Drマサ非公認ブログ

追記。カルロス・ゴーン報道のジャーナリズム性

 12月13日朝日新聞の朝刊に、ゴーン氏の事件に関して、まだ受け取っていない報酬を対象にした捜査に疑問を投げかける記事が載っていた。検察から漏れ出る情報では、当の検察側が虚偽記載として重大な問題だとの認識が示されているが、どうも雲行きが怪しくなってきた。簡単に指摘すれば、検察の行き過ぎ、あるいは、あえて酷い言い方をすれば、暴走という見方である。

 考えてみれば、小沢一郎氏をめぐる陸山会事件と重なって見えるような気がする。違いは、国内の問題に留まらず、国際的な問題となっている点である。

 前回のブログで指摘したように、このようなマス・メディアの活動は権力(この場合、検察)への監視役としての役割に向かっていると思う。この姿勢を崩さず、日産とルノーの思惑を含めて(つまり真実の追求)ジャーナリズムの役割を果たしてもらえればと考える。

 ここで、この項のブログで省略したジャーナリズムの本質を列挙しておこう。

⑴ジャーナリズムの第一の責務は真実である。

⑵ジャーナリズムは第一に市民に忠実であるべきである。

⑶ジャーナリズムの真髄は検証の規律である。

⑷ジャーナリズムに従事する者はその対象からの独立を維持しなければならない。

⑸ジャーナリズムは独立した権力監視役として機能すべきである。

⑹ジャーナリズムは大衆の批判および譲歩を討論する公開の場を提供しなければならない。

⑺ジャーナリズムは重大なことを面白く関連性のあるものとするよう努力しなければならない。

⑻ジャーナリズムはニュースの包括性および均衡を保たなくてはならない。

⑼ジャーナリズムに従事する者は自らの良心を実践することを許されるべきである。(P6〜7)

 

 もちろんジャーナリストがこのようなジャーナリズムの本質を失わないで活動しているかといえば、甚だ心もとない。ブルデューのメディア批判などが格好の例だが、ここでは指摘に留めておこう。

 ちなみにこの9要件に加えて、ジャーナリズムは市民の権利というだけではなく、市民もまた責任を負うという本質が挙げられることもある。

 これから、テレビなどでも検察の行き過ぎた行為を取り上げ、それが広がり、なおかつ市民がより関心を持つようなることを期待する。そうすれば、より良い検察の有りよう、それに続く司法の改善へと続けばと、繰り返しになるが、期待したいと思う。なぜなら、市民もまた責任を負うからである。

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