[黒鉄ヒロシ著「[暗殺140年]誰が龍馬を殺したか」全文無断転載
週間新潮2007年11月22日号掲載]
(2007-11-24 当ページ掲載の再掲載)
黒鉄ヒロシ著「[暗殺140年]誰が龍馬を殺したか」全文無断転載
誰が龍馬を殺したか
慶応三年(一八六七)十一月十五日、坂本龍馬が非業の死を遂げてより、平成十九年(二〇〇七)の今年は没後百四十年にあたる。
日本中を動き回った龍馬さんなのに、場所は選んだかのように幕末の表舞台といえる京。
季節も他の三つは却下して、冬。
あの時期、あの場所での最期は竜馬ファンにとっては、ここに打つしかないピリオドのように思えてしまう。
巻き添えというか、道連れといおうか、相伴役としての中岡慎太郎という人選も、他にはちょいと考えられない。
時は慶応三年十一月十五日夜五ツ半(午後9時過ぎ)、所は殺気立ち込む京の近江屋--。
今からちょうど140年前、奇しくも自らの誕生日に、坂本龍馬は凶刃にたおれた。薩長同盟、大政奉還・・・、時代を拓いた龍馬を殺したのは誰なのか?黒幕は存在するのか?龍馬の一生を描いたこともある黒鉄ヒロシ氏が読み解く、「幕末ミステリー」。
結果がそうだから、そう思うだけではなくて、あの日、龍馬さんと対面する火鉢の向こうに(居ても不思議ではない条件で)座らせて、慎太郎さんに遜色のない人物などいるとは思えない。
慎太郎さんには悪いが、龍馬さんお二人の死出の旅では景色が寂し過ぎる。かといって数が賑やかでも龍馬さんの輪郭がぼやけて面白くない。
後追いのこじつけだが、死に際しても龍馬さんのバランスはすこぶるに良い。
このバランスのセンスは上下左右へと延びて、今日の龍馬ファンの層の拡がりへと繋がる。
時を越えて、人気を保ち続ける龍馬さんの魅力を支えている理由が、このバランス感覚ではあるまいか。
ヒトを観察する際に用いる物差しの種類にはいろいろあるが、目盛りを「価値観」 に据えると判り易い。
目盛りは権力型、経済型、芸術型、理論型、社会型、宗教型の六つ。
何れにせよ、ひとつの型に一元論的に傾ぐタイプは傍迷惑で閉口する。
龍馬さんにも「価値観」の物差しを当ててみる。
権力型か。
皆無とはいえないが、新政府の名簿から自らを外したという逸話から、△。
経済型か。
世界の海援隊として、貿易の計画を持っていたようだが、重心は金銭獲得ではなく、行動の方にこそ掛かっていそうな感じから、△。
芸術型か。I
発想の変化と飛躍ぶり、手紙の文面や書体と遺品のセンスの良さから、△。
理論型か。
河田小龍、勝海舟、横井小楠、大久保一翁などの先進的な意見を開くと屈託なくその理論の上に座ってしまうところから、△。
社会型か。
ボランティアに汗するタイプとも思えないが、俯瞰的には天下万民の為を考えているともいえるので、△。
宗教型か。
反迷信的、反宗教的で、×。
集計すると、龍馬さんの価値観はバランスがとれて他者から煙たがられないタイプだと言える。
あの時代に於いて、龍馬さんが異様ともいえる程に人脈と行動の範囲とを拡げることができた理由は、宗教型を除いては相手のキャラクターが何れの価値観の上こ立っていても対応できたからだろう。
閉塞と改革、という矛盾するエネルギーが横溢する時代に対処できるのは、多元的なタイプであることを龍馬さんは示してくれる。
「価値観」の目盛りでは計れない他の魅力については、姉や姪に宛てたやさしさとユーモア溢れる手紙が証左となろう。
諸説入り乱れる犯人探し
小声で付け加えるに、龍馬さんと同じ土佐の産である僕の曾祖母の話。
「その話」は母が祖母から聞いて、僕に伝えた。祖母は曾祖母から開かされた。
江戸から明治を生きた曾祖母の時代の土佐での龍馬さんに対する世評は「怖い人」というものであったという。
故郷以外での龍馬さんの行動は、あることないこと尾鰭がついて「怖い怖い龍馬さん」の噂となって土佐へと環流した。
