Drマサ非公認ブログ

知情意の情なんでしょうね

 社会政治情勢に直接言及する事が多いのだが、哲学や思想から。

 西田幾多郎の『善の研究』では、知情意という人間の経験のそれぞれの側面が考察されている。「知」は知識でいいだろう。「情」は感情というよりは情緒という方がいいような気がする。あえて感情から距離を取ったのは、短絡的な感情的反応を「情」と短絡化されるのを、僕なりの理解で嫌ったからである。「意」は意欲とか意志だと思う。

 それぞれ人間意識現象を学問的に分類しているのだから、実在としての意識を想定するなら、知情意の混合体である。というか、意識現象は必ず知情意を含んでいる。

 そして西欧においては「知」の部分が強調されて、文化となっている。その歴史的現れが科学や理性である。理性には多少注が必要だが、知識偏重の社会が生み出されたわけである。知識偏重が何を生み出すか、近代的な科学技術により合理的効率的可算的な世界観の完徹である。もちろんその結果非合理な問題を生み出す。

 ところが日本では「情」の部分が強調された文化が基底であった。明治維新以降の日本の近代化は、この文化の規定である「情」に「知」を覆い被せ、「情」自体が後退してしまったのだと思う。日本は「情」で、西欧は「知」であったのだが、日本の精神性は「知」に乗っ取られてしまったようだ。

 例えばタンポポがあるとしよう。西欧的「知」はタンポポをモノとして見る(観察する)のでその構造(人間の恣意的な分類)や科学的組成などでの理解を促進してきた。つまりは機械論になっていく。

 しかしながら日本的「情」であれば、タンポポに花としての可愛さや素朴さや白花になったタンポポの有り様も含めて想像し、そこに生命現象の反復や儚さや美しさや無情などを知る(認識する)。岡潔はこういうものの知り方を「ものよさがわかる」と言っていたと思う。

 日本近代の最初の大哲学者と数学者が知情意の「情」に善を見出しているように思うのだ。今現在の日本人が全く逆行しているのは情けない事だと思う。

 もちろん西欧にも「情」に根ざした詩作などがあることも忘れてはならない。なぜなら、「情」からの対話が可能になるからである。

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