まやの午睡

日常の記録です。

さぞや誇りに思われるでしょうーーー子供のキャリアと親

2014-03-23 17:06:02 | 日記
婿クンの実家のパーティに行った。97歳になるシスター・クレールが来ているからだ。久しぶりに会って「わーい」という感じでハグしあって、ところが、それからものの1分も経っていないのに、「あらー、まだ挨拶してなかったよねー」といって再びハグされた。

そう、2度目は「された」という言葉を使いたくなる。

短期記憶が飛ぶようになったという話は聞いていたのに、「えっ」というショックを受けて、つい「いや、さっきもう挨拶しましたよー」と言ってしまった。

私がそう言ってしまったことも忘れてくれればいいけれど、後から聞くと、シスター・クレールは、自分の短期記憶がなくなることに気づいてすごく悩んでいるそうだ。もう生きている意味がないということかもしれない、と。
そしてそれに「気づく」のは、私のように「いや、さっきそれはもう・・・」と言ってしまう人間がいるからだろう。

そう思うとますます後悔する。

つわり中の長女が日本から帰ってきたところで、2週間後にはアメリカに行くということで、話題は長女の進路に集まっていた。

長女は日本での学会の後、診察にも立ち合わせてもらったのだが、12年前のJ天堂医大での研修の時は「・・さん」と紹介されていたのに今回はどこでも「・・先生」として紹介されたのでそれが一番印象に残ったと言っていた。

後、妊娠していることを隠しているので、アルコールをどうやって断るかが話題になる。日本では昼間の食事はアルコールを飲まない人も多いので困らなかったが、フランスでは昼間から必ずワインなど出るからだ。来週レンヌに出張してそこでクレープ・パーティに招かれているのでシードルを飲むのをどうやって断るべきかという話になった。婿クンの兄さんは「昨日の夜飲みすぎちゃってと言えばいい」と言うのだが、それではいずれ妊娠が分かったときにへんなことになる。

研究所は今すごく忙しいので、今の仕事に遅れがでるとかうまくいかなかった場合に長女が妊娠しているので100%がんばれなかったと言われるのがいやで隠しているわけだ。

癌研のボスは3人の子持ちでレンヌのボスは5人の子持ち(さすがフランス)なので批判はされないと思うが、家族や友人でもない仕事関係の人に「自分の子宮の中で起こっていることの状態を知らせるなんて抵抗がある」とも長女は言う。

で、結局、もし無事に10月に子供が生まれたら、有給の産休をフルに活用して、その後は失業手当をもらって数ヶ月働かないまま赤ちゃんの世話をするという。
癌研に非正規雇用で4年勤めて更新されない形になるのでそれを補償するために給料の10%の特別手当も出るそうで、それと失業手当をもらえば、働く意味はないようだ。

で、2015年の9月に彼女のために創出されるポストに着任したら、4年後に正教授のタイトルをもらえる。フランスでは医学部は国立しかなく、すべてのポストは「全国区」なので、医学部正教授のタイトルは、フランスの医者の最高のポストと言うかゴールのようなものなのだ。長女は38歳になっている勘定で、例外的に若い。

と、こういう話になっている時に、シスター・クレールが私と夫に「こんな子供を持ってあなたたちはさぞや誇りに思うでしょう」(日本語の語感としたら「さぞや鼻が高いでしょう」に近い)と聞いたのだ。

私たちも「え、ええ、まあ」と答えるのだけれど、それが、短期記憶の欠落のせいか何か知らないけれど、パーティの間に何度も何度繰り返されるのだ。

一度くらいならいいけど、そう何度も言われると微妙で

「あの、うちにはほかにも子供がいるんですけど」

「別に教授にならなくたって子供たちのことはみな誇りに思ってます」

「子供の未来は子供の未来で私たちと直接関係がないから」

などという思いが私にも夫にも湧き上がってくる。

しかもシスター・クレールはその度に、

「それに比べて婿クンは子育てにぴったり、(長女は)最高の相手を見つけたね」

付け加えるのだ。

それも何度も繰り返されるので、へんな気分だ。

もちろんはじめは冗談めかして、正教授のポストについたら長女はかなりの高給を約束されるので婿クンも「いつになったら僕は働かなくてもよくなるのかなーって言ってるんですよ」などと答えているのだが、シスター・クレールの熱心さを見ていると、

「この人って、頭もいいし行動力もあるし、もし男だったら司教とか大司教とか枢機卿になるとか野心があったのに、女性であるがゆえに『一介のシスター』であったことにどこかフラストレーションがあったのかなあ」

などともちらりと思ってしまった。

確かにもし婿クンが自分のキャリア優先の男だったら、長女がキャリアを今のように築くのは難しかっただろう。長女もそれを分かっている。

婿クンが長女にめろめろで、長女のキャリアの方が世のため人のためになると思っているのは確かだ。子供のときから自分の兄さんの方に親の期待が一心にかかっていたのを見てきて自分はスルーしようとおっとり育ったのも事実だ。

