモンピンクのサンローランの財布から2本分の小銭を出して木製の賽銭箱に入れる。優しい金属音が生まれる。優子は僕に1本を手渡し、蝋燭が灯されているガラスに覆われた燭台の前に立つ。短くなった1本の蝋燭の炎から引き継ぐ。空いている場所に並べて蝋燭を立てる。手を合わせる。場所を移動し数多くの水子地蔵に向かって手を合わせ頭を垂れる。僕は目を閉じ、手を合わせながらも優子の横顔を見ることができる。優子が何を願っているのか雪が積もる音のように伝わってくる。とても静かにとてもやわらかく。
合掌を解いた後僕を見つめ「ありがとう」と言う。若い僕たちに視線を向ける人がいる。まるで僕たちの事情を探るかのように。でも僕たちに事情はなく、匿名の失われた小さな生命への優子の慈しみだけがある。
庭園を廻る小道を静かに歩きながら僕たちは長谷寺の朱に彩られた山門を後にする。昨日ほどではないにせよ、大仏通りの人の流れは止むことはなく続いている。
高徳院までのわずかな距離を、狭い歩道の人混みの流れと化して歩きながら、流れの一部になっていることを抑圧されたように感じ、かすかな苛立ちを感じる。流れの中でわずかに人とふれただけで感じる悪寒。免疫力が落ちていることを実感する。歩くことが次第に苦痛になる。並んで歩けなかったことから、僕たちは言葉を交わすことなく高徳院の山門をくぐる。
「圭ちゃん体調悪いんでしょ?」と優子が隣に並んで言う。露座の大仏が、青空と枯れ始めた背景を背にして佇んでいる。佇んでいると感じてしまう。
「どうやら、僕の強がりだったみたいだよ。とても江ノ電と勝負できない」
優子は僕を日向で立ち止まらせ僕を見つめ額に手を当てる。優子の手がひんやり感じる。少し熱があるみたいだ。
「何となく熱っぽいように感じるんだけど」
「肌に小さな虫がたくさん蠢いているようだよ」
「そういうのを悪寒っていうのよ」
「知っている」
「どうも大丈夫じゃないみたいね」と優子が言う。心配そうな表情が生まれる。「ホテルに帰って寝ようね。お薬と栄養ドリンクを買って飲んで暖かくして寝るのよ。それがいちばん」
「薬と栄養ドリンクは却下。大仏さんに手を合わせ、功徳を積めばいずれよくなる。それに美味しいお昼御飯を食べることも忘れてはならない」と言って僕は優子の腕をそっと取って大仏に向かって歩きだす。
「古典的な人ね」
「熱心なブッディストだからね」
「ああ言えばこう言う」と言いながら優子は腕を絡め僕の手を握る。
「止めようと思っても止まらないんだ。清流が流れるごとく」
優子は僕を止め人の流れの中で穏やかな表情で静かに見つめ、僕の額に流れた髪を梳くようにふれる。
「お薬と栄養ドリンクは却下でもいいから、大仏様をお参りしたら、温かいものを食べて、ホテルに帰って寝ましょうね」
「全面的に同意します。優子さえよければ」
「お薬を飲んでもらいたいけど、嫌なら仕方がないから修正案よ」
「申し訳ない」と僕は言う。「兄貴から薬のインチキ性は嫌っていうほど聞かされているから飲みたくないんだよ。それにまだ風邪だと決まったわけじゃないし。もうひとつ栄養ドリンクを飲むとやたらとおしっこが黄色くなるし、あれを見るとその毒々しさにかえって体調が悪くなるんだよ」
「とても説得性のある理由だと思う」と優子は言う。「でも好きな人が体調を崩したらたいていの人は、お薬を飲んでもらいたいと思うわよ。おしっこが黄色くなることは理由にならないしね。でも圭ちゃんの姿勢を受け入れるわ。その代わり部屋に着いたら私の方針に従ってね?いい?」
「たぶん」
「たぶんじゃだめ。絶対服従」優子の瞳に憂慮と気遣いの光が映る。優子は身体の芯から心配しているのだ。
「今のうちに優子の方針を説明してくれないかな」
「私の方針が不安?」
「医者じゃないから注射されることはないと思うけど」
「もう笑わせないでよ。心配しているんだから」
「心配するほど重篤じゃないよ」
「でも心配するの。解って」
「知っている……」と僕は言う。
「部屋に帰ったら、熱過ぎず、温過ぎないお風呂に入って身体を芯から温めてベッドに入る。そして眠る。疲れをとる。それだけよ。とにかく温まり眠ること。圭ちゃんは疲れているんだと思う」
「その間優子は何しているの?せっかく鎌倉に来たのにホテルに缶詰めだなんて可哀想だよ」