「龍馬さんが来た!」と聞くと、子供達は即座に泣き止んだ。
子供だけではなく、関わりになるのを怖れた大人達も身を細く低くしたものらしい。
さて曾祖母の「その話」。
ある日、土佐の城下の路上で遊んでいた曾祖母達子供の群れに、本物の龍馬さんが近付いて来た。
逃げ遅れて呆然と立ち尽くす曾祖母に「いずれ均し(身分の上下のない)の世が来るぜよ」と龍馬さんが話しかけたというのである。
話は、それだけである。
唐突に、そんなことを幼児に向かって言うものであろうか。
怖らく、土佐のどこかで龍馬さんが口にしたフレーズが曾祖母の耳に刺さり、我ことの体験としたのだろう。
すべからく証言の類いは眉に唾して開くべきだなと唾つけた片眉を上げて慶応三年十一月十五日の近江屋へと戻る。
坂本龍馬、中岡慎太郎両名暗殺の実行犯は京都見廻組で、ほぼ確定されている。
後に書き遺し、語り遺した、共に見廻組の今井信郎と渡辺一郎(篤)の証言は実行犯でなければ知り得ない内容を含んでいる。
近江屋主人新助や、龍馬さんの言いつけで犯行時直前に軍鶏肉を買いに走った書肆「菊屋」の峰吉の証言と、先の今井、渡辺の言とが食い違って奇妙なのは、後者が坂本、中岡両人の他に現場に居た三人の存在を主張する点である。
今井証言は、
「--六畳の方には書生が三人おって、八畳の方には坂本に中岡が--、机を挟んで座っており--」と、書生三人の存在を挙げる。
渡辺証言は、
「従僕あい倒し即死す--一人命を助かりし者、これは十三、四歳くらいの給仕か、右の動作に驚き自分の前の机の下へ頭を突っ込み--子供ゆえに、そのまま見逃し候--」
自分連の格闘の規模を少しでも大きくしたく思う誘惑の疑いは残るけれど、今井にしても渡辺にしても嘘をつくならポイントが異るであろう。
現場についての証言の骨の専(もっぱ)らは、事件後に川田瑞穂や岩崎鏡川の問いに峰吉が答えたものである。
この峰吉証言の奇怪さと矛盾点を突いて眼からウロコを落としてくれるのが、菊地明氏による『龍馬暗殺完結篇』(新人物往来社)である。
菊地氏による「峰吉の嘘」についての検証を抜粋させていただく。
現場遺留品の屏風の図の誤り。
坂本、中岡両名の葬儀の日時の誤り(夜であったものを昼間とする)。
龍馬さんの近江屋移転を半年から一年前とする誤り(岡内俊太郎の手紙によれば
移転は事件一ケ月程前)。
のちの天満屋事件では餅屋に化けて新選組屯所に潜入し、討ち入りの手引きをしたなどと自らの活躍を語るも、嘘言。
近藤勇のアリバイ
以上の如く事件報告の骨をなす峰吉の証言にかくも嘘が紛れ込んでは、先の曾祖母の話と同様に眉唾ものとなる。
今井、渡辺のスタンスとは異り、峰吉には嘘をつく動機があったとするとどうであろう。
今井の証言の「書生が三人」の中の一人が、あるいは渡辺の言う「十三、四歳くらいの給仕」が峰吉を指していたとしたら、どうなるであろう。
奇妙な証言という点では近江屋新助も同様で、『土藩坂本龍馬伝』には、実に「大小三十四ヶ所を数える」とその傷を指摘するというのに、『近畿評論』への『弁駁書』の中に「体部に負傷ナシ」と不思議なことを書き付ける。
土佐の谷干城(たてき)にしても、田中光顕にしても、証言の細部では嘘言に活躍を許してしまう。
信じられる筈の証言に嘘言が含まれるとあっては、それぞれの矛盾を突いて他に暗殺犯を探したくなる誘惑も当然と思える。
諸説入り乱れての犯人探しの理由である。
幕府説(新選組説・見廻組説)、薩摩藩説、土佐藩説の三本柱に加えて、フリーメーソン関与説、中岡慎太郎説と、説は増え続ける。
なんと、行きずり殺人説まで登場する。
なにやら 「邪馬台国の場所」と「本能寺の変の黒幕」の知的騒動にも似て、各人が探偵となって様々な角度から検証するものだから、それぞれの疑問符がメタボ的に肥大する。
完全無欠の証言など有り得ず、言語に頼る人は知らぬうちに嘘をつき、虚構が歴史書の中に鎮座することとなる。
新選組説が腰砕けになったのは、企ての要となるべき近藤勇にアリバイ(妾宅での会津藩士・山本覚馬の証言)が証明できるどころか、「昨夜はお手柄」と見廻組与頭佐々木只三郎を名指しして宴会まで開いていたことが判ってしまった。
資料の公開や新証言が出揃った明治三十三年頃になって新選組はようやく第一容疑者の椅子からの解放を許されるが、近藤の取調べにあたった谷干城の思い込みから大急ぎでの斬首という拙速な結果情報が判定に影響を及ぼしたと思われる。
拷問の末とはいえ、犯行を自白した隊士(大石鍬次郎)までいては情報の行き渡らない時代に、○印の札を多くが掲げても無理はなかった。
多くの人気を博す(?)薩摩藩説の動機として、龍馬さんの平和改革による共和思想と、西郷達の内戦を条件とする立憲君主制への移行とは確かに対立はするが、抹殺する程に急を要したとも思えないのだが--。
更に、薩摩の暗殺陣のエース(中村半次郎)の登板が不可である以上、実行犯は見廻組に頼らざるを得なくなるが、この二つの点を結ぶのは困難ではなかろうか。
かてて加えて、西郷、大久保、岩倉達の同調者である中岡の殺害までをも含む計画となると大いに首を傾げざるを得ない。
ええい、ならば! と、ここに中岡慎太郎説が勃起する。
あちら立てればこちらが立たず、こちらを押せばあちらが飛び出す珍説が転び出る。
土佐藩説にまつわる謎
土佐藩説を今少し丁寧に例にとる。
近江屋の三軒隣りに下宿し龍馬さんとはごく親しかったにも拘らず、葬儀に参列しなかった福岡藤次(孝弟)(たかちか)の不思議。
伊呂波丸事件の賠償金七万両支払いを巡っての後藤象二郎と岩崎弥太郎の生臭い関係。
弥太郎の『日記』の近江屋事件前後の記述の不自然な空白。
この部分の公開について拒否し続ける岩崎家は証拠湮滅を画策したかのように、グラバー邸を購入後、長崎市へ寄贈するという奇怪な対応も見せる。
海援隊の前身の『亀山社中』設立のわずか三ケ月後に上海より七千八百挺という大量の銃が届いた謎。
謎に深い関係を持つグラバーが二十三歳の若さで当時の世界的巨大商社ジャーデン・マジソン商会の対日エージェント代表の座につけた裏の事情。
グラバーと岩崎家(つまり後の三菱)の濃密な関係と疑問の尻尾の先が、いつの問にやら円となって繋がる不気味。
土佐藩の入口から覗いただけで、ずらりと疑問符が並ぶ。
これらの疑問は本当に暗殺事件と係わりを持つのであろうか。
助詞さえ除けば他の言葉達は都合良くくっついてしまうのに似てはいまいか。
福岡は参列したくなかっただけであり、象二郎と弥太郎の関係は単なる汚職で、後者の日記も事件以外のなんらかの不都合、グラバー邸寄附も大三菱の好意、大量の銃の到着も偶然に便があっての迅速さ、異様な若さでのグラバーの代表就任も群を抜いた彼の才能。
突き放してしまうと、繋がっていた糸はたちどころに寸断されて、面白くも可笑しくもないバラバラの物語に戻っていく。
各説を結んだ同様の円が龍馬さんと接点を持ってしまうから、どこ迄も決着はつかずに暗殺の鍵穴は拡がり続ける。
かくして、没後百四十年を経ても龍馬さんを取り捲く物語は色褪せない。
龍馬さんのバランスの良さとは、宗教を抜きにした天の配剤のような質のものではなかろうか。
ユングのいう偶然の中の偶然のようなシンクロニシティ(共時性)の世界に生まれて消えた存在自体の奇跡。
南方熊楠が不思議の図の中に残した「縁」と「起」の二本の線が交差する点の上に立った坂本龍馬。
天の配剤について、僕が地の廃材の如き文字を撒き散らさずとも、この国には龍馬さんを追い駆けて登場した天与の才を持つ作家があった。
『竜馬がゆく』を、司馬遼太郎は次のように結んだ。
