まやの午睡

日常の記録です。

空(くう)とは何か

2012-02-26 12:07:53 | 日記
ノルマンディで悠々自適の暮らしをしている夫の長兄は、そういう環境の人によくあることだが、家族や友人たちに何かというとメールを送りつけてくる。

たいていは害のないチェーンメール、美しい風景やら音楽が多いが、中にはガセネタや怪しいものもあって、ほとんどはスルーしている。見ている暇もない。甥や姪たちもメイリング・リストに入っているので迷惑がってスパム扱いしてる子もいる。

その長兄が、突然、うちの夫と、末の妹あてに、

vacuité 空(くう)って何だと思うか、という質問メールを送ってきた。

そこには、

自分はもちろん「真実は存在しない」と思っている

と書き添えられていた。

私は無視したが、夫は丁寧な答えを長々と書いて、自分でも力作だと思ったのか、それを私のアドレスにも転送してきた。

エラーかと思って聞くと、私に読んでほしかった(ほめてほしかった?)みたいだ。

で、ちらりと読んだら、まず、ウィキペディアかなんかのコピー) をもとにして、vacuitéとか、無とかについてのさまざまな定義が述べてある。それからおもむろに、そのうちの何がここ(真実が存在するかどうか)では問題になっているのか、を考察することで論を進めているようである。

私はおかしくなった。

今の大学生がレポート提出に当たってすぐにウェブを渉猟して定義やらなんかをコピーするという話は聞いていたが、見たことはなかったから。

大学生か、お前は・・・

大学の先生をやっていなくてよかった。

夫の場合は、剽窃しようとか楽をしようとかではなくて、すごくコクマル的な実直さの現われなんだけれど、こういう導入ではその後を読む気が失せる。

「大体においてこういう問いをメールでしてくる相手は当然その言葉についての定義くらいウェブでチェックした上で考えているだろうから、それはすでに暗黙の了解とした上で、自分の視座だけ明らかにして独自の論をたてるだけでいいんだよ」

と私は夫に言った。

義妹の方は、さすがに仏教哲学の専門家であるから、腰が低く、その問題が分かればすべては氷解するが、それは永遠の問題であり、私には手が届かないと前置きしてから、仏教における空について説明していた。

私は、夫に、私にとっての空(くう)とは関係性の中にしか現れないものだと言った。それをいうと「真実」も特定の関係性の中でとる形でしか把握できない。

で、夫に、

たとえば、「お母さんの絵」を描くことはできるよね、でも、「お母さんのいない絵」って描くことができないよね。木を一本描いても、花を一輪描いても、それは「お母さんのいない絵」だけど、いないことを特定できないよね。
でも、家族の食事シーンみたいな絵を描いて、そこにおじいちゃんおばあちゃん、お父さん、小さな子供たちみたいなメンバーが食卓を囲んで、おばあちゃんが赤ちゃんを抱いているという絵を書くとするでしょ、そしたら誰でも、そこには「お母さんがいない」という情報を読み取るでしょう。
不在って、コンテキストの中にしか読み取れないんだよ。そして、そこには、お母さんというものが関係性の中でどういうものなのかを「誰でも知っている」という前提があって、不在を感じることは即、存在を知っていることにつながるんだよ・・・

などと言っていると、なんだか、自分の母のことを考えてしまった。

母が遠くで生きていたときは、私のそばには「不在」であったけれど、彼女が遠くに「実在」しているのは知っていた。彼女と話したり会ったりする時にはその「実在」と向かい合うのだけれど、母は、もう昔の母ではなかった。いつのまにか万能の保護者ではなく、あちこちに弱いところを抱えた年寄りになり、私の助けを必要とする存在でもあった。そんな母を前にした時、「私と私のおかあさん」の関係性の真実が、過去とか現在とかの中でどこにあるのかもうよく分からなかった。

ところが、母が亡くなってから、母はすぐに「私のおかあさん」として復活した。もう物理的な距離も、過ぎ去った過去との断絶もなくなって、すごく親密で、確かで、私の中にも外にも常にいるようになった。父も同じだ。

