以前僕はワクチンを摂取しないことにすると、このブログで書いた。そこで正義論を適応して、その理由を述べ、どうしていいものか逡巡しているとも書いた。
参考まで
https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/4a306fd2ed2e1d08d68bcd38c2c8074e
昨日コロナ接種券が郵送されてきた。一応目を通して見た。そんな時、気になっていたことをはっきりさせなければならいと考えた。逡巡していられない、はっきりしなければと。
それはワクチンパスポートの件である。娘がカナダに住んでいる。娘と会うためには、どうしてもワクチンパスポートが必要になる。カナダ入国の条件になるからだ。カナダ政府からの非公式の発表があるようだ。
初孫ということも近々ありそうだ。妻は本当に楽しみにしている。どんなことがあっても、娘のところに行って、初孫を抱き、世話したいと。という僕も当然楽しみだ。娘にも会いたい。そのためにはワクチンを打たなければならなくなる。
さあどうする!?
僕がワクチン接種しないと述べた異なる理由がある。
話は複雑になるので、機会があれば語りたいが、医療化による全体主義のようなことを感じているからだ。イヴァン・イリイチやミシェル・フーコーの近代医療批判が念頭にある。
よくブログを拝見しているエゾ中村さんの「現代医学の功罪」とかなり重なる医療理解でもある。
僕はワクチン否定派ではないのだが、煮え切らない態度になるのは、身体に異物を取り入れること自体が、病気にさせることであろうかと考えるからでもある。わざわざ病気になろうとしていることになる。それに集団免疫という概念が付与されているだけだ。
ちなみに厚労省の統計では、日本人の累計感染者数は現時点で80万人程度である。大多数の日本人は感染していない、つまり病気になっていないのに、ワクチンで病気になろうとしているのである。ちなみにフーコーはこのように医療が遍く広がることを生権力の一種としている。
ただ僕たちの身体に備わっている治癒能力が健全に働きさえすれば、短期的に大きな問題は生じない。統計的誤差になってしまうのだろうと思う。
ただ統計とは、近代的科学の方法に根ざしているから、観察可能なものを数値化して処理しているのだから、目に見えない、つまり人間が想定することの不可能な領域はただわからないだけだ。
ここで厳密に科学論をする力はないけれども、結局現代医療もまた、その効果を信じることによって成立する魔術のようなものであろう。
哲学者山本哲士さんのブログの一文を拝借しよう。今回のワクチンについて、次のように指摘している。
「感染拡大を防ぐとか、抑えるとか、そんなことはあり得ない。
ただ、うがいし手洗いし、酸素をいっぱい吸う、それしかできないのだ。
感染したくないのは誰しもだが、不可避にやってくる時は、どうしようもない、それが生命的環境でのsufferingである。」
http://webplaceuni.jugem.jp/?page=1より
このような場所論を紐解くには時間がかかるのだが、西田幾多郎の場所論を想像させる。
ブッタが四苦として生老病死をあげたが、このコロナ騒動も「苦」としての「病」であることは間違いない。2500年前のブッタが、この世を四苦八苦の「場所」であるとして、その「苦」を甘受しているだけである。山本さんは「苦」をsufferingと言い換えていることになるのだろう。
2500年経っても人間は何にもわかっていないで、「苦」から逃げようとして右往左往しているだけなのかもしれない。勘違いしないで欲しいが、コロナに感染したくはないし、コロナを怖れていない人を見ると、怖いと思う。
結局静かに過ごすのが良いかと思うが、さてカナダに行こうかどうか、やっぱり逡巡する。