先日作家藤原智美さんの講演会に行ってみた。ここでも取り上げたのだが、彼の著書『スマホ断食』(2021年潮出版)に以下のような記述がある。ちょっと紹介。
「私の知り合いに『スマホは人生そのもの』といった人がいました。これは誇張ではなく、スマホと人との関係の本質を突いたひと言です。スマホがモノでもコトでもない情報を、私たちの関心の中心にすることに成功しました。しかしそれが、人間関係や個人の内面にも新しいやっかいな問題を引き起こしています」(P44〜45)
藤原さんはこの引用した認識をもとに、「スマホ断食」とスマホを利用しない日を作っているという。実際にスマホで何が変わったかという話は、皆それぞれに気づくこともあるだろう。ところが、気づかない人たちがいる。それは若者になる。
当たり前だが、物御心ついた時からスマホが手元にある。とすれば、スマホがない生活自体を知らないことになる。僕ぐらいの年齢になればスマホのない時代、ガラケーの時代、電話の時代、呼び出し電話の時代と知っているので、それらの時代と無意識的に比較している。その意味で、無意識的にスマホを相対化することができる。
ところが、若者はそうはいかない。それしか知らないから、知識として知ることがあっても、生活実感としては知らないのである。知行合一という点でいえば、スマホがない生活をしたことがなければ、スマホがない生活を知ったことにはならない。
藤原さんは、この生活実感を与えるモノやコトが失われつつあり、生活実感が情報によって作られていることから、人々の変化を見ているようだ。そこで人間もまた情報として立ち現れる。情報だから、スマホの中に保存され、データとしてやりとり可能になる。もう具体的に生活する人間なんか考えなくてもいい世界が待ち受けている。
人々が生活と名付けている行為連関が変わるのだが、言葉としては生活なので、生活していると同じ言葉で表現する。しかし、その行為連関は変容する。知行合一をまた持ち出すなら、「行」は変化してしまうのだから、もはやかつての生活は後退する。それでも「知」は「生活」という言葉を使う。
ここで問うべきは、プラトンのいう「よく生きる」にスマホは叶っているのかということになるが、そもそも人々は「よく生きる」を知っているのかという問いとして返ってくる。
それにしても「スマホが人生そのもの」とは、人生は情報になることだけが対象になるということだ。少なくとも違和感を持つのではないか。違和感がなければ「やっかいな問題」に気づくこともないだろう。
藤原さんは違和感をもつ。そこで「スマホ断食」という日常的実践に向かい、「暮らし」の大切さを発見する。