Drマサ非公認ブログ

木村花さんの問題を考えてみる8

 さて木村花さんと誹謗中傷したSNSユーザーとの間にあるコミュニケーションについて考えてみたい。

 両者のコミュニケーションの特徴はそれぞれどういうものだったのだろうか。

まずこれまで議論してきた状況を確認しておこう。そこから見えることがある。

 木村さんも誹謗中傷したユーザーも双方、リアリティショーとSNS両者の間に臨場感空間を作っている。この両者において、それらを媒介しているのはテレビ画面の映像とSNSにおけるコメントである。ここではこれらコメントを言説と呼んできた。

 ここから僕なりに理解できるのは、双方ともコミュニケーション空間の閉鎖性である。もちろん誹謗中傷する者は悪い。ここではそういう一般的な道徳観を後退させておこう。そのほうがコミュニケーションの質が論じやすい。

 双方の特徴の1つは言説やテレビ画面の行動を真に受けすぎていることだ。

 コミュニケーションで重要なのはその言葉、ここでは画面上の行動、この両者はただそれだけではその意味を確定しづらい。言葉も画面上の人間関係もコンテクストを外しては全く意味を確定できないのだ。

 木村さんの画面上の行動、これを演技として、虚構であると斬って捨てるのは安易であるとすでに指摘した。では、その行動の意味はどのように確定できるのか。

 まず木村さんがとった行動のコンテクスト、そしてそれへの解釈。それがリアリティショーの中の一場面であるとのコンテクスト、その解釈。プロレスラーであるとのコンテクスト、その解釈。怒った相手が持つコンテクスト、出演者たちとの関係というコンテクスト、・・・・もっとあるだろう。

 ゆえに行動の意味はこれらのコンテクストの何をを重視するのか、軽視するのかによって変動する。しかもコンテクストは一刻一刻変化する。よって意味も変動する。これらコンテクトとともに木村さんの行動は生きていく。

 しかし画面上の木村さんの行動に対して誹謗中傷したコメントは、これら木村さんに絡みつくコンテクストへの感覚が低いのである。そのため、その行動を理解する言説が誹謗中傷というあたかもピンで止めたかのような言葉に終始しているとすれば、それは彼らがコンテクストと関連づけてコミュニケーションを解釈する力が足りなかったのだ。そこに正義感や道徳心が絡みつくと、複雑なコンテクストを考慮する能力が後退する。

 これらは臨場感空間における高揚を解釈という次元に置き変えた理解である。なぜなら臨場感空間においては、多様な解釈に開かれるのではなく、ある特定の解釈に収斂するからである。ストックホルム症候群のように、銀行強盗をした犯人の凶悪性よりも、その銀行強盗の身の上話から、彼を良い人と規定するような心理的メカニズムが働いたのと同様である。

 実際に誹謗中傷した者たちは、木村さんの悲報のあと、異なるコンテクストを接合し、木村さんの行動の意味を変容させている。例えば「うぜえなあ」と思っていたことが、書き込みにもみられ同調していたことを反省しているとするものがある。これはまず、同調はエコーチェンバーで増幅されるし、反省とは異なるコンテクストが組み込まれたことだ。ただこの場合の異なるコンテクストが木村さんの悲報がもたらした後であったのは残念としかいいようがない。

 結局、行動の解釈が一元化しているのは、コンテクスト理解が不足し、そこにエコーチェンバーによる思想の一元化の強化が生じ、なおかつ一方的な正義や道徳心が先立つ程度のコンテクストしか手持ちがないせいである。複雑性に開かれていない、コミュニケーション文化が脆弱ということになる。

 この事例から見えてくるのは、カタルシスに流されたコミュニケーションの失敗である。

(つづく あと2回かな)

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