前回でナショナリズムについては、いったんおしまいにしました。僕なりの理解を、僕なりの表現で行うことが目的だったと振り返っています。もちろん学問的に抑えるところは、抑えています。
で、思ったのが、なんだか僕が保守主義に見えるという気がするのです。実際はかなりリベラルに見えるだろうし、逆にも見えると思います。一応言えるのは、観念とかイデオロギーを拝むことはないということでしかありません。
イエス・キリストが偶像を禁止しているにもかかわらず、キリスト教徒はイエスの絵や銅像を拝みます。何かを拝むことは人間として当然のことです。しかしながら、イエスがそう言ったことには、深い理由があるに違いません。別にキリスト教でなくとも、拝みます。人間ですから、間違ったことを拝んでいるかもしれないと思います。
特に主義主張というのは、間違っている可能性大です。主義主張は恣意的あるいは相対的なのですから、間違っている部分がありますから、間違いを含む主義主張は間違っています。だから、慎重に。
民主主義や人権にだって、確実にイデオロギーです。だから民主主義や人権は駄目だと言っているのではありません。これらは偶像ではないのかと疑ってみてもいい。そこにデカルト的懐疑主義が要請されます。
まあ、それはいいとして、僕が保守主義というわけではないということを。一応断っておきますが、保守は結構いいとは思うのです。
保守主義は歴史や伝統で自分の足元を固めるというものです。では歴史や伝統は共有できるのでしょうか。実は歴史も伝統も解釈であって、解釈する個人にとっての事実です。そうすると、人それぞれに異なる面を持ちます。ですから主義主張として現れます。
このような歴史や伝統に価値をおくという事は、その価値を自分の拠り所にしたいということで、それを拝むような行為です。人間は拠り所を持ちたいのでしょう。それは思い込みになってしまいます。少なくとも可能性を持ちます。ですから、思い込みかもしれないという態度は失われません。
という事で、実は僕は主義主張を持たないのですが、何か語れば、主義主張のように見えると思います。あえて言えば、やっぱり「無知の知」を手放さない、そういう姿勢態度であるのかもしれませんが、まあよくわかりません。