つまり、肉体の実存と引き換えに、不在は遍在へと変わったのだ。

それって、キリストが死んで、復活して、昇天して、いよいよ目に見えなくなってからはじめて聖霊が降りてきた、それによってキリストは永遠に私たちと共にいるという感じに似ているなあ、とも思った。

「父なる神」は目に見えない。

それで、神が存在するかどうかは人間にはいまいち分からない。

でも、原爆の後とか、津波の後の光景とか、ナチスの収容所跡とか餓死する幼い子供の写真などを見ると、多くの人が、

「神も仏もあるものか」

「神は存在しない」

と確信をもって言う。

でも、

「神のいない光景」

を認知するということは、

「母のいない食卓」と同じで、

みなが「神がいる」とはどういうことかを、関係性の中で知っているからかもしれない。

もちろんそれだけでは、足りなかった。

で、神は人となった。

はじめは人々を期待させたのに、最後は虐待されて殺された。

私たちにとっての「万能の親」がやがて年取って病気になって弱くなるように。

不条理だ。

しかし、そのキリストは復活した。そして再び姿を消した。

そしたら、「不在」は「遍在」になった。

そのことによって、一度も姿を現したことのない「父なる神」の方も、
「遍在」を感じられるようになった。

聖霊が満ちたのだ。

父と子と聖霊の三位一体というのが、「神を知る」ために絶対必要なプロセスだったんだなあ、とわかる。

長兄のメールも捨てたもんじゃない。
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循環器の検査に行ってきた

2012-02-20 19:17:32 | 日記
生まれて初めて頚動脈の超音波写真などを含む大血管系の検査に行ってきた。

横になって電極をあちこちにつけられたりして、機械の音を聞いてたりすると、思い出されるのはやはり、集中医療室での母の様子だ。あの状態で母が意識を取り戻さなくてよかった、とほとんど思う。結果的に両親は亡くなる直前まで元気だったのだから、私も、病院のベッドに寝たきりで意識があるというのはいやだなあ、とつくづく感じた。

結局どこにも異常がなくて、しいて言えば左側だけが1ミリにも満たないけれどうっすらと血管内壁が厚くなっている場所があるのだが、それは年齢や体質のせいで、特に高血糖の影響などとは思えない、2年後くらいにまた見てみましょう、という話だった。それにはこれまでどおり血糖値やコレステロール値に気をつけてリスクを高めないようにと。

初対面の医師だったが、私は例によって、「この2年間は五十肩のせいで、他のことを気をつけることなんて不可能だったんです、第一、去年の今ごろならこうやってベッドに横になるのも腕を使うので結構大変だったんですから。」と言ったり、健康観と大血管障害のリスクとの兼ね合いの話を延々とした。

初老の人のよさそうな意思は、五十肩ごときと血管の問題を並べられるのは不本意だったようで、「どんな時でも血液検査の数値の対応などが最優先に決まってます」と抗弁した。

痛いか痛くないかによってまったく意識は変わるんですよ。と私はいい、実はたまたま前日胃腸風邪をひいたのかめずらしく腹痛で眠られなかったので、腹痛の痛み止めの薬の処方を名を指定して頼んだ。

私が腹痛というのはめったにないので、夕べあわてて探し出した薬がみな使用期限切れだったからだ。

循環器の検査に来てその場で腹痛止めの薬の処方を頼む人はそういないだろう。でも私がまったく躊躇していないので、医師も、じゃ、とりあえず、ね、と言って書いてくれた。実際は腹部の触診とかしているわけじゃないから厳密に言えばまずいだろう。

私は常日頃、長女に常備薬の処方を全部書いてもらっているので敷居が低いのだ。癌研の処方箋で目薬を頼むのも平気だから、循環器センターの処方箋で腹痛薬でも気にしない。

薬局はキャッシュレスだし、誰も見てない。

ただし、長女は、自分の息子である孫クンに処方箋を書くときには、癌研の処方箋を使うと、薬局で深刻な顔をされる気がするので、バイト先の医院の処方箋で書くと言っていたけどね。

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寒い朝

2012-02-08 11:47:41 | 日記
昼間も零下の温度が続く異様に寒い日がもう2週間も続いていて、いつ気温が上がるか分からない。記録的寒波だ。

先週、そろそろ3ヶ月毎の血液検査に行かなくてはとラボに予約をとりに行ったら、なんと今年から予約がなくなったという。医者の処方を持って直接来ればいいのだそうだ。

この手の検査はもちろん、空腹時となっている。朝に弱いので、いつもは9時とか9時半とかに予約しているのに、そんな時間なら混んでいそうだ。

「7時からあいてますから」と言われた。

でも、それなら、待つのを避けるために7時に押しかける人も多いのでは・・・と悩む。

予約のできる他のラボもうちの反対側にあるが、歩いて10分かかる。徒歩1分のいつものラボは捨てがたい。

で、迷いに迷ったが、今朝、思い切って7時前に起床、服を着込んで、といっても、採血のために腕を出さなければいけないから、袖をたくし上げやすいセーターを選んで出かけた。

この季節、7時はまだ夜が明けていない。凍った歩道を、転ばないように気をつけてそろそろ行くが、こんなに寒いと血管は縮み、交感神経が刺激されてアドレナリンが出て、グルカゴン分泌が刺激され、何も食べていなくても血糖値とかもいたずらに上がっているんじゃないだろうか。そういう場合、インスリンの出が遅い私の体は対応できない。いやだなあ。

7時すこし過ぎにラボに着いたら、何と、誰もいなくて、私は一番だった。

考えてみたら、この寒さ、予約してないならたいていの人はこんな早朝に来ないよなあ、と思う。ここでは出張看護師の巡回も多いし、ほんとに病気の人や高齢者は来ないだろうし。

処方を渡して手続きをしていると、黒い革ジャンを着たインド系っぽい中年男が寒そうに入ってきて奥に入った。はじめて見る顔だ。

すぐ後で、その男が白衣をはおって出てきて私の名を呼んだ。

心配。

「こんな寒くてちゃんと採血できますか?」

「大丈夫ですよ」

「でも、こういうのって、微妙な手作業じゃないですか。手が凍えてたらうまくいかないかもしれないでしょ。ここ、予約ができなくなっちゃって早く来たんですけど、ほんとは、私は3番目か4番目にやってもらいたかったんです。その方が安心だから」

彼は苦笑しながら「分かります」と言った。

左腕を出して上腕を締められてこぶしを握っても、血管が浮いてこない。相手の手は想像通りすごく冷たい。もともと血管が見つけにくいので、下手な人にかかると失敗されて、すごく痛かったこともアザができたこともある。そう言うと、

「右腕でやったことありますか?」と聞かれた。

ないけれど、右腕を出した。

そちらのほうが血管を見つけやすかったようだ。

「右利きってことと関係がありますか?」ときいて見た。筋肉は右腕の方があるのは確かだけれど。

「いや、ただ、左よりも僕には感じとりやすかったから」

「何年も3ヶ月毎に左腕で採血してて血管がもろくなったとか細くなるってことは?」

「そんなことはないですよ。毎週採血って人だっていますよ」

「そんなの、慰めにならないです」

などなどの会話をして採血終了。

「私の場合、右のほうが血管を見つけやすいってことは、じゃあ、今度から、担当が別の人の時も、右腕の方がいいって言ったほうがいいかしら」

すると、彼は、ちょっとはずかしそうに言った。

「そんなことはないですよ。ただ、僕はさっき不安になったから。」

「私がプレッシャーをかけたってことですね」

「そういうことです」

だって。

少なくとも、「ああ、こんな寒い日に何だって早朝勤務をしなきゃならないんだ」とうんざりしながら、半分眠った状態で、凍えた手で機械的に採血されるというリスクは回避できたわけだ。

後でこのことを夫に話したら、同情の目をして、

「そう、君からかけられるプレッシャーはすごく大きいからなあ・・」

と言われた。
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