それにもし万一この先何か不都合が起こって長女が働けない状況に陥ったとしても、婿クンはもともと資産家の息子だから、今もっているもので普通のレベルで妻子を養っていけるだけのキャパがある。その「余裕」をだれもが了解しているからこそ、みなが鷹揚に構えていられるのだけれど。

でも、シスター・クレールの「繰り返し」はなんだか小さな子供が「不都合なこと」を口にして大人が困ってしまうのに似た状況を作り出した。

婿クンの両親も、ああ何度も同じことを言われたら、「いったいうちの息子は何なんですか」と思ってしまうだろう。

実際、このブログで時々書くように、長女は周囲をなぎ倒しても自分は前進するというタイプで、「ああ、こういうタイプだから『出世』できるんですね、はいはい」と言いたくなる。親としたら「心優しい子」の方が誇らしいんだけど。

ある同年輩の女性が、息子が仕事のことでインタビューを受けたと言ってその記事をメールで送ってきた。まさに「誇らしい」という感じだった。

インタネットで何でも検索されるこの時代に、できるだけ子供の情報とかを知り合いに伝えたくないというスタンスの私とは逆の人もいるわけだ。

ともかく子育ては終わっているのだから、子供たちにできるだけ面倒をかけたくないしかけられたくもない。それでも何かあるときはあるのだから、危機管理はしておくべきだとは思う。でも、何しろこの一ヶ月のうちに三度も風邪をひいてしまって目先の健康管理もできていない私が何を言っても、「口先」だけだということになるのだろう。



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Sxxx細胞の女性研究者バッシングについて

2014-03-16 16:46:28 | 日記
この女性研究者Oさんがあまりにも華々しく登場したので、その後一転してバッシングにまわっているメディアは恥ずかしくないのか、というのが第一印象だが、実は私もこのOさんの登場に勝手な親近感を抱いていた一人である。

このOさんというのが、直接付き合いはないけれど私の同学年の人の三女ということを、彼を直接知っている別の同窓生から教えてもらったからだ。

うちの長女は昨年その道で画期的な実験に成功して、ネーチャー誌に論文を投稿し、3人の査読者の一人から批判が出たところを今書き直している最中である。
その人はカナダの大学教授で自分のゼミにも長女の研究とかぶっている実験者がいるので、「早い者勝ち」のこの世界で、長女の研究が先に世に出るのを妨害している部分もある。だからまだどうなるか分からない。
論文の修正は長女が直接やるわけではない。長女はアイディアをだし実験プランをたてたリーダーで筆頭著者であるが、実際の実験にはアシスタントがいる。

ネーチャー誌の発表とは別の研究でも、長女は4月にカリフォルニアの学会で発表することになっているのだが、そこに出席するのは長女と、長女の勤務する研究所の当該セクションのボスで、国際的に有名な人だ。長女は実際に実験を続けて成功させたアシスタントも学会に伴いたいと言ったのだが、そのアシスタントは博士号がないので経費を使うことをボスに却下された。

そのボスも自分の論文のレジュメを出したのだが掲示発表だけで口頭発表には選ばれず、長女の論文レジュメが口頭発表に選ばれた。

そんなことでボスは近頃長女をライバル視し始めて、もうかれこれ一年も長女の博士論文(PhD)通過を遅らせている。

「自分は指導教官で長女は学生だ」という支配関係を継続させるためだ。

実際は長女はすでに医学博士(MD)でアメリカでポストドクも1年やっているのだから、「学生」として支配される理由はないのだが。
博士論文の審査はアメリカの学会の後に延期されたのだ。

ネーチャー誌の方の論文がもし掲載されれば、ネーチャー誌はもともと話題性の高いスクープ的な論文ばかり載せるので、長女はいくつかの賞の対象になるだろうと言っている。しかし「早い者勝ち」の競争社会だからまだどうなるかは分からない。

とまあこういう状況で、長女は例の日本での学会から帰ってきた。

日本の国立がん研究センターの皮膚腫瘍科の科長とも会えて、診察にも同行していろいろ有意義だったようだ。その科長は学会で発表したのだけれど、英語がうまくなくて、ディアポと解説がずれていたりしてあまり成功とは言えなかったらしい。でも長女が少し日本語ができるということが分かった時点でとても親切にあちこちに連れて行ってもらえた。
長女のボスはむしろ長女を避けていた感じだったそうだ。

ちなみに長女は11月にこのボスの元を離れて、来年からは国立大学の医学部の講座と大学病院の実験室指導を担当する予定でいる。

とまあこういう経緯があったので、私は、

もし近いうちに長女の論文がネーチャー誌に掲載されたら、

共通の知人がある同じ年代の私とOさん(お父さん)のそれぞれの娘がほぼ同時期にネーチャー誌に論文掲載、っていうことになって面白いなあ、

と内心楽しみにしていたのだ。

まあ、「それがどうした」、っていう話ではあるが、一人でひそかに盛り上がっていたのだ。

それなのに、Oさん(娘さん)があっという間にここまで叩かれて、愕然とした。

「おしゃれなリケジョの物語」とか、なんか一瞬にして全部壊れたような。

よく見ると、OさんはW大に自己推薦枠で入ったという経歴だから、フランスの医学部の王道を常にトップで競争に勝ってきたうちの長女のような知的な「耐性」がなかったのかもしれない。

いろんな人のいろんな思惑の犠牲になったのかもしれない。

そんなところに、大野ブログでこういうのを読んだ。

高学歴の特に人文系の女性がワーキングプア化するという

『高学歴女子の貧困 女子は学歴で「幸せ」になれるか?』 (光文社新書)

という記事
に続くものである。

これについていろいろ考えていた時に、Oさんのこともあって、その点「リケジョ」は有利なのかなあとも思っていたのだ。

しかし理系のポストドクで正規職に就けない男性も日本にはたくさんいる。ひょっとして数が少ない分女性の方が有利ということはあるのだろうか。

うちの娘たちは日本人の血をひくせいか若く見える。

次女はずっと男性が圧倒的に多い工学系グランゼコールなどを渡り歩いていたわけだけど、見た目が日本発少女マンガのヒロインみたいなので、どこでもすぐに顔を覚えてもらえる。企業に監査に行くときなどはスーツを着て目が悪くないのに黒縁メガネをかけてひっつめ髪とかにしていた時期もあった。
長女も診療の時は、だれでも「40代か50代の男の医者」を期待する状況で、若く見えることはハンディだったので、昔は髪を短くして眼鏡をかけていた。髪が長いと「看護師」に間違われるからだそうだった。

「髪が長いと若くて頼りにならない娘」、「短髪で眼鏡でスーツか白衣だとプロ」という図式はあまりにもステレオタイプで笑えるがそれが現実だったのだ。

二人とも飛び級しているから実際年も若かったこともある。それぞれ今はキャリアをつんで自然体におしゃれしていても平気なようだ。

もうひとつ、Oさんの「リケジョ・ストーリー」の中には、「実験に夢中で恋愛は二の次」なんていう話もあったのだが、ここのところはフランス人の期待するストーリーとは全く違う。

フランスなら、短髪でスーツで黒縁メガネでも、プロとして認めてもらえても、「恋人がいないだろう」などとは思われない。

それとこれとは別。

そして男と暮らしているとしても子供がいるとしても、だからそれだけで「男より大変になる」という発想もない。

日本でも、ひところは、キャリアも築いて家庭も作って家事も子育てもこなす「スーパーウーマン」みたいな幻想があった。それはアメリカ同様に普通は不可能なハードルだったのだけれど、その代わりに、せいぜいがイクメンだとか家事の分担とかいう発想になる。

スーパーウーマンのように数は少ないかもしれないけれど自発的「スーパーマン」だって一定数はいるかもしれないという発想はない。

長女の夫、うちの婿クンは、うちの夫の足元には及ばないと自分でも言っているが、基本的に、家事育児は全部自分がやる。もちろん働いてもいる。だから自分でできない分は、家政婦、自分の両親、妻の両親に「外注」する。保育園はもちろんだ。

だから長女のうちには夫婦の家事分担という発想がない。

長女の役割は、子供たちに「わーい、ママンだ」と喜んでまつわりつかれること。

こういうモデルが日本で生まれにくいのは分かる。

でも不可能ではないはずだ。

うちもそうだった。

これではあまりにも不公平と思われるかもしれないが、妊娠出産とかは母親が一手にやっているのでそれで永遠に帳消しというか、男親の方は一生かかって「父の役割」を果たすことで父であり続けるという感じだろうか。

平等というのはあり得ないのだ。

次女のカップルには子供はまだいないが、家政婦さんは頼んでいるし、普段の夕食は彼氏が作って待っている。

高学歴女性が裕福な家から出やすく、高学歴男性と一緒になる確率が高くて、生活のために働く必要がなくなるという例は日本でもあるわけだが、その場合、「専業主婦」として家事や教育に勤しむという図式がいかにも日本的だ。
経済的な余裕があって家事が好きでなければ外注すればいいのに。

まあ、私の母も住み込みのお手伝いさんのいる家で育ち、私も生まれた時から住み込みのお手伝いさんがいて、うちの子供たちも住み込みの「おねえちゃま」たちにベビーシッターをしてもらい、うちには今も家政婦さんがいるので、うちの子供たちが独身の息子も含めて全員家事(少なくとも掃除)を「外注」しているのは、家庭文化の継承かもしれないし、プロテスタントでないフランス文化ともそれはマッチしているのですんなり続けられたということかもしれない。

こういうことを書くのにリスクがあるのは承知している。

所詮私も私の娘たちもラッキーな例外だ、何の参考にもならない、と切り捨てられたらおしまいだからだ。

でも、多様なカップル、多様な生き方の中にはこういうものもあるはずで、最初から仕事か専業主婦かだとか、独身でワーキングプアか結婚か、子供を持つか持たないかなどと二択する必要はない。

いろいろな試行錯誤が可能になるように社会の枠組みを変えたり、女性に対する根強い偏見や圧力をとりのぞいたりしていかなくてはならない。

次世代やそのまた次の世代のために、つくづく思う。
コメント (4)
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