Drマサ非公認ブログ

断片5:どうして韓国や中国から反省していないと思われるのか?

 日本社会では、悲しみや苦しみに対する文化的態度が、悲しみや苦しみを直視せず、つまりは引き受けるのではなく、何か“口当たりのいい”ものへと転換される。それを広島の「原爆ドーム」を例にして論じてきた。「原爆ドーム」は民族の悲しみや苦しみを平和へと転換している。それの何が問題なのか?と問われると思う。それは端的に悲しみや苦しみを見ないことである。

 少し考えてほしい。人間から悲しみや苦しみが取り除かれたら、それは人間だろうか。仮に親や子供が死んでしまったとして、悲しみや苦しみがない人間を想像してみて欲しい。それはすでに人間から人間であることの核を失わせている。身近なものの死において、人間が人間であることを表すのは、心の底にある悲しみや苦しみであろう。だから悲しみや苦しみがあることは恩寵である。なければ、端的に欠落である。

 これが日本の社会心理として機能している場合、日本の悲しみや苦しみ、例えば先の原爆や第二次世界大戦の敗戦などを受け止めるのではなく、転換してしまうだろう。

 さて話を戻そう。「どうして韓国や中国から反省していないと思われるのか?」とのテーマであった。

 「革命のない日本」が今テーマに従属する問題として見えてきた。トインビーは「革命のない日本」との文化風土をもたらしたのが大乗仏教であると言う。そこに山折さんは「死者を許す文明」と「死者を許さない文明」との視点を導入する。そして、日本は「死者を許す文明」、死者のルサンチマンを浄化する思想装置を想定する。

 これを死者の祟りについての考察からアプローチする。まさに日本的であるといっていい。これが「革命のない日本」、そして当ブログで指摘してきた悲しみや苦しみに対する態度と通底している。

 死者の祟りはあたかも異界の話のように聞こえるが、僕は祟りのような非合理的な力が現代日本社会でも働いていると思う。ちょうど内田樹が『呪いの時代』で言ったことを思い出す。ネットに溢れる言説は他者の悪意に満ちている。これはただの電子的な文字に過ぎないが、一旦悪意の言葉を読んでしまえば、我々はそれを気にしてしまう。最悪自殺するものまでいる。これはネットの言葉が呪いであるからである。別にネットでなくとも、聞いた言葉(噂など)に悪意があれば、その当事者は気にすることになるだろう。気になってしまうこと、これが呪いの威力である。

 だから、呪いというのは非現実的なのではなく、呪いの言葉だけに原因を還元することはできないにしても、実際に人まで殺してしまうのだから現実である。死者の祟りも、人は気にするのであれば、当然影響がある。これがオカルト的なものの正体である。いかに人間が心理的存在であるかということの証左である。

 次は祟りについて考察してみよう。

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