月曜から東京もまんぼう適用だ。僕が住んでいる調布も。
まんぼうは正式には、「まん延防止重点措置」が正式名称らしい。なんですぐ「まんぼう」と略しているんだろう。PRのためか。
もうすでに言われているけれど、緊急事態宣言と何が違うのだろう。微妙な違いでしかないので、訴える力はあるのだろうか。今「あるのだろうか」などと打ち込んでいるのは「ないだろう」と思っているからに違いないのだが。
緊急事態宣言を逃れるためとか、色々ありそうだが、僕は言葉を大切にしない日本文化の特徴ではないかと頭によぎった。
敗戦を終戦と言い換えたり、占領を進駐と言い換えたりする言葉の問題だ。そう言えばフクシマの時、メルトダウンを爆発的事象とか言い換えていた。日本の伝統芸のようだ。
いかに名が大切かと強調しすぎることはないほどだが、名を変えることで、意味が曖昧化してしまう。名を正しく使うことが、それ自体世界の正しい認識になるから、名を変えるのは、世界認識を歪めるような行為である。
先の敗戦や進駐が日本のあの戦争に対する認識を曖昧化した、あるいは歪めたと言えるのではないだろうか。
ウィトゲンシュタインによれば、人間の認識は世界そのものを認識しているのではなく、名を通してイメージを構築して、それによって思考しているのである。だから、繰り返しになるけれど、名を変えることは、世界認識を歪めたり、我々が生きる世界の正しいイメージ構築を邪魔することになる。ちなみに詩はそのまま世界認識になるという点で特別な位相にある。
名が言い換えられれば、かつてあった名において世界認識を正しくしていたのであるが、歪んだ名によって、変化されたイメージで問題に対処することになる。そうすると、間違った名に対して行動を行うので、実のところ正しい名に対して行動していないことになる。少なくとも行動がズレる。その結果、何が起きるだろうか。人間が世界に正しく対峙できないことは間違いない。
今コロナ禍であり、2021年4月11日現在、感染者数が増加しており、緊急事態宣言を発出してもおかしくない。第4波であるとの意見もあるが、言葉を変えて、”まんぼう”という言葉だけで対処しているとすれば、恐ろしい限りだ。
名を正すとは、こういう時に使われるべきだ。