TOKYO ⇔ SAIGON そしてたくさんの街へ

東京とサイゴン、そして、いろいろな街を巡ります。

「秘密」

2008-02-25 | Weblog
父の脳梗塞は、小脳梗塞だった。だから自分の預金通帳番号も言えるほど、大脳はちゃんと機能していた。ただ、左の運動機能が麻痺したため、車椅子生活になった。

自宅での生活が難しいので、身の回りのことはすべて自分でやれるという条件のケアハウスに居を移した。テレビ、冷蔵庫、電話を買い、住民票を写し、そこは10畳ほどの父の「自宅」となった。

娘が亡くなったことを父には言えなかった。自分が倒れたたった一ヵ月後に孫が自死したことを知ったら、父は自分のせいだと思っただろう。病気で絶望を感じている時期でもあり、もしかしたら父も後を追ってしまうかもしれない。

私たち兄弟はそれを懸念した。それほど父と娘の絆は深かった。

娘の死後も、わたしはしばらく毎週日曜日には父のところへ行っていた。父は必ず、「〇〇はどうしている?」と私に尋ねた。何度か、わたしは嘘を行った。

しかし、その「嘘」は、娘を亡くしてまだ2ヶ月も経っていないわたしには地獄だった。父のところへ行くというだけで「反応性鬱」がひどくなり、わたし自身の生活がまともにできなくなった。薬の量が増えた。

見かねた弟は言った。「親父は最後までボクが面倒見るから、姉貴は何もしないでいいよ」と。わたしは「今度父に会うのは、父の死んだときだな」と覚悟して、弟に任せた。

弟が父に、まったく顔を見せなくなった孫と娘のことを、どのように説明していたのかはわからない。ただ、父がそのことを尋ねると弟は「元気でいるから聞くなよ!」と、心を鬼にして怒ってみせるといっていた。父は徐々に、何も尋ねなくなったらしい。

その弟がアメリカの会社の社長となり、アメリカに移ってしまったのが二年前。父の面倒をみるために、一ヶ月に一度ほどは日本に帰国し、あとはNGOの方に任せていた。

昨年の夏の朝、弟から会社に電話が入った。「親父が危ないらしいから行ってくれる?」

すぐに車を飛ばして父のいる病院へ向かった。途中で、弟から電話が入る。「今、亡くなったそうです」。

1時間後、10年ぶりで会った父は、もう「遺体」という別の人になっていた。痩せこけた身体を触ると、まだ温かかった。

小さな声で「ごめんね」と言った。父は、10年も来ない孫と娘のことと、どのように「折り合って」生きてきたのだろう。ごめんね。

病院での手続き、病院内での焼香、すべてすませて斎場へ向かうことになった。父の乗った葬儀社の車を見守りながら、私の車は後ろを走る。10年も会えなかったけれど、最後の最後は私がたった一人で父を見守る。

斎場での交渉もすべて私一人でやった。花が好きで庭中を花一杯にしていた父のために、棺は安くていいから花だけをふんだんに飾ってくれとオーダーした。

これらは父が、わたしに心残りを持たせないように、わたしのために残してくれたミッションだと思った。最後の最後での、父親のわたしへの愛情なのだと思った。

弟がアメリカから帰国するまでの二日間、わたしは父と二人の時間をたっぷり持った。親の子供への愛情は、こんなにも究極の事態になってまだ存在するものなのだなと感じ入った。



アメリカからやっと戻ってきた弟に言った。
「父は〇〇のこと、本当のところはどう思っていたんだろう?」

弟は言った。
「もうあっちで、ちゃんと二人で話つけてるんじゃない」

自分の弟ながら、「気の利いたことを言うヤツだな」と思い、少し笑った。

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2 コメント

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Unknown (k)
2008-02-25 20:46:02
やはり、そうだと思う。
やあ、また会えたねって・・・
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Unknown (mchokobo)
2008-02-25 21:21:54


「おじいちゃん、遅すぎ!
 10年かかるとは思わなかったよ。
 まったくしぶといんだから~」
「わりい、わりい、ちょっと臓器が丈夫過ぎてよー」

なんていう会話が目に浮かぶようです。

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