まやの午睡

日常の記録です。

ショッピング

2009-11-30 01:06:36 | 日記
 この日曜は、次女がNYに遊びに行って(サンクスギビングデー後のセールがあるそうで、しかも空前のドル安ということでショッピングに行ったのだ)留守で、ローマから帰った長女も来なかったので、久しぶりに、自由に使える日曜だった。私が動かないと、私は仕事、夫は庭仕事か家の修理というパターンになる。来週は孫クンたちが来るし、その後はコンサートが続き、それからクリスマスの用意ということで、この日曜くらいしか夫と二人で何かするというチャンスがない。金曜の夜も二人で友人のグループのコンサートには行ったが、時間がぎりぎりで、食事はファーストフードですませたのだ。で、日曜は朝から夫と映画に行って、その後ゆっくりレスランで食事、その後ショッピング。

 というと、何だか優雅に楽しんでいるようだが、実は私たちはこのショッピングというのが大の苦手である。生活用品や食料品や工具の買出しなんかは別に嫌でなく普通なんだが、電気製品とかすぐに必要ないものとかを見てまわるのは苦手なのだ。人が買ってるのを見るだけで購買欲も失せ、電気製品はどんどん新しくなっているし、何が何だか分らない。日本なら親切な店員がいるが、フランスはみんな無愛想だし、モノを知らないし、第一、見つかるとは限らない。
 私は一人でショッピングをするのはまあできるのだが、夫がそばにいるとますます、買う気が失せる。私の友人たち、とくにゲイの友人たちは、おしゃれで流行を追っていて、ショッピング好き、新しいもの好き、珍しいもの好きなので、私は日本のお店にいても、ああ、ここに彼らがいれば楽しいのになあと想像する。
 しかしうちの夫と私のコンビとなると、年末商戦の華やかな中でそこだけ黒雲が漂う感じだ。

 にも関わらずなぜ出かけたかというと、次女にもらった2万円相当くらいの商品券(多くの店で使える)で早く何か買わないと、使用期限が切れてしまうからだ。次女に叱られる。次女からは、パパに電動オレンジ絞り器、猫たちに消臭屋根付トイレをプレゼントすると言われている。
 夫はプラスティック製のオレンジ絞りをもう30年以上使っている。毎朝使ってはさっと水洗いするだけなので、何だか黒ずんでいて私は時たまぴかぴかにしていた。ガラス製の方が清潔だと思って買って渡したこともあるが、やはりずっと昔のままのを使う。私も洗うのが面倒で、いいや、5秒ルールってあるし、と思い、バクテリアが繁殖する前にコップに移して飲めば終わりだ、ということで、家族全員飲んでいた。
 この夏に次女とヴァカンス村に行った時に泊ったバンガローに電動オレンジ絞り器がついていた。手動のはなかったので、夫はそれを使ってオレンジを絞り、なかなか便利だということにはじめて気づいた。それで、次女が、プレゼントする、と言い出したのだ。
 猫トイレについても、掃除するのは主として私と夫だし、ずっと屋根なしでやってきた。確かに、私たちが食事をしているのと同じ部屋にあるので、とても困ることもある。これも、次女は屋根つきのを買えと、しつこく言っていて、私たちが買いそうもないので、ついに、自分からのプレゼントと言って商品券を渡されたのだ。

 うちは夫婦二人になってからあまりにも何も買わないので、見かねた子供たちからのプレゼントが多い。私はそれを見て、何だか、複雑だ。世の中は不公平だなあ、と思うのだ。必要な時や必要な所には必要なものが足らなくて、必要でなくなった時にモノがまわってくる。

 子供たちが小さい頃は新学期ごとに学用品などはもちろん、服も靴も、全部新調しなくてはならなかった。大きくなってからは、サイズが変わらないのだから、毎年新調する必要はなくなったのに、やはり子供のおしゃれ心とかあるだろうし、服代として小遣いをやっていた。旅行代もずいぶん出した。寮費ももちろん出した。本やレコードやコンサートも、私が「文化的」と認めたものはすべてOKして支払った。
 最後の子が独立したとたんに、何も必要なくなった。ゼロ、である。服も交際費も娯楽費も生活費も、ゼロだ。日本にありがちな高学歴モラトリアム人間だった私自身とはえらい違いで、どの子も、全員、はやばやと、きれいに、独立してしまった。当然、生活費に余裕が生まれる。老後の心配をしなければならないと言われればそうかもしれないが、切実さはない。そのうち私の母まで亡くなってしまった。日本への電話代までほぼゼロになった。