「天に意思がある。
としか、この若者の場合、おもえない。
天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、
その使命がおわったとき惜し気もなく天へ召しかえした--」
十年後の没後百五十年も、龍馬さんの物語は呼吸し続けている筈だ。
以上、無断転載全文
*2008-11-02 「明治維新とは何だったのか?140年めの真実。-0811」 もご覧ください。
この腐敗した国を変えられるのは、小沢一郎、田中真紀子。
小沢一郎、
田中真紀子、
日本国民を救ってください。
日本破壊 悪の系譜:薩摩藩→明治維新 ; 岩倉具視→明治政府→(長州藩)→山県有朋→大日本帝国→昭和後期の官僚→(瞞着家,下村 治)→(小泉純一郎)→寄生虫集団:現代の官僚(悪の巣窟:霞が関)
The genealogy of Japanese evil destroying Japan : Satsuma-han --- the Meiji Restoration ; Tomomi Iwakura --- The Meiji government --- ( Choshu-han ) --- Aritomo Yamagata --- Imperial Japan --- Japan's postwar bureaucrats --- ( Tricker,Osamu Simomura ) --- (Junichirou Koizumi) --- Japanese Parasite Maffia (Bureaucrats of Japan today) (The nest of vice : Kasumigaseki)
毎月1日に ”「腐敗国家日本:巨悪の創始は岩倉具視」の論理概要の目次マップ”を載せます。
小天使みかえる MinorAngel Mikael
(旧ブログ名「日本の諸悪の根源は明治維新」)
週間新潮2007年11月22日号掲載]
(2007-11-24 当ページ掲載の再掲載)
黒鉄ヒロシ著「[暗殺140年]誰が龍馬を殺したか」全文無断転載
誰が龍馬を殺したか
慶応三年(一八六七)十一月十五日、坂本龍馬が非業の死を遂げてより、平成十九年(二〇〇七)の今年は没後百四十年にあたる。
日本中を動き回った龍馬さんなのに、場所は選んだかのように幕末の表舞台といえる京。
季節も他の三つは却下して、冬。
あの時期、あの場所での最期は竜馬ファンにとっては、ここに打つしかないピリオドのように思えてしまう。
巻き添えというか、道連れといおうか、相伴役としての中岡慎太郎という人選も、他にはちょいと考えられない。
時は慶応三年十一月十五日夜五ツ半(午後9時過ぎ)、所は殺気立ち込む京の近江屋--。
今からちょうど140年前、奇しくも自らの誕生日に、坂本龍馬は凶刃にたおれた。薩長同盟、大政奉還・・・、時代を拓いた龍馬を殺したのは誰なのか?黒幕は存在するのか?龍馬の一生を描いたこともある黒鉄ヒロシ氏が読み解く、「幕末ミステリー」。
結果がそうだから、そう思うだけではなくて、あの日、龍馬さんと対面する火鉢の向こうに(居ても不思議ではない条件で)座らせて、慎太郎さんに遜色のない人物などいるとは思えない。
慎太郎さんには悪いが、龍馬さんお二人の死出の旅では景色が寂し過ぎる。かといって数が賑やかでも龍馬さんの輪郭がぼやけて面白くない。
後追いのこじつけだが、死に際しても龍馬さんのバランスはすこぶるに良い。
このバランスのセンスは上下左右へと延びて、今日の龍馬ファンの層の拡がりへと繋がる。
時を越えて、人気を保ち続ける龍馬さんの魅力を支えている理由が、このバランス感覚ではあるまいか。
ヒトを観察する際に用いる物差しの種類にはいろいろあるが、目盛りを「価値観」 に据えると判り易い。
目盛りは権力型、経済型、芸術型、理論型、社会型、宗教型の六つ。
何れにせよ、ひとつの型に一元論的に傾ぐタイプは傍迷惑で閉口する。
龍馬さんにも「価値観」の物差しを当ててみる。
権力型か。
皆無とはいえないが、新政府の名簿から自らを外したという逸話から、△。
経済型か。
世界の海援隊として、貿易の計画を持っていたようだが、重心は金銭獲得ではなく、行動の方にこそ掛かっていそうな感じから、△。
芸術型か。I
発想の変化と飛躍ぶり、手紙の文面や書体と遺品のセンスの良さから、△。
理論型か。
河田小龍、勝海舟、横井小楠、大久保一翁などの先進的な意見を開くと屈託なくその理論の上に座ってしまうところから、△。
社会型か。
ボランティアに汗するタイプとも思えないが、俯瞰的には天下万民の為を考えているともいえるので、△。
宗教型か。
反迷信的、反宗教的で、×。
集計すると、龍馬さんの価値観はバランスがとれて他者から煙たがられないタイプだと言える。
あの時代に於いて、龍馬さんが異様ともいえる程に人脈と行動の範囲とを拡げることができた理由は、宗教型を除いては相手のキャラクターが何れの価値観の上こ立っていても対応できたからだろう。
閉塞と改革、という矛盾するエネルギーが横溢する時代に対処できるのは、多元的なタイプであることを龍馬さんは示してくれる。
「価値観」の目盛りでは計れない他の魅力については、姉や姪に宛てたやさしさとユーモア溢れる手紙が証左となろう。
諸説入り乱れる犯人探し
小声で付け加えるに、龍馬さんと同じ土佐の産である僕の曾祖母の話。
「その話」は母が祖母から聞いて、僕に伝えた。祖母は曾祖母から開かされた。
江戸から明治を生きた曾祖母の時代の土佐での龍馬さんに対する世評は「怖い人」というものであったという。
故郷以外での龍馬さんの行動は、あることないこと尾鰭がついて「怖い怖い龍馬さん」の噂となって土佐へと環流した。
「龍馬さんが来た!」と聞くと、子供達は即座に泣き止んだ。
子供だけではなく、関わりになるのを怖れた大人達も身を細く低くしたものらしい。
さて曾祖母の「その話」。
ある日、土佐の城下の路上で遊んでいた曾祖母達子供の群れに、本物の龍馬さんが近付いて来た。
逃げ遅れて呆然と立ち尽くす曾祖母に「いずれ均し(身分の上下のない)の世が来るぜよ」と龍馬さんが話しかけたというのである。
話は、それだけである。
唐突に、そんなことを幼児に向かって言うものであろうか。
怖らく、土佐のどこかで龍馬さんが口にしたフレーズが曾祖母の耳に刺さり、我ことの体験としたのだろう。
すべからく証言の類いは眉に唾して開くべきだなと唾つけた片眉を上げて慶応三年十一月十五日の近江屋へと戻る。
坂本龍馬、中岡慎太郎両名暗殺の実行犯は京都見廻組で、ほぼ確定されている。
後に書き遺し、語り遺した、共に見廻組の今井信郎と渡辺一郎(篤)の証言は実行犯でなければ知り得ない内容を含んでいる。
近江屋主人新助や、龍馬さんの言いつけで犯行時直前に軍鶏肉を買いに走った書肆「菊屋」の峰吉の証言と、先の今井、渡辺の言とが食い違って奇妙なのは、後者が坂本、中岡両人の他に現場に居た三人の存在を主張する点である。
今井証言は、
「--六畳の方には書生が三人おって、八畳の方には坂本に中岡が--、机を挟んで座っており--」と、書生三人の存在を挙げる。
渡辺証言は、
「従僕あい倒し即死す--一人命を助かりし者、これは十三、四歳くらいの給仕か、右の動作に驚き自分の前の机の下へ頭を突っ込み--子供ゆえに、そのまま見逃し候--」
自分連の格闘の規模を少しでも大きくしたく思う誘惑の疑いは残るけれど、今井にしても渡辺にしても嘘をつくならポイントが異るであろう。
現場についての証言の骨の専(もっぱ)らは、事件後に川田瑞穂や岩崎鏡川の問いに峰吉が答えたものである。
この峰吉証言の奇怪さと矛盾点を突いて眼からウロコを落としてくれるのが、菊地明氏による『龍馬暗殺完結篇』(新人物往来社)である。
菊地氏による「峰吉の嘘」についての検証を抜粋させていただく。
現場遺留品の屏風の図の誤り。
坂本、中岡両名の葬儀の日時の誤り(夜であったものを昼間とする)。
龍馬さんの近江屋移転を半年から一年前とする誤り(岡内俊太郎の手紙によれば
移転は事件一ケ月程前)。
のちの天満屋事件では餅屋に化けて新選組屯所に潜入し、討ち入りの手引きをしたなどと自らの活躍を語るも、嘘言。
近藤勇のアリバイ
以上の如く事件報告の骨をなす峰吉の証言にかくも嘘が紛れ込んでは、先の曾祖母の話と同様に眉唾ものとなる。
今井、渡辺のスタンスとは異り、峰吉には嘘をつく動機があったとするとどうであろう。
今井の証言の「書生が三人」の中の一人が、あるいは渡辺の言う「十三、四歳くらいの給仕」が峰吉を指していたとしたら、どうなるであろう。
奇妙な証言という点では近江屋新助も同様で、『土藩坂本龍馬伝』には、実に「大小三十四ヶ所を数える」とその傷を指摘するというのに、『近畿評論』への『弁駁書』の中に「体部に負傷ナシ」と不思議なことを書き付ける。
土佐の谷干城(たてき)にしても、田中光顕にしても、証言の細部では嘘言に活躍を許してしまう。
信じられる筈の証言に嘘言が含まれるとあっては、それぞれの矛盾を突いて他に暗殺犯を探したくなる誘惑も当然と思える。
諸説入り乱れての犯人探しの理由である。
幕府説(新選組説・見廻組説)、薩摩藩説、土佐藩説の三本柱に加えて、フリーメーソン関与説、中岡慎太郎説と、説は増え続ける。
なんと、行きずり殺人説まで登場する。
なにやら 「邪馬台国の場所」と「本能寺の変の黒幕」の知的騒動にも似て、各人が探偵となって様々な角度から検証するものだから、それぞれの疑問符がメタボ的に肥大する。
完全無欠の証言など有り得ず、言語に頼る人は知らぬうちに嘘をつき、虚構が歴史書の中に鎮座することとなる。
新選組説が腰砕けになったのは、企ての要となるべき近藤勇にアリバイ(妾宅での会津藩士・山本覚馬の証言)が証明できるどころか、「昨夜はお手柄」と見廻組与頭佐々木只三郎を名指しして宴会まで開いていたことが判ってしまった。
資料の公開や新証言が出揃った明治三十三年頃になって新選組はようやく第一容疑者の椅子からの解放を許されるが、近藤の取調べにあたった谷干城の思い込みから大急ぎでの斬首という拙速な結果情報が判定に影響を及ぼしたと思われる。
拷問の末とはいえ、犯行を自白した隊士(大石鍬次郎)までいては情報の行き渡らない時代に、○印の札を多くが掲げても無理はなかった。
多くの人気を博す(?)薩摩藩説の動機として、龍馬さんの平和改革による共和思想と、西郷達の内戦を条件とする立憲君主制への移行とは確かに対立はするが、抹殺する程に急を要したとも思えないのだが--。
更に、薩摩の暗殺陣のエース(中村半次郎)の登板が不可である以上、実行犯は見廻組に頼らざるを得なくなるが、この二つの点を結ぶのは困難ではなかろうか。
かてて加えて、西郷、大久保、岩倉達の同調者である中岡の殺害までをも含む計画となると大いに首を傾げざるを得ない。
ええい、ならば! と、ここに中岡慎太郎説が勃起する。
あちら立てればこちらが立たず、こちらを押せばあちらが飛び出す珍説が転び出る。
土佐藩説にまつわる謎
土佐藩説を今少し丁寧に例にとる。
近江屋の三軒隣りに下宿し龍馬さんとはごく親しかったにも拘らず、葬儀に参列しなかった福岡藤次(孝弟)(たかちか)の不思議。
伊呂波丸事件の賠償金七万両支払いを巡っての後藤象二郎と岩崎弥太郎の生臭い関係。
弥太郎の『日記』の近江屋事件前後の記述の不自然な空白。
この部分の公開について拒否し続ける岩崎家は証拠湮滅を画策したかのように、グラバー邸を購入後、長崎市へ寄贈するという奇怪な対応も見せる。
海援隊の前身の『亀山社中』設立のわずか三ケ月後に上海より七千八百挺という大量の銃が届いた謎。
謎に深い関係を持つグラバーが二十三歳の若さで当時の世界的巨大商社ジャーデン・マジソン商会の対日エージェント代表の座につけた裏の事情。
グラバーと岩崎家(つまり後の三菱)の濃密な関係と疑問の尻尾の先が、いつの問にやら円となって繋がる不気味。
土佐藩の入口から覗いただけで、ずらりと疑問符が並ぶ。
これらの疑問は本当に暗殺事件と係わりを持つのであろうか。
助詞さえ除けば他の言葉達は都合良くくっついてしまうのに似てはいまいか。
福岡は参列したくなかっただけであり、象二郎と弥太郎の関係は単なる汚職で、後者の日記も事件以外のなんらかの不都合、グラバー邸寄附も大三菱の好意、大量の銃の到着も偶然に便があっての迅速さ、異様な若さでのグラバーの代表就任も群を抜いた彼の才能。
突き放してしまうと、繋がっていた糸はたちどころに寸断されて、面白くも可笑しくもないバラバラの物語に戻っていく。
各説を結んだ同様の円が龍馬さんと接点を持ってしまうから、どこ迄も決着はつかずに暗殺の鍵穴は拡がり続ける。
かくして、没後百四十年を経ても龍馬さんを取り捲く物語は色褪せない。
龍馬さんのバランスの良さとは、宗教を抜きにした天の配剤のような質のものではなかろうか。
ユングのいう偶然の中の偶然のようなシンクロニシティ(共時性)の世界に生まれて消えた存在自体の奇跡。
南方熊楠が不思議の図の中に残した「縁」と「起」の二本の線が交差する点の上に立った坂本龍馬。
天の配剤について、僕が地の廃材の如き文字を撒き散らさずとも、この国には龍馬さんを追い駆けて登場した天与の才を持つ作家があった。
『竜馬がゆく』を、司馬遼太郎は次のように結んだ。
「天に意思がある。
としか、この若者の場合、おもえない。
天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、
その使命がおわったとき惜し気もなく天へ召しかえした--」
十年後の没後百五十年も、龍馬さんの物語は呼吸し続けている筈だ。
以上、無断転載全文
*2008-11-02 「明治維新とは何だったのか?140年めの真実。-0811」 もご覧ください。
この腐敗した国を変えられるのは、小沢一郎、田中真紀子。
小沢一郎、
田中真紀子、
日本国民を救ってください。
日本破壊 悪の系譜:薩摩藩→明治維新 ; 岩倉具視→明治政府→(長州藩)→山県有朋→大日本帝国→昭和後期の官僚→(瞞着家,下村 治)→(小泉純一郎)→寄生虫集団:現代の官僚(悪の巣窟:霞が関)
The genealogy of Japanese evil destroying Japan : Satsuma-han --- the Meiji Restoration ; Tomomi Iwakura --- The Meiji government --- ( Choshu-han ) --- Aritomo Yamagata --- Imperial Japan --- Japan's postwar bureaucrats --- ( Tricker,Osamu Simomura ) --- (Junichirou Koizumi) --- Japanese Parasite Maffia (Bureaucrats of Japan today) (The nest of vice : Kasumigaseki)
毎月1日に ”「腐敗国家日本:巨悪の創始は岩倉具視」の論理概要の目次マップ”を載せます。
小天使みかえる MinorAngel Mikael
(旧ブログ名「日本の諸悪の根源は明治維新」)