Drマサ非公認ブログ

カルロス・ゴーン報道のジャーナリズム性⑶

 権力のチェックといえば、当然ジャーナリズムの役割として、特にリベラルな人が強調するが、近代社会においては、左右両陣営にとって最重要である。このことは確認しておきたい。

 そもそも僕たちの生きる現代社会はリベラルな社会である。例えば、アメリカの政党であれば、共和党と民主党で、前者が保守系、後者がリベラル系とされるが、両者ともにリベラルであることが前提である。それはそうだ。なぜなら米国は王制や封建制ではない、民主化された、あるいは民主化を進む社会であるからだ。近代社会とはそういうものだ。その上で、両者ともにリベラルを土台として、本来は変化に対して慎重なのが保守である。

 ⑶に関して、ゴーン氏の事件において、権力とは何を指すのだろうか。

 ゴーン氏自身がルノー・日産・三菱というグローバル企業の経営を行っており、企業が持つ権力性を手にする存在である。近年では、ホッブスのいうリヴァイアサンになりうるのは国家だけではなく、このような企業を含む考え方が広がっている。

 そのような見方があることを確認した上で、やはり権力とは国家であり、この事件においては、現状検察こそが権力に当たる。裁判に移れば、裁判所がそれにあたる。

 ゆえに、ジャーナリズムの本質からすれば、ジャーナリズムは検察に違法性はないのか、手続きに瑕疵がないのかといった点を調査報道する必要がある。ジャーナリズムは⑴の「真実」とこの点の両者をバランスよく報道する義務がある。この場合、検察の暴走を止める役割を果たせるわけだ。

 ここでは日本の検察の問題点(警察と裁判所との関係も)を議論する余裕はないけれども、検察から流れてくる情報を中心として報道しているのだから、報道対象との独立を果たしていないことになる。通常、報道対象はゴーン氏やその周辺、その企業であるとみなすことになるかもしれないが、そうではない。報道対象との独立というのは、権力との距離感であり、この場合は当然検察である。

 検察からの情報を流すなと言っているのではない。市民が正しく判断するための情報を報道しなければならないのだから、検察が困る情報、隠している情報を探り出しておく必要がある。一応指摘しておくが、もし検察が遵法精神に則り、市民にとっても有効な情報を適切に提供しているならば、その時は検察の努力を市民目線から称えればいいのである。

 このような視角からすると、ゴーン氏に関するジャーナリズムの有り様はナショナリズムを纏いつつ、⑶の権力のチェック不足とみなすことができる。実際、検察の姿勢を批判する報道は少ない。時に言い訳程度に触れるだけであり、踏み込むような報道を寡聞に知らない。

 事実、これまでも検察からの情報に依拠した報道には問題があった。具体的な例をあげれば、きりがないようにも思われるが、代表的な近年の例としては小沢一郎氏をめぐる陸山会事件、「政治と金の問題」がある。

 結局無実ではあったものの、小沢一郎を巨悪として報道し、当時の政治状況は劇的に変化した。小沢一郎は権力側の人間であったと見ることもできるが、この時検察の問題を採り上げる調査報道に力を入れておく必要があった。なぜなら、検察もまた権力だからである。

(この項ひとまず終わり)

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「社会問題」カテゴリーもっと見る