 私たちは服もほとんど買わない。私は生前からよく母に服をもらっていたし、亡くなってからは服も靴もサプリも化粧品まで大量にもらったので、モノへの空しさが増しただけだ。母から譲られた冬のコートだけで10着以上ある。でも着てるのは毎日同じもの。夫は、冬の上着は15年前に私が買った2着(その時も前のがあまりにもボロだったから見かねて買った)をそのまま着ている。
 電化製品となると、私が未だに仕事をワープロとフロッピーでやっていることから推して知るべしだ。(これはさすがに、今は、いつだめになるかという恐怖にとらわれ、PCに切り替えるしかないのだが。)
 わいわい集まるという友人付き合いもしないし、クリスマス・プレゼントもますます、それが何か?という感じである。

 こういう枯れ切った夫婦のところに、子供たちはプレゼントしてくれるのである。日本のもので欲しいものがあれば長男にメールでリストを送るだけでOK。送ってくれたり、持ってきてくれたりする(年に数回フランスに来るので)。今年はノートパソコンも頼んだ。楽器チューナーなんかも、友人の分まで頼むからいつも複数個である。もちろん代金を長男から請求されたことはない。
 
 余裕のない時代は、あれこれやりくりして欲しいものを買った。少し余裕ができたら、もう欲しいものはなくなった。というより、欲しがる心が低下した。
 それなのに、子供たちから助けてもらえる。あんたたちがいなくなったからそれだけでうちは楽になったのに。
 時々、ふと、子供たちは、私たちを気づかっているのではないか?と思うことさえある。まさか、オレンジ絞り器や猫トイレを買えないほど困っているとは思ってないだろうな。あるいは私たちが、「倹約している」と思っているのか・・・

 私は商品券帳を大事にバッグに入れた。万一これをなくしたら、とても次女には言えないから、これに相当するものを買って次女に見せなければならない。このくらいならなんとかなるが、長男がくれた夫婦おそろいの腕時計などは、高価な限定品なので、怖ろしくてつけられない。特に腕時計を外してすぐポケットに入れてしまうような夫には渡せない。長男とのお出かけの時くらいである。

 何とか、商品券で、オレンジ絞り器と、豪華猫トイレと、子機付電話(これも、寝室の固定電話が前に壊れてからもう1年も、階下の電話の子機で済ませていたものだ)を買った。明日NYから帰ってくる次女に見せられる。それでも、商品券はまだ残っているので、早急に何か別のものも買わなくちゃいけないが。

 一日留守番してた猫ちゃんズが腹を空かせて寄ってきた。猫トイレの周りをまわっても、入ろうとはしない。もうすぐ14歳と9歳になる猫が、今さらトイレの変化に耐えられるのかなあ。華やかで賑やかなショッピングモールから、貧乏くさい街の貧乏くさい家の貧乏くさい場所に帰ってきて、ほっとする。(家が貧乏くさいのことのかなりの部分は猫ちゃんズのせいなんだが。)
 腕時計どころか首輪すらしてないうちの猫ちゃんズは、リッチで美しい。トイレの掃除と階段の吐しゃ物の掃除をかがんでしながら、つくづく思う。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メアリーとマックス

2009-11-24 19:40:21 | 日記
 『メアリーとマックス』は、短編アニメ「ハーヴィー・クランペット」でオスカーを受賞したアダム・エリオット監督の長編デビュー作となるクレイ・アニメーション。
 「ニューヨークに住むアスペルガー症候群の中年男性マックスと、メルボルンで暮らす孤独な少女メアリー。彼らが20年間に渡る文通を通して強い絆を育んでいく様子を、ブラックユーモアを交えながら描く。」

 というもので、ラストシーンの感涙は確実というやつだ。

 こういう粘土細工アニメとかあまり好きじゃないので、見る気がしなかったのだがトリオのHが絶対お勧めと言ったこと、比較的短いので、時間のロスが少ないと思って、日曜の家族サービスで夫と次女と一緒に近所のレトロ豪華シネマに観に行った。長女はローマのセミナーに出席でずっとうちをあけていて、孫クンは婿クンとマミー(向こうのおばあちゃん、マミーは英語ではおかあさんだが、フランス語ではおばあさんのこと)が世話していた。

 しかし、マックスはユダヤ人、キブツで育ったり、父が去った後で母が自殺、アスペルガーで超肥満、メアリーの父は工場で働き定年の後すぐ事故死、アル中でヘビースモーカーで窃盗癖のある母は、罪悪感に捕らわれてこれも事故死、メアリーは近眼、可愛くない、額に痣あり、家の前には「日本軍にオリに閉じ込められて河に足を浸けられてぶら下げられて両脚をピラニアに食われて失い(オーストラリアにピラニアはいないだろ・・・でもオーストラリアでは子供にこういう作り話をするのだとしたら・・・やだなあ)、人間恐怖症になった」男、どもりの少年、この少年は後にメアリーと結婚するも、同性愛に目覚めてメアリーが鬱になった時に去っていった。なんだか、これでもかこれでもかって、ネガティヴ要因のカリカチュアなので、素直に見れない。