「何言っているの。鎌倉はお散歩気分で来られることが分かったし、海が見えるホテルの部屋で圭ちゃんを看病するのも素敵なことよ」
「そんなふうに言ってもらえると、体調が崩れたかいもあるというものだよ。物語にはそういう場面も必要だからね。たしかに旅先のホテルの海が見える部屋で愛する女性に看病してもらうのは悪くない」
「まったくもう、圭ちゃんには敵わない。この言葉をいったい何度私に言わせたら気が済むのかしら」と言って優子はやわらかい愛しみの表情を僕に贈った。
僕たちは露座の大仏に手を合わせた後、御朱印所に行き朱印をお願いする。なんとなく対応がこれまで訪れた寺の対応と異なり雑だ。あわただしく事務的に簡単に済ませる。僕は書いているところをじっと見ていたのだが、呆れるほど下手な書だった。なんとなくありがた味が失せる。これも体調のせいでそう感じるのだろうか。
『参拝 かまくら大仏殿 本尊阿弥陀如来 昭和五十八年十一月七日 高徳院』
体調の下降は、露座の大仏への興味や懐かしさも薄れさせ、優子が奨めてくれたホテルへ戻る気持ちが、大雨が降った後の川の流れのように増大した。水量だけでなく土砂の粒子が大量に混ざり濁流となっていることも似ていた。旅の途中で優子に迷惑をかけているという想いが、重い土砂の粒子となっていた。
露座の大仏を背にしながら僕を支えるように腕を組んでいる優子に「ごめんね」と言う。
優子は静かに首を振り「謝ることはひとつもないわよ。どんな状況でも圭ちゃんと一緒にいたいんだから」と言った。
僕は優子の肩を抱きしめたいと思った。
回顧とリアルな情景の重なり合いが、刹那的に流れ、幸せいっぱいなリアルな二人にも物悲しさを感じさせますね。
C-moonさん、お得意の構成と描写ですよね(微笑)
それにしても、沙織さんとの恋の”陰り”は、長引いていますね。
まだまだ閉じることができない沙織さんとの空間。終止符を打つことができない沙織さんとの物語が、これからも続く予感♪
その他の登場人物の一人としてではなく、物語のコアの重要な一部分を占めていると思うの。
沙織ってみんないい女だから(笑)
元に戻します(苦笑)
刹那的な流れのピークは、写真にもある水子地蔵への二人の供養の場面かな。
優子さんからの提案というところが、繊細な優しさを醸し出していていいな。
(その前にオチャラケ場面がありましたけどね)
<霊場というのはそれぞれの想いを静かに受け入れ吸収してしまうものなのだと思う。生と死の間にあるさまざまな具象への悔みや哀しみが主体となり、願いが生まれる。負の感情の中でしか生まれ得ない想いが願いとなる。優子はそうした願いを感じているかのように言う。
「ねえ、蝋燭を灯していきましょうよ」>
後半の二人の会話の可笑しさには、圭さんの優子さんへの甘えがいっぱいですわね~(笑)
”男ってどうしてこんなに単純で可愛いのかしら”と優子さんが以前言った言葉を思い出しました♪
さて、本日のベストセンテンスです!
<少なくとも鎌倉ホテルでの二人の光景をそれ以上前に進めて見続けることはできなかった。僕はそれから先のことは、暗幕カーテンを引くように遮り長谷観音へ行った。>
沙織さんのせい?(笑)
こんにちは!返事が遅くなってごめんなさい。
言い訳……。しません(苦笑)
刹那いですか……
鎌倉篇は、淡々とした気持ちで書いています。だからなのかな、素直に記憶の中の風景にある僕の当時の心情が素直に出ているのかもしれない。
沙織はいい女だったから♪
(沙織ってみんないい女だから!のご意見に素直に同意します♪)
沙織ですが、ご推察のようにこの物語のコアの重要な部分を占めています。っていうか登場人物は凄く少ないですけど(苦笑)
それでもです。だから、まだまだ登場しますよ!
それも重要な場面でね。
そこでひとつ意見を訊きたいのですが
もっと登場人物を増やした方がいいのかな?
できるだけ端折っているのが現実で、でもこれでは、あまりにも少なすぎるような……
今更遅いかなとも思うんだけれど。
さてさて……
ご意見お待ちしています。
やはり男って単純で可愛いのかな……
女性から見ると。
たぶん、単純であればある程そう感じるんだろうな……