小林秀雄が『学生との対話』の「講義 信ずることと知ること」の中で、「考える」という行為の核を本居宣長に従って語っている。
そこで小林はインテリが嫌いだと明言している。特にジャーナリズムのインテリも嫌いだと。加えて左翼、右翼といった党派性で徒党を組むことも嫌っている。
日本を愛するのに、何か組織が必要なわけではなく、そのまま愛すればいいともいう。徒党を組んだ瞬間、どうも違うものになるからだとも。なぜなら、日本は心の中にあるのであって、外にあるわけではないからだとも。
で、インテリに戻ると、インテリは心の中にある日本を知らない人であるという。ゆえに嫌いなわけだ。
この小林の言葉を当てはめると、最近のネットの日本愛を語る人、逆に“非国民”と罵倒する人は、心の中に日本がない人物であり、日本を心の外に作って、日本を対象化するような作業で、日本を外的に確実にしようと試みていることになるだろう。しかし、日本は対象化できないし、それは日本ではない。その意味で人間の精神の活動なのであって、よって心の中にあるわけだ。
日本人であることは、日本礼賛したり、非国民を糾弾したりすることとは全くかけ離れていると言うことだ。そこに反省がないし、信じる能力を失ってしまったのだとも。
そして、小林は「考える」との日本語を本居宣長に従って、もとは「かむかふ」と指摘する。「か」は特に意味のない接頭語、「む」は自分の身で、「かふ」は交わることである。つまり「考える」とは自分の身で何かと交わることだ。考えるとは付き合うことだとも。
さて、先のネット上で“非国民”と罵声をあげる人は「考え」ているでしょうか?身をもって交わっているだろうか?これは親密な関係に入り込むことなので、対象化できないでしょう。頭で考えるとは対象化することなので、小林が言う「考える」ではないことになる。