 で、感動要因は、孤独な二人の魂が場所や歳の差を乗り越えて出会い、大人が子供を子ども扱いしない(それは相手に合わせられないアスペルガー症候群故のメリットとも言えるが)、互いに癒しあい、マックスはロトに当たり、二人は最後には会えるが、マックスは一応微笑みながら死んでいて、メアリには赤ん坊ができていて、マックスの部屋の壁にはメアリーの手紙がびっしりと・・・というこれもステレオタイプの感動お約束で、安易過ぎるな。

 安易な感動モノでもすぐに泣ける私だが、「幸福の黄色いリボン(ハンカチ)」風の驚き、の泣かせ方とか、どんな暗い話でも最後にヒロインが妊娠するとか赤ちゃんが生まれることで「希望」を感じさせる、っていう「よかったね」という図式は、抵抗があり過ぎる。「新しい命=善」って言いきって無条件に許されるのはマザー・テレサくらいじゃないかな。この映画でメアリが妊娠してた時、鬱でアルコール飲んだり薬飲んだり、自殺しようとしたり、いろいろあったから、胎児にも影響してるんじゃないの?とか思ってしまうし。

 一番素直によかったなあと思ったのは、自分が傷つけてしまったマックスに赦しを請うたメアリーのもとに、マックスが赦しの印に、自分の一番大事なものである、アニメのキャラクター人形のコレクション(ロトで当たった金でそろえたものだ)をメアリーに送るところだ。誰かを「ほんとうに赦す」っていうのは、「自分の一番大事なものをあげる」ということなんだなと、ストレートに伝わる。

 私なんか、誰かを赦すと言っても、「怒らない」とか、「怒りを見せない」とか、「罰しない」とか「あきらめる」とか、「忘れてやる」とかだからなあ、せいぜい。

 うちの長女は、9歳の時に、猫の雑誌の文通欄に「8歳から88歳のペンパル求む」という広告を出し、それから数年、50代のブリーダーと80歳の女性と文通して、自分がワードで打って発行していた猫マガジンを送っていた。80歳の女性は、「88歳までOKという言葉に感動した」、と書いてきた。それから長女はブリーダーの女性に誘われて猫のコンテストに行ったり、80歳の女性は夫の母と同じ町に住んでいたので、うちまで連れて行ったこともある。80歳の一人暮らしの女性のうちに連れて行った9歳の長女が、その女性の「友だち」っていう状況は、なかなかシュールだったのを覚えている。その長女は、10代後半になると、親のことすら年寄り扱いするようになるんだけれどね・・・
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三度目の移住話

2009-11-18 23:51:46 | 日記
 役所にいた夫から突然電話があって、2年間、タヒチのポストの希望者を募っているからどうか、と言ってきた。しかも、来年2月からだって

 夫は一見すごくクラシックな人間なのだが、何しろ私と結婚しているくらいだからほんとはぶっとんでいる。

 新婚の頃、やはり突然、ワシントンDCに1年、どこか忘れたがアフリカの国に1年、というポストのオファーがあり、夫は興味を示していた。アメリカで暮らしてみるのは私も食指が動いたが、その後のアフリカって言うのがね・・・義弟は兵役代わりにモロッコで3年、ビジネススクールで教えてその時にけっこう貯金ができた。で、アフリカは手っ取り早い資金作りにも有効って感じもあったかもしれない。でもその時の国はブラック・アフリカだった。そのことを日本の親に話すと、私の親は、その頃その国に滞在していた日本の外交官が次々と原因不明の病で帰国して死んだ、という新聞記事を送ってきた。メールもファックスもない30年以上前の話だ。今思うと、それは、その頃まだ特定されていなかったエイズ感染だったのではないだろうか。
 で、私も、親が心配するような所に赤ちゃん連れで行くこともないと思って、その話はすぐにやめた。もともと私の親は、私が外国に行くなら「先進国の首都」というのが条件だったし、冒険心の薄い私もすんなり合意していたのだ。 

 それから夫と息子と、10ヶ月東京で暮らした。夫は日本に残る気満々だったが、言葉のせいで日常生活の負担が私にかかってくるのが嫌で私ははやくフランスに戻りたかった。それから数年後、夫の姉さん(この人もけっこうぶっとび)が突然、オーストラリア移住案を打ち出した。うちと2家族でオーストラリアに移住して牧場を経営しようとか言うのである。冷戦も終わっていず世紀末の不安色濃い時代で、第三次大戦が起こったら北半球は壊滅するから、生存のチャンスの多いところに行こう、というのである。この義姉はヴァイタリティの固まりのような人だ。彼女の夫も子供も行く気満々だと言う。夫もふーん、それなら、という感じだった。英語が不自由でアメリカにも行ったことのない姉弟が突然、アングロサクソン国に移住ですか・・・

 まあ、私は実は、大地震が来るとか、大噴火があるとかミサイルがとんでくるとか、変な予言者が騒ぐたびにひそかに「やだなあ」「逃げるに如かず」と思っている人なので、サヴァイヴァル戦略を笑い飛ばすこともできなかった。でも、北半球が全滅した世界で、ということはほとんどの家族も友人も知人もいなくなった世界で、牧場で羊を追いかけてる意味ってあるのだろうか・・・
 ま、この時はうちの親も反対しなかった。(というか相談しなかったのかも。)私の従姉夫婦が長年オーストラリアにいたし、日本とも時差がほとんどないし・・・
 でも、結局、私は義姉のラブコールを無視。外国で暮らすなら、そこのネイティヴの人といて利益を享受しなければストレスが増えるだけで嫌だと思っていたからである。夫は幼い頃無人島で宣教師をやりたいという変な夢を抱いていた人だからいいけど、私は生まれながらの都会っ子で、ガーデニングすらしないから。

 私たちは今の街中の二件長屋に越してからもうずいぶんになる。スーパーもパン屋も医者も郵便局も学校も銀行も音楽学校も徒歩1分という便利さで、とても他のところには棲めない。10年前に田舎のうちを売った当初は、夫は引退したらまたどこかに田舎家を買って、と想像していたようだが、室内飼い猫3匹の暮らしになってからは、奴隷暮らしにも慣れた。2匹は娘たちがかってに連れて来て来年で9年になる。

 ところが、急にタヒチ?

 これは、長女がタヒチの病院で働きたい、そしたら毎日ヴァカンス、と言っていたり、いつも「南の島」を夢見ているのにも影響されている。

 「タヒチにいれば、子供たちが好きなときに遊びに来れるし。」
とか言うのだ。

 不思議なことに、この忙しい時にそんなのんびりした話を聞かされた私は、一言のもとに却下しなかった。 

 「移住」っていうのは嫌だが、期限付きならおもしろいかも。
  この年になって新しい冒険のチャンスはだんだん減るし。
  今やPCとインタネットがあればどこでも仕事できるし。
  タヒチはフランスだし。

 ま、行きたいなら応募すれば?
 ただしこの家と猫をどうするか簡単に解決するとは思えないけど。
 私は学年末の6月末までは動けないから。
 生徒たちがいるし、コンサートがいくつかあるし、7月は日本に行くし、それからまたフランスでコンサートやって、10月末の日本でのコンサートを済ませて、その時点で家と猫の解決がついてるなら喜んでタヒチに合流するけどね。

 でも、そんなに簡単に二人で家をあけられるなら、すでにもうちょっと旅行とかしてるでしょ。イタリアやポルトガルというささやかな近間の旅のプランですら、ぐずぐずと延ばしているのが現状なのに。

 まあ、夢物語でしょう。

 でも、普段、私よりずっと、いわゆる「地に足の着いた」堅実なルーティーン生活をしていて、暮らしを守り、家と庭と猫と妻子と孫の世話をかいがいしくしている夫が、旅行ですら行ったことのないタヒチ(彼の行った最も遠いところは、日本をのぞけば私が無理に連れて行ったサウジアラビアやモロッコくらいで後はみな西ヨーロッパだけである)に、猫と離れてまでひょいと住みに行こうかと発想しちゃうのは、なかなか新鮮でもある。毎週一度は早く起きて役所に行く前に長女の所によって保育所に連れて行く孫クンのこととかは全然考えないのか?
 
 かなり現実性のない仮定でも瞬時にいろいろな条件をシミュレーションしてしまう私とは対照的な0型人間?

 確実に言えること。

 私がもし、「どこかに移住すると決めた。もうすべて手配してるから」、と突然宣言したとしたら、夫は、全く躊躇せずに、すぐに合意するってことだ。家も猫も、孫も、仕事も、全然頭に浮かばないだろうなあ。

 思えばこれまでのすべてのバカンスも同じことだ。いつ誰とどこへ行って何をするのか、すべて私が決めて事後承諾というか、承諾も何もなかった。
 私が留守にする間に夫がするべき仕事ですら私がリストアップしていた。
 前にも書いたが、一度そのリストを見た義弟が「これは軍隊よりひどい、これで耐えられるのか」と夫に言い、夫は「いやー、これは便利なんだよ」と答えていた。

 夫が何か言い出すのはずっと少なく、「ショッピングセンターに買い物に行こう」というレベルだから家庭サービスと思って付き合うが、たまにオーストラリアやタヒチだと、あれこれ考えてみるだけで、それでもちょっと退屈しのぎ。(退屈してないところが問題だが)

 タヒチに行ったら、やっぱ大型犬飼いたいなあ、とか、ね。私の横で眠りこけてる猫ちゃんズ、そんなこととも知らないで・・・・
 
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

質問

2009-11-13 22:18:17 | 日記
 質問があります。

 服のボタンと花の牡丹のアクセントはどう違いますか?

 ある言語学者は鹿児島生まれの父のその二つが東京語のそれと逆だったというのですが、私は自分で言ってみると、全く同じなのです。

 最初にアクセントがあるような。
 
 私の父も鹿児島生まれで、母とは神戸で出会いました。母は神戸生まれなのですが、祖父はずっと関東の人で曾祖父母は鎌倉が本拠でした。祖父は横浜で貿易商をやっていたのが関東大震災で焼け出されて神戸に移り、そこでやはり東京から焼け出されて神戸に来た祖母と知り合ったのです。だから母は関東アクセントの両親の元で育ったわけで、私も小さい時に祖父の話し方が周囲と違うと認識してましたが、それは「おじいちゃんのことば」だと思ってました。納豆食べてたし、すき焼きとかもずっと関東風でした。私はアクセントは関西のものも刷り込まれていますが、普段友だちとの会話で使わない「ガソリン」とか「マッチ」とか「白菜」とかいう時に、関西アクセントと全く逆だというので友人に「おかしい」と笑われた記憶があり、それでも「治り」ませんでした。
 子供たちの日本語はできるだけ標準語仕様にしようとしたのですが、時々関西風アクセントや語法、ノール地方の言葉、まじってます。

 でも、長男が、関西の人に「これなおして」と言われてどこを修理するのだろうと悩んでいた関東人に、それは「これを片付けて」という意味だと翻訳することができた、僕はバイリンガル、と自慢してましたけど。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うつ伏せに寝る?

2009-11-13 21:20:51 | 日記
 なんか健康ブログになってきたが、仰向け寝がいいかうつ伏せがいいかという話。
 確か、かの有名な日X原重明さんが、哺乳類はうつ伏せ寝が本来の姿、心肺機能にもいいし、いびきも睡眠時無呼吸もなくなるし、自分は45歳の頃から半世紀うつぶせ寝をしている、ということで、専用枕まで売っているいるらしい。
 できなくても毎日20分くらいはうつぶせ寝を、という話なので、毎日どころかごくたまに、思い出したように5分くらいやってるのだが、心の片隅で、「そうか、今度日本に行ったら『日Xさん枕』買わなきゃなあ・・・」と思いながらはや数年・・・

 新生児が生まれた時の寝かせ方には折々の流行があって、うちの子供たちの生まれた頃のフランスはうつ伏せオンリーだった。仰向けだと、ミルクを吐いたりした時に逆流して窒息死するとかいうのだ。その頃の日本は仰向けが主流で、日本のお布団は柔らかいからうつ伏せだと窒息するのだ、と言う人がいた。その頃フランスで知り合った日本人の夫婦は、「日本人は新生児を仰向けにするから後頭部が絶壁になるのだ、日本で生まれた長男は絶壁だが、フランスでうつ伏せで育てた長女はほら、この通り、フランス人風の丸い頭」、と自慢げに見せていた。
 うつ伏せの方が母親の胸に抱かれるようで安心できるとかいう論もあったなあ。

 孫クンが生まれた最近のフランスでは、仰向け寝原理主義になっていた。うつ伏せを禁止してから新生児死亡率が30%だか何だか減った、うつ伏せが悪いことは医学的に証明された、というのだ。おいおい・・・・
 うちの子たち、死ななくてよかったよ。孫クンの後頭部は絶壁にはならなかったが、仰向け寝の数ヶ月ではげてきたような気がするが。
 
 私は孫クンのハイハイが遅かったのも、仰向けのせいかなあと思っていた。うちの子たちはうつ伏せなので、2、3ヶ月くらいの早くから腕を使って頭を起こしていたからだ。そうなると自由に寝返りをうつからもうどうでもよくなるのだが。
 孫クンは仰向けのままボーっとしてた(と私には見えた)。やっとハイハイできた時にはほっとして、この子はもうこのセンでいいんじゃないか、無理して2足歩行させなくとも・・・うちの猫たちもそれで何の不自由もしてないし・・・と密かに思っていた。

