Drマサ非公認ブログ

さすがに何か言いたくなる森会長発言3

 「わきまえる」ことを前提とする規範とは、なんだろう。上の者は上の者の態度や姿勢がアプリオリ(事前に)に決定している、下の者は下の者の態度や姿勢がアプリオリに決定している。そこで両者の行為が決定しているという規範である。

 これはパターナリズムである。家父長主義(父権制)であるが、もうひとつの訳がある。温情主義である。「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている」(wikiより)。

 この反対がマターナリズムで母性主義と訳されている。こちらは「相手の同意を得て、寄り添いつつ進む道を決定していくという方針である」(wikiより)。僕はケアに近い概念ではないかと思っている。ケアはキュア(治癒)と対比する概念だが、人が寄り添うこと、寄り添い合うことを含意する。

 例えば赤ん坊が生まれたとする。赤ん坊がどのような欲求があるのかを知り、その欲求に応える行為は、当然マターナリズムである。こちらはコミュニケーションが双方向性を持つ。

 ところが、赤ん坊の欲求とは無関係に、「これが赤ん坊には良いこと」だとして、何かを与えるとしよう。赤ん坊のことを考えているように見えるかもしれないが、現に目の前にいる赤ん坊を見もしないで、世間的に良いこととでもされている行為をしているだけになってしまうこともあるから、一方通行である。

 これでは赤ん坊とその親との具体的なコミュニケーションが存在しないで、頭で考えたことをしているだけになってしまう。これは実は観念論であり、現実を見ていないのである。実際のコミュニケーションも時間的経過を有するから、赤ん坊の欲求と無関係であると気づけば、違うコミュニケーションが稼働する。ちなみに欲求とはいうが、それは反応や表情などから知るわけである。 

 このような時間的経過が現実に稼働しているとは、「親が子供のためによかれと思って」一方通行的なパターナリズムを規範とし、その規範が「相手の同意を得て、寄り添いつつ進む道を決定」をするマターナリズムにコミュニケーションが変化したとでも整理可能である。ここには規範の変化があるから、創発的であるとさえいえる。

 ここで着目したいのは、コミュニケーションの規範が変わる理由は、他者に「寄り添う」契機である。この時、人は他者の顔を本当に見ることができる。

 森会長が女性蔑視をしているのは断るまでない事実だ。彼に欠けているのは、このような他者に「寄り添う」、そして他者の本当の顔を見つめる能力である。

 そして、そのような能力を作り出せなかったその元凶はパターナリズムという日本社会全体に浸透している規範である。

 パターナリズムの語源はペトロナイズpatoronaizeで「子供扱い」することであり、「見下す」という意味を包含している。パターナリズムは温情主義と訳されるが、「温情」には「子供扱い」「見下す」との人間の心性がある。

 日本社会は「子供扱い」にする側とされる側、「見下す」側とされる側という“心的なヘゲモニー(覇権)”の場所であるのだ。

 森会長は随分偉い人だから、女性を見下すだけではなく、会見でマスコミを見下し、強いては国民を見下しているのだ。彼に聞けば「そんなことはない」というだろうが、「見下す」ことをデフォルト(規範)としている人間は、「見下す」見方しか身につけていない。

 日本では、パターナリズムに留まったままの社会や個人がいまだに力を持っている。まさにパターナリズム(家父長主義)に意義申し立てをする象徴的領域である女性蔑視sexismで噴出したわけだ。

 森会長はパターナリズムの象徴的存在なのである。

(つづく)

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