この日曜は、次女がNYに遊びに行って(サンクスギビングデー後のセールがあるそうで、しかも空前のドル安ということでショッピングに行ったのだ)留守で、ローマから帰った長女も来なかったので、久しぶりに、自由に使える日曜だった。私が動かないと、私は仕事、夫は庭仕事か家の修理というパターンになる。来週は孫クンたちが来るし、その後はコンサートが続き、それからクリスマスの用意ということで、この日曜くらいしか夫と二人で何かするというチャンスがない。金曜の夜も二人で友人のグループのコンサートには行ったが、時間がぎりぎりで、食事はファーストフードですませたのだ。で、日曜は朝から夫と映画に行って、その後ゆっくりレスランで食事、その後ショッピング。
というと、何だか優雅に楽しんでいるようだが、実は私たちはこのショッピングというのが大の苦手である。生活用品や食料品や工具の買出しなんかは別に嫌でなく普通なんだが、電気製品とかすぐに必要ないものとかを見てまわるのは苦手なのだ。人が買ってるのを見るだけで購買欲も失せ、電気製品はどんどん新しくなっているし、何が何だか分らない。日本なら親切な店員がいるが、フランスはみんな無愛想だし、モノを知らないし、第一、見つかるとは限らない。
私は一人でショッピングをするのはまあできるのだが、夫がそばにいるとますます、買う気が失せる。私の友人たち、とくにゲイの友人たちは、おしゃれで流行を追っていて、ショッピング好き、新しいもの好き、珍しいもの好きなので、私は日本のお店にいても、ああ、ここに彼らがいれば楽しいのになあと想像する。
しかしうちの夫と私のコンビとなると、年末商戦の華やかな中でそこだけ黒雲が漂う感じだ。
にも関わらずなぜ出かけたかというと、次女にもらった2万円相当くらいの商品券(多くの店で使える)で早く何か買わないと、使用期限が切れてしまうからだ。次女に叱られる。次女からは、パパに電動オレンジ絞り器、猫たちに消臭屋根付トイレをプレゼントすると言われている。
夫はプラスティック製のオレンジ絞りをもう30年以上使っている。毎朝使ってはさっと水洗いするだけなので、何だか黒ずんでいて私は時たまぴかぴかにしていた。ガラス製の方が清潔だと思って買って渡したこともあるが、やはりずっと昔のままのを使う。私も洗うのが面倒で、いいや、5秒ルールってあるし、と思い、バクテリアが繁殖する前にコップに移して飲めば終わりだ、ということで、家族全員飲んでいた。
この夏に次女とヴァカンス村に行った時に泊ったバンガローに電動オレンジ絞り器がついていた。手動のはなかったので、夫はそれを使ってオレンジを絞り、なかなか便利だということにはじめて気づいた。それで、次女が、プレゼントする、と言い出したのだ。
猫トイレについても、掃除するのは主として私と夫だし、ずっと屋根なしでやってきた。確かに、私たちが食事をしているのと同じ部屋にあるので、とても困ることもある。これも、次女は屋根つきのを買えと、しつこく言っていて、私たちが買いそうもないので、ついに、自分からのプレゼントと言って商品券を渡されたのだ。
うちは夫婦二人になってからあまりにも何も買わないので、見かねた子供たちからのプレゼントが多い。私はそれを見て、何だか、複雑だ。世の中は不公平だなあ、と思うのだ。必要な時や必要な所には必要なものが足らなくて、必要でなくなった時にモノがまわってくる。
子供たちが小さい頃は新学期ごとに学用品などはもちろん、服も靴も、全部新調しなくてはならなかった。大きくなってからは、サイズが変わらないのだから、毎年新調する必要はなくなったのに、やはり子供のおしゃれ心とかあるだろうし、服代として小遣いをやっていた。旅行代もずいぶん出した。寮費ももちろん出した。本やレコードやコンサートも、私が「文化的」と認めたものはすべてOKして支払った。
最後の子が独立したとたんに、何も必要なくなった。ゼロ、である。服も交際費も娯楽費も生活費も、ゼロだ。日本にありがちな高学歴モラトリアム人間だった私自身とはえらい違いで、どの子も、全員、はやばやと、きれいに、独立してしまった。当然、生活費に余裕が生まれる。老後の心配をしなければならないと言われればそうかもしれないが、切実さはない。そのうち私の母まで亡くなってしまった。日本への電話代までほぼゼロになった。
私たちは服もほとんど買わない。私は生前からよく母に服をもらっていたし、亡くなってからは服も靴もサプリも化粧品まで大量にもらったので、モノへの空しさが増しただけだ。母から譲られた冬のコートだけで10着以上ある。でも着てるのは毎日同じもの。夫は、冬の上着は15年前に私が買った2着(その時も前のがあまりにもボロだったから見かねて買った)をそのまま着ている。
電化製品となると、私が未だに仕事をワープロとフロッピーでやっていることから推して知るべしだ。(これはさすがに、今は、いつだめになるかという恐怖にとらわれ、PCに切り替えるしかないのだが。)
わいわい集まるという友人付き合いもしないし、クリスマス・プレゼントもますます、それが何か?という感じである。
こういう枯れ切った夫婦のところに、子供たちはプレゼントしてくれるのである。日本のもので欲しいものがあれば長男にメールでリストを送るだけでOK。送ってくれたり、持ってきてくれたりする(年に数回フランスに来るので)。今年はノートパソコンも頼んだ。楽器チューナーなんかも、友人の分まで頼むからいつも複数個である。もちろん代金を長男から請求されたことはない。
余裕のない時代は、あれこれやりくりして欲しいものを買った。少し余裕ができたら、もう欲しいものはなくなった。というより、欲しがる心が低下した。
それなのに、子供たちから助けてもらえる。あんたたちがいなくなったからそれだけでうちは楽になったのに。
時々、ふと、子供たちは、私たちを気づかっているのではないか?と思うことさえある。まさか、オレンジ絞り器や猫トイレを買えないほど困っているとは思ってないだろうな。あるいは私たちが、「倹約している」と思っているのか・・・
私は商品券帳を大事にバッグに入れた。万一これをなくしたら、とても次女には言えないから、これに相当するものを買って次女に見せなければならない。このくらいならなんとかなるが、長男がくれた夫婦おそろいの腕時計などは、高価な限定品なので、怖ろしくてつけられない。特に腕時計を外してすぐポケットに入れてしまうような夫には渡せない。長男とのお出かけの時くらいである。
何とか、商品券で、オレンジ絞り器と、豪華猫トイレと、子機付電話(これも、寝室の固定電話が前に壊れてからもう1年も、階下の電話の子機で済ませていたものだ)を買った。明日NYから帰ってくる次女に見せられる。それでも、商品券はまだ残っているので、早急に何か別のものも買わなくちゃいけないが。
一日留守番してた猫ちゃんズが腹を空かせて寄ってきた。猫トイレの周りをまわっても、入ろうとはしない。もうすぐ14歳と9歳になる猫が、今さらトイレの変化に耐えられるのかなあ。華やかで賑やかなショッピングモールから、貧乏くさい街の貧乏くさい家の貧乏くさい場所に帰ってきて、ほっとする。(家が貧乏くさいのことのかなりの部分は猫ちゃんズのせいなんだが。)
腕時計どころか首輪すらしてないうちの猫ちゃんズは、リッチで美しい。トイレの掃除と階段の吐しゃ物の掃除をかがんでしながら、つくづく思う。
というと、何だか優雅に楽しんでいるようだが、実は私たちはこのショッピングというのが大の苦手である。生活用品や食料品や工具の買出しなんかは別に嫌でなく普通なんだが、電気製品とかすぐに必要ないものとかを見てまわるのは苦手なのだ。人が買ってるのを見るだけで購買欲も失せ、電気製品はどんどん新しくなっているし、何が何だか分らない。日本なら親切な店員がいるが、フランスはみんな無愛想だし、モノを知らないし、第一、見つかるとは限らない。
私は一人でショッピングをするのはまあできるのだが、夫がそばにいるとますます、買う気が失せる。私の友人たち、とくにゲイの友人たちは、おしゃれで流行を追っていて、ショッピング好き、新しいもの好き、珍しいもの好きなので、私は日本のお店にいても、ああ、ここに彼らがいれば楽しいのになあと想像する。
しかしうちの夫と私のコンビとなると、年末商戦の華やかな中でそこだけ黒雲が漂う感じだ。
にも関わらずなぜ出かけたかというと、次女にもらった2万円相当くらいの商品券(多くの店で使える)で早く何か買わないと、使用期限が切れてしまうからだ。次女に叱られる。次女からは、パパに電動オレンジ絞り器、猫たちに消臭屋根付トイレをプレゼントすると言われている。
夫はプラスティック製のオレンジ絞りをもう30年以上使っている。毎朝使ってはさっと水洗いするだけなので、何だか黒ずんでいて私は時たまぴかぴかにしていた。ガラス製の方が清潔だと思って買って渡したこともあるが、やはりずっと昔のままのを使う。私も洗うのが面倒で、いいや、5秒ルールってあるし、と思い、バクテリアが繁殖する前にコップに移して飲めば終わりだ、ということで、家族全員飲んでいた。
この夏に次女とヴァカンス村に行った時に泊ったバンガローに電動オレンジ絞り器がついていた。手動のはなかったので、夫はそれを使ってオレンジを絞り、なかなか便利だということにはじめて気づいた。それで、次女が、プレゼントする、と言い出したのだ。
猫トイレについても、掃除するのは主として私と夫だし、ずっと屋根なしでやってきた。確かに、私たちが食事をしているのと同じ部屋にあるので、とても困ることもある。これも、次女は屋根つきのを買えと、しつこく言っていて、私たちが買いそうもないので、ついに、自分からのプレゼントと言って商品券を渡されたのだ。
うちは夫婦二人になってからあまりにも何も買わないので、見かねた子供たちからのプレゼントが多い。私はそれを見て、何だか、複雑だ。世の中は不公平だなあ、と思うのだ。必要な時や必要な所には必要なものが足らなくて、必要でなくなった時にモノがまわってくる。
子供たちが小さい頃は新学期ごとに学用品などはもちろん、服も靴も、全部新調しなくてはならなかった。大きくなってからは、サイズが変わらないのだから、毎年新調する必要はなくなったのに、やはり子供のおしゃれ心とかあるだろうし、服代として小遣いをやっていた。旅行代もずいぶん出した。寮費ももちろん出した。本やレコードやコンサートも、私が「文化的」と認めたものはすべてOKして支払った。
最後の子が独立したとたんに、何も必要なくなった。ゼロ、である。服も交際費も娯楽費も生活費も、ゼロだ。日本にありがちな高学歴モラトリアム人間だった私自身とはえらい違いで、どの子も、全員、はやばやと、きれいに、独立してしまった。当然、生活費に余裕が生まれる。老後の心配をしなければならないと言われればそうかもしれないが、切実さはない。そのうち私の母まで亡くなってしまった。日本への電話代までほぼゼロになった。
私たちは服もほとんど買わない。私は生前からよく母に服をもらっていたし、亡くなってからは服も靴もサプリも化粧品まで大量にもらったので、モノへの空しさが増しただけだ。母から譲られた冬のコートだけで10着以上ある。でも着てるのは毎日同じもの。夫は、冬の上着は15年前に私が買った2着(その時も前のがあまりにもボロだったから見かねて買った)をそのまま着ている。
電化製品となると、私が未だに仕事をワープロとフロッピーでやっていることから推して知るべしだ。(これはさすがに、今は、いつだめになるかという恐怖にとらわれ、PCに切り替えるしかないのだが。)
わいわい集まるという友人付き合いもしないし、クリスマス・プレゼントもますます、それが何か?という感じである。
こういう枯れ切った夫婦のところに、子供たちはプレゼントしてくれるのである。日本のもので欲しいものがあれば長男にメールでリストを送るだけでOK。送ってくれたり、持ってきてくれたりする(年に数回フランスに来るので)。今年はノートパソコンも頼んだ。楽器チューナーなんかも、友人の分まで頼むからいつも複数個である。もちろん代金を長男から請求されたことはない。
余裕のない時代は、あれこれやりくりして欲しいものを買った。少し余裕ができたら、もう欲しいものはなくなった。というより、欲しがる心が低下した。
それなのに、子供たちから助けてもらえる。あんたたちがいなくなったからそれだけでうちは楽になったのに。
時々、ふと、子供たちは、私たちを気づかっているのではないか?と思うことさえある。まさか、オレンジ絞り器や猫トイレを買えないほど困っているとは思ってないだろうな。あるいは私たちが、「倹約している」と思っているのか・・・
私は商品券帳を大事にバッグに入れた。万一これをなくしたら、とても次女には言えないから、これに相当するものを買って次女に見せなければならない。このくらいならなんとかなるが、長男がくれた夫婦おそろいの腕時計などは、高価な限定品なので、怖ろしくてつけられない。特に腕時計を外してすぐポケットに入れてしまうような夫には渡せない。長男とのお出かけの時くらいである。
何とか、商品券で、オレンジ絞り器と、豪華猫トイレと、子機付電話(これも、寝室の固定電話が前に壊れてからもう1年も、階下の電話の子機で済ませていたものだ)を買った。明日NYから帰ってくる次女に見せられる。それでも、商品券はまだ残っているので、早急に何か別のものも買わなくちゃいけないが。
一日留守番してた猫ちゃんズが腹を空かせて寄ってきた。猫トイレの周りをまわっても、入ろうとはしない。もうすぐ14歳と9歳になる猫が、今さらトイレの変化に耐えられるのかなあ。華やかで賑やかなショッピングモールから、貧乏くさい街の貧乏くさい家の貧乏くさい場所に帰ってきて、ほっとする。(家が貧乏くさいのことのかなりの部分は猫ちゃんズのせいなんだが。)
腕時計どころか首輪すらしてないうちの猫ちゃんズは、リッチで美しい。トイレの掃除と階段の吐しゃ物の掃除をかがんでしながら、つくづく思う。