 で、今日、日本から送られてきた広報誌で、「あおむけの姿勢が人間を進化させた」という記事を読んでちょっとびっくりした。

 人間が直立二足歩行によって手が使えるようになって人間になったといのは間違いで、人間の赤ん坊は脂肪に包まれあおむけの姿勢で安定するようになって生まれながらにして手が自由だから進化したのだそうだ。
 霊長類は昔は四手類と呼ばれ、四足でなく四つの手で、樹上生活を送っていたのが人間だけが4つの手から2本の足を生み出したのだそうだ。

 うーん、これでいろんなことが分るなあ。手の不自由な人が足の指で何でもできてしまうのをすごいと思ったことがあるが、もともと手なんだなあ。手による逆立ち歩行の方がはるかに非人間的で異様なことだ。

 サルの研究が日本で進んでいるのは有名だが、G8など先進国で自然の中でサルがすむ国は日本だけだそうだ。これも、日本でもフランスでもサルを見るのは動物園が基本の私にとってはけっこう盲点だなあ。

 私は仰向けに寝て(クッションで傾斜はつけるが)本を読んだりパズルしたりする人である。この年で今さら「哺乳類の寝方の王道」を目指してもなあ。

 第一、うちの猫たちは、けっこう仰向け寝が多いぞ。赤ちゃんの時からそうだった。パタン、キューという感じで、仰向けに倒れて寝込んでいた。また、攻撃する時も、仰向けになって、それこそ「四つの手」から爪を出して猫パンチと猫キックの最強の攻撃態勢になる。

 こうなると、学習や習慣や効率や文化や環境がいろいろあるんだろうなあ。

 「なんたら健康法」教条主義になるのが一番まずいんだろうなあ。

 適当でいいや。

 PS 統合失調症の患者さんと家族のための病気の付き合い方というのでこういうのがあった。(塚崎直樹さん) 

 「病気とのつきあいは長い。 

 統合失調症の治療は長くかかると思って下さい。思いつきで一挙に解決するというようなことはまずありません。また、今のところ、特効薬も開発されていません。5年単位、10年単位ぐらいでものを考えるようにしましょう。

 高い山に登ったことのある人にはわかると思いますが、あんな頂上に登れるだろうかと思っても、一歩一歩歩いていけば、やがては頂上に着くようなものです。一挙に頂上に着こうと思っても、意外と道は遠く、途中でへたばってしまいます。

 統合失調症は治らないと思っている人もいますが、それは早がけでは頂上に着けないということだと思って下さい。」

 これって、「人生におけるさまざまな不都合」全般についてあてはまるなあ。
 なんにしろ、早がけの一挙解決や特効薬は、ないってことだろう。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誘拐の値段

2009-11-08 22:34:13 | 日記
 (追記あります)

 昨日のTVで始めてカリンカのお父さんの姿を見た。

 27年前に14歳の娘を乱暴されて殺害された父親が、犯人であるドイツ人医師をドイツから誘拐させて、フランスの司法に引き渡したのだ。

 はじめから変な事件で、検視結果などが隠され続け、この医師がドイツであらためて16歳の少女を麻酔下でレイプしたことを知るまで、カリンカの父親も確信をもてなかった。しかもその後で、父親の努力で再捜査があり、医師の有罪が法的に確定されてからも、ドイツとフランスの間で、医師の引渡しが行われなかった。父親は医者が南米あたりに逃げるのを怖れて、彼の近くに引っ越し、ストーカー化して、ドアベルを鳴らすなど、自分が監視している、絶対に逃がさないことをアピールしてハラスメントし続けた。

 仕事もやめ、協会やサイトを立ち上げ、同情者や支援者も増え、医師を殺すことを申し出る者、誘拐してフランスに連れてくることを申し出る者も少なくなかった。結局、彼は、誘拐を依頼し、それを認めたことで自ら共犯として10年の懲役のリスクをおかした。自分はカトリックで復讐の気持ちはなく、医師が裁判の結果無罪になったとしても諦める。ただ、裁きを受けさせないと喪があけない。このままだと2015年に時効が成立するし、自分も医師も年をとり死ぬかも知れないので、それまでには決着をつけたかった、という。

 ここまでは知っていた。ラジオのインタビューは聞いたことがあったから。

 昨日知ったのは、殺人の請負の値段が1万ユーロ(130万円)で、国際誘拐の値段が20万ユーロ(2600万円)だったということと、この父親の執拗な追及のかなりはじめの時点で、彼の妻が愛想を尽かして、「あんたは嫉妬してるんだ、あんたは普通じゃない」などと言って、彼の元を去ったということである。

