ノルマンディで悠々自適の暮らしをしている夫の長兄は、そういう環境の人によくあることだが、家族や友人たちに何かというとメールを送りつけてくる。
たいていは害のないチェーンメール、美しい風景やら音楽が多いが、中にはガセネタや怪しいものもあって、ほとんどはスルーしている。見ている暇もない。甥や姪たちもメイリング・リストに入っているので迷惑がってスパム扱いしてる子もいる。
その長兄が、突然、うちの夫と、末の妹あてに、
vacuité 空(くう)って何だと思うか、という質問メールを送ってきた。
そこには、
自分はもちろん「真実は存在しない」と思っている
と書き添えられていた。
私は無視したが、夫は丁寧な答えを長々と書いて、自分でも力作だと思ったのか、それを私のアドレスにも転送してきた。
エラーかと思って聞くと、私に読んでほしかった(ほめてほしかった?)みたいだ。
で、ちらりと読んだら、まず、ウィキペディアかなんかのコピー) をもとにして、vacuitéとか、無とかについてのさまざまな定義が述べてある。それからおもむろに、そのうちの何がここ(真実が存在するかどうか)では問題になっているのか、を考察することで論を進めているようである。
私はおかしくなった。
今の大学生がレポート提出に当たってすぐにウェブを渉猟して定義やらなんかをコピーするという話は聞いていたが、見たことはなかったから。
大学生か、お前は・・・
大学の先生をやっていなくてよかった。
夫の場合は、剽窃しようとか楽をしようとかではなくて、すごくコクマル的な実直さの現われなんだけれど、こういう導入ではその後を読む気が失せる。
「大体においてこういう問いをメールでしてくる相手は当然その言葉についての定義くらいウェブでチェックした上で考えているだろうから、それはすでに暗黙の了解とした上で、自分の視座だけ明らかにして独自の論をたてるだけでいいんだよ」
と私は夫に言った。
義妹の方は、さすがに仏教哲学の専門家であるから、腰が低く、その問題が分かればすべては氷解するが、それは永遠の問題であり、私には手が届かないと前置きしてから、仏教における空について説明していた。
私は、夫に、私にとっての空(くう)とは関係性の中にしか現れないものだと言った。それをいうと「真実」も特定の関係性の中でとる形でしか把握できない。
で、夫に、
たとえば、「お母さんの絵」を描くことはできるよね、でも、「お母さんのいない絵」って描くことができないよね。木を一本描いても、花を一輪描いても、それは「お母さんのいない絵」だけど、いないことを特定できないよね。
でも、家族の食事シーンみたいな絵を描いて、そこにおじいちゃんおばあちゃん、お父さん、小さな子供たちみたいなメンバーが食卓を囲んで、おばあちゃんが赤ちゃんを抱いているという絵を書くとするでしょ、そしたら誰でも、そこには「お母さんがいない」という情報を読み取るでしょう。
不在って、コンテキストの中にしか読み取れないんだよ。そして、そこには、お母さんというものが関係性の中でどういうものなのかを「誰でも知っている」という前提があって、不在を感じることは即、存在を知っていることにつながるんだよ・・・
などと言っていると、なんだか、自分の母のことを考えてしまった。
母が遠くで生きていたときは、私のそばには「不在」であったけれど、彼女が遠くに「実在」しているのは知っていた。彼女と話したり会ったりする時にはその「実在」と向かい合うのだけれど、母は、もう昔の母ではなかった。いつのまにか万能の保護者ではなく、あちこちに弱いところを抱えた年寄りになり、私の助けを必要とする存在でもあった。そんな母を前にした時、「私と私のおかあさん」の関係性の真実が、過去とか現在とかの中でどこにあるのかもうよく分からなかった。
ところが、母が亡くなってから、母はすぐに「私のおかあさん」として復活した。もう物理的な距離も、過ぎ去った過去との断絶もなくなって、すごく親密で、確かで、私の中にも外にも常にいるようになった。父も同じだ。
つまり、肉体の実存と引き換えに、不在は遍在へと変わったのだ。
それって、キリストが死んで、復活して、昇天して、いよいよ目に見えなくなってからはじめて聖霊が降りてきた、それによってキリストは永遠に私たちと共にいるという感じに似ているなあ、とも思った。
「父なる神」は目に見えない。
それで、神が存在するかどうかは人間にはいまいち分からない。
でも、原爆の後とか、津波の後の光景とか、ナチスの収容所跡とか餓死する幼い子供の写真などを見ると、多くの人が、
「神も仏もあるものか」
「神は存在しない」
と確信をもって言う。
でも、
「神のいない光景」
を認知するということは、
「母のいない食卓」と同じで、
みなが「神がいる」とはどういうことかを、関係性の中で知っているからかもしれない。
もちろんそれだけでは、足りなかった。
で、神は人となった。
はじめは人々を期待させたのに、最後は虐待されて殺された。
私たちにとっての「万能の親」がやがて年取って病気になって弱くなるように。
不条理だ。
しかし、そのキリストは復活した。そして再び姿を消した。
そしたら、「不在」は「遍在」になった。
そのことによって、一度も姿を現したことのない「父なる神」の方も、
「遍在」を感じられるようになった。
聖霊が満ちたのだ。
父と子と聖霊の三位一体というのが、「神を知る」ために絶対必要なプロセスだったんだなあ、とわかる。
長兄のメールも捨てたもんじゃない。
たいていは害のないチェーンメール、美しい風景やら音楽が多いが、中にはガセネタや怪しいものもあって、ほとんどはスルーしている。見ている暇もない。甥や姪たちもメイリング・リストに入っているので迷惑がってスパム扱いしてる子もