前回トイレットペーパーを買うのに並んでいる人に疑問を投げかけた。そんな中で、なんのニュースか忘れてしまったのだが、考えさせられる意見があった。
それは政府が何を隠しているかわからないから、自己防衛としてトイレットペーパーを買うのに並んでいるという意見である。僕としてはデマ、最近の用語でいうとインフォデミックの問題として取り上げたのだが、そもそもその情報の出所が信じられないとすれば、上記のような反応を生み出すのだろう。噂が拡大する理由は出来事の重要性とそれに関わる情報が曖昧である場合である。とすれば、そもそも情報が曖昧どころか、その情報の出所が信用できないとすれば、何が正しい情報なのか判断する基準を持ち得ない。
実際、その出所の出所、政府の一番上に立つ人間の言葉を信用できないという認識がさすがに一般化してきているようだ。安倍総理がコロナウィルスの問題でイベント自粛や学校休校を指示したが、なんだか「私の責任で実施する」との旨を力強く強調していた。
ただ「後手に回っている」「専門家の意見も聞かず」とか批判が出ているが、確かにリーダーシップを発揮しているかのような印象を与えようとしていることを感じさせ、それでは信用されないだろう。僕自身は自分をよく見せるためのパフォーマンスをこの期に及んでもするのかと怒りを通り越して、これほど言葉を大切にできない人物に変に感心してしまったぐらいだ。ある種の日本社会の症状だ。
確かに日本のトップがこれでは、信用できるものがなくなる。そもそも共同体が脆弱になってしまったこの国のありようを重ね合わせると、ドラッグストアに並ぶのもそういう人にとっては必然的な行動なのかもしれない。
変な話だが、こういう時こそ、ゆっくり本当の休みをとったらどうだろう。産業化された社会は人々を労働に向かわせる。そして、余暇さえも労働のようになっていく。現代人の休みは消費であり、ツーリズムになる。このどちらも、結局のところ産業社会への奉仕である。実際に消費で産業が生産したものを購入する。ツーリズムでレジャー産業での消費を行う。人々はこれらを喜びとするように志向づけられている。
僕個人が思うことを少しだけ。休みの日に近くにあるスーパー銭湯に妻と一緒に行く。その帰りにスーパーに行って、買い物をする。スーパーの中を回りながら、生活に必要な食料などを購入する。当たり前のことだ。ただ買い物した後、すっかり疲れてしまう。せっかくスーパー銭湯でゆっくりしたのにだ。だからいつも買い物は労働だと思ってしまう。お金を払い産業社会に奉仕するのが消費ではないだろうか。
北極のヘアーインディアンという種族がいる。いまでも彼らが彼らの文明を維持しているのかはわからないが、もちろん彼らも労働をする。労働というよりは活動だろうか。生産が生活に密接しているからだ。現代人は生産活動をしても、その生産物やサービスと自らの生活とのつながりは薄い。そういう違いはある。
しかしながら、彼らも休みを取る。どのように休みを取るのかというと、本当に何もしないのだ。そして、ただ一人孤独を確保する。他との接触をしない。彼らは、そこでただ考える、あるいは瞑想をする。人格の統合をする上でどうしても必要であると彼らは認識している。休みとは考えることであり、あるいは想像を巡らすことである。
僕たちはヘアーインディアンのような休みを取ることがない。時間があれば、何かしないと気が済まない。スマホをいじっているし、YouTubeやテレビを見たりして暇つぶしをしている。その時、考えるのではない。反応しているだけである。想像する自由から遠ざかっているのだ。
ヘアーインディアンにとって休むことは労働に従属していないのだが、僕たちの休みは労働から解放されたときに行うものであるので、労働に従属している。そもそも人格の統合に意義さえ見出したりもしない。そうではなく、消費やツーリズムは人格の統合を忘却させる仕掛けになっている。人格の統合なんていうと宗教ぽいし、人にとっては怪しいと感じるかもしれないが、考える時間を作るということだ。
こういう考えることをおそらく哲学というのだと思う。コロナウィルスでいろんなイベントが中止されているので、考える時間ができたとして、みんな哲学者になってみてはどうでしょう。