 うーん、うちの夫だったら、うちの娘がこういう状況で殺されたことが確実でしかも犯人が不当に自由の身でいることが分った時点で、絶対に自力で復讐しているだろうな。20万ユーロなんて出せないことは別にして。

 そして、私なら・・・夫を見捨てないと思う。
 復讐には反対だし、死んだ子は戻ってこないんだから、夫の人生や他の子供の人生まで犠牲にしてまで多大な危険を冒すのも反対だし、他の子達は何とか安全圏におきたいが、こういう状況で夫を見捨てるなんて考えられない。

 状況は違うけれど、日本で、拉致被害者の家族らが、何十年経とうと、夫婦がしっかり連帯して戦っているのを見たりしていたから、なんとなく、この「カリンカのおとうさん」も、少なくとも奥さんの支援は受けていたと思っていたのだけれど。

 国際誘拐の値段が殺人の20倍というのも驚いた。確かに、動機のないものがただ「殺すだけ」なら、リスクはずっと小さいのかもしれない。
 
 ちなみにうちの夫は、最近『自由人イエス』という本を読んで共鳴していたので、「じゃあ、今なら、自分の子を殺されても、即相手を殺さない?」と聞いてみたら、「いやそれは別、」と言うかと思ったら、「(復讐しないことは)不可能ではない」と答えた。驚いた。
 夫は、第二ヴァチカン公会議前のカテキズムのクラスで一番だったようなタイプの男で、それでも、何十年もしっかり、「子供の殺人犯は親に殺されても当然」という鉄の確信を持っていた。

 そういう「弱者の侵害」に対して絶対「目には目を」タイプの男に、たった一晩の読書で、「復讐しない道」を開いたということは、一冊の本の持つ力というのは怖ろしいものである。

 追記)Masakoさんにコメントをいただいたのでその返事の中で、訂正を加えておきました。カリンカの母親が「去った」というのは物理的にはすでに数年前で、上の話は、父親を見捨てたばかりか追求を妨害する側に回ったということです。「妻」ではなくて「元妻」です。父親は何度も「カトリックでミサに出ている、その度にカリンカに誓っている」って言ってたくらいだから、再婚してないと思います。少なくとも、話題には上ってませんでした。
 
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドミニク

2009-11-02 01:48:48 | 日記
 フランスに暮らして30年以上になり、子供を育てたこともあって、今のフランスの30代後半から40代後半にかけての人と私はほぼ同じ社会的記憶を共有している。彼らの子供時代の記憶は私にはもう大人の記憶なのだが、大体、同時代を生きたという連帯感がある。で、実際は同世代のアラカンというか60歳前後の人々とは、世代的には話がぴったりあうはずなのだが、1970年代半ばあたりから前となると断絶がある。

 私は人生最初の四半世紀を日本で過ごしたので、その時期のフランスの生活意識というものが全く抜け落ちているからだ。

 もちろん、同世代の人と話したりして推測したり、ドゴールやら、サルトルやら、68年5月革命やら構造主義やら、いろいろ「知識」はあった。でも、今のようにフランス人のブログを読むとかTVやラジオにネットで気楽にアクセスできるような時代ではなかった。フランス映画を見ても字幕だったし、フランス語の本を読んでも所詮脳内で日本語返還して読んでいただけだ。

 私はもともとポップ・ミュージックとかにうとい。まあ、フランス語を習ってたので多少「シャンソン」は聴いたけど、そしてそれがフランスでの「古い人たち」との交流には役立ったが、日本語の流行り歌ですらあまり知らない。
 70年代半ば以降については、もっと日本のことに疎くはなったのだが、ベースがあるし、交流があるし、それこそ最近はネット情報もあるので、昔よりも広い範囲の人からの生活情報を耳にしているぐらいだ。

 たまに驚くのは、Youtube のおかげで、古いフランスの歌とか、インタビューを聴く時だ。日本のは、「わあ、懐かしい」と思うだけだが、フランスのは、「ええっ」と思うものが多い。たとえばサルトルって、若い時はこんな話し方してたんだなあ。とか。サルトルなんかは私が中学生の時に日本に来てすでに有名だったけれど、こちらがフランス語が分らないから、視覚情報しか覚えていない。バイアスもかかりまくりで、「今自分の前で話している一人の男」としての情報はゼロだ。

 歌系になるとさらに無知な私は、フランスのものだとはっきり分るのは、いわゆるシャンソン(イヴ・モンタンの枯葉とかピアフの愛の賛歌とか)か、TVの多分ヒチコック劇場のCMで入っていたXナウンのCMソングでシルヴィー・ヴァルタンが踊って歌ってセ・ビアーンとか言ってるやつか、あるいはビゼーのカルメンの歌曲かくらいだった。

 ところが・・・最近Youtube で、

 http://www.youtube.com/watch?v=qUzY-W2klT4

 こういうのにぶつかって、大ショックを受けた。

 Soeur Sourire の『ドミニク』である。

 この曲は1960年代に大ヒットしたので、私もよく知っている。
 日本ではペギー葉山やザ・ピーナッツがカバーしてたみたいだ。NHKのみんなの歌では、児童合唱団が歌っている。

 でも、私には、何となく、流行のフォークソング、というだけだった。

 私はミッションスクールとも縁がない。

 確かにペギー葉山の『学生時代』とか、「つたの絡まるチャペルで・・・」がミッションスクール風だというのは知ってたけど、この『ドミニク』が聖ドミニコであり、歌詞も「どこにいても語るのはただ神の教えよーー」なんていうのはすでに記憶にさえなかった。この手の歌の歌詞で十字架が出てきても神が出てきても、1960年代の普通(ミッションスクールでもなく、親がクリスチャンでもない)の日本の女の子には、「ロープウエイに春が来て」「プールサイドに夏が」「テニスコート秋が」・・という歌詞と同じで、なんとなくかっこいいイメージでしかなかったのだろう。

 今、このドミニコ会の修道女がギターを抱えて歌っている姿をはじめてビデオで観て、聴いて、胸がしめつけられる。

 ベルギー出身でパリの美術学校を出たこのシスターは、26歳でドミニコ会の修道女になった。

 この歌でグラミー賞までとり、ビートルズにまでカバーされて、映画化もされて、莫大な収入を得た。利益はすべて修道会に寄付した。

 というより、本人はかなり後まで、この歌がアメリカでプレスリーを抜いてヒットチャート一位になったことなどまるで知らされていず、サイン会に駆り出されて始めて事情を知ったらしい。

 しかし、1966年には、自分の使命は社会活動にあると自覚して、修道院を去り、ドミニコ会の第三会の在俗奉献修道女という身分を得て、養護施設などの奉仕活動に関わった。すると、税務署から、『ドミニク』による収益の脱税で莫大な税金と追徴金を請求された。シスターは一文無しで修道会を去っているが、修道会からの寄付の領収証がないという理由で脱税の罪は確定した。

 実のところは、修道院の弁護士が利益をごまかして当時フランコ時代のスペインに金を動かしたらしく、しかし、弁護士も、修道院も不問に付され、ただ、シスターだけが、罪を問われた。税金を払うため、アメリカでの公演も試みたが、修道院は彼女がSoeur Sourireの名を使うことを禁じたため、『ドミニク』の大スターは、ドサまわりを余儀なくされた。やがて最後まで彼女に忠実だった元シスターとともに営んでいた養護施設の閉鎖も余儀なくされて、1985年に52歳で二人で共に自殺した。心中の直前に、奉献修道女のタイトルを返上している。ドミニコ会は二人の葬儀を拒否し、ベネディクト会がひっそりと引き受けてくれた。

 この悲劇がアメリカではミュージカルか何かになって、ドミニコ会から真実と違うと抗議があったそうだ。フランスでも芝居になり、ベルギーでは映画化された。

 アメリカって、けっこう、歌ったり踊ったりする修道女、っていうシチュエーションが好きみたいだ。コスプレ感覚の一種かなあ。
 
 それにしても・・・領収書がないって・・・脱税って・・・

 シスターは避妊や中絶合法化の運動を始めたり、教会にとっていわば都合の悪い分子だったので、真剣に弁護してもらえなかったのだろうか。

 1985年には私はフランスにいたが、なにしろベースにある記憶が「ドミニク=ペギー葉山」だから、シスターの自殺についての報道については印象がなく記憶がないのだ。

 しかし、私と同世代のある宗教者からこの件について思い出とともにしみじみと語られて、ビデオをリンクしてもらったのを見て、私も今さらながらショックを受けたわけである。

 あの時代に流行ったいろいろな美しいフォークソング、その中でもとびぬけて明るい『ドミニク』に、こんなにもつらい後日談があったなんて・・・

 イメージからいうと同時代に流行った『ドナドナ』と対照的だったが、なんか、どっちも、複雑で、やがて哀しい話だなあ。

Dominique, nique, nique
S'en allait tout simplement,
Routier, pauvre et chantant......

 (この項は追記してあります。)
 
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする