木村さんの臨場感空間を検討していこう。
まず1つには最初の方で論じたリアリティショーとの関係性に立ち上がる臨場感空間である。彼女自身はプロレスラーではあるが、日本社会での女子プロレスの位置づけは決して高くない。そうするとネットフリックスやフジテレビ・オンデマンドで配信されるだけではなく、地上波でも取り上げられていたため、彼女にしてはチャンスという意識があったかもしれない。そういう意味では、テレビ出演という以上に臨場感空間を構築しやすい心理であったと推測できる。
少しプロレスファンとして言及しておくが、彼女がテラスハウス出演を決意したのはプロレス普及のためであったという話がある。そうであるとすれば、なんと皮肉な結果だったのだろうか。
彼女自身のプロレスラーとしての才能は高く評価されていた。よく言われるように、近い将来WWEやAEWといった大きな舞台を踏めたのではないかと思う。彼女が所属するスターダムは親会社が新日本プロレスと同じ会社であるから、プロレスラーとしての新たな空間が開かれることもあったかもしれないのだ。1月4日新日本東京ドーム大会には第0試合としてドームの舞台も踏んでいたのだ。
日本の“女子”プロレスラーの評価は米国でも高い。その中でも彼女は高い評価であったようだ。自分自身がプロレスラーとしての成功を志すだけなら、テレスハウスに出る必要もなかったのかもしれない。これはそんな気がするというだけの話だが。
話を戻そう。
さて、もう1つの臨場感空間がある。もちろんSNSとの臨場感空間である。実は誹謗中傷した人物たちがハマった臨場感空間の心理とそれほどの違いはない。もちろん、誹謗中傷する心理ということではなく、ただ高揚するという意味でだ。
彼女は享年23歳。おそらくは物心ついてからSNSと親和性の高い生活をしてきたと思われる。中学生の時にSNSを初めていれば、10年程度だろうか。彼女にとってというか、その世代にとっては当然指摘するまでもなく、SNSは生活の核になっている。実際のパーソナル・コミュニケーションよりも、SNSでのコミュニケーションへの比重が大きく、どちらを気にかけて生活しているのかといえば、SNSであったりする。
当然SNSでの反応は彼女にとっても重要だ。スマホ的実存とでも名づけたいくらいだ。とすれば、テラスハウス出演の反応をSNSでいつも参照していたに違いない。そして、その反応との間に高揚する。彼女へのSNSの反応は臨場感空間を作りながら、その言説の内容が誹謗中傷であるがゆえに「マイナスベクトル」の高揚を作り出す。もちろん高揚ではなく、喪心であろうか、あるいは挫折として受容される。
臨場感空間ができているがゆえに、「マイナスベクトル」の言説は一種の心神喪失状態に向かう。さらにSNSでは同様の言説を書き込む人が多く、それらがリツートされたりなどするため、「マイナスベクトル」のエコーチェンバー状態を作り出す。誹謗中傷した者たちは正義を抱え高揚し、臨場感空間で自生する。そして誹謗中傷された者は責められているといった感覚を抱え喪心し、臨場感空間のなかに閉塞する。
いつもどこからか、声なき声が彼女を責め続け、彼女の心を覆い尽くすのだ。そして「自分が悪いんだ」と考え、その責任を自己に向けてしまう。現実の人間とのコミュニケーションよりSNSでのコミュニケーションにそもそもハマってしまえば、このような喪心は循環し続ける。実際にSNS上に新たな誹謗中傷が書き込まれたり、かつての書き込みを繰り返し見てしまうからだ。
正義を抱え誹謗中傷した人物がSNSとの間に高揚したのと同じように、否それ以上に木村さんは喪心した状態をSNSとの間で増幅してしまったのだ。恐らくはリアティショーとSNSというテクノロジーに挟殺されるかのような二重の臨場感空間に抱き込まれてしまったのだろう。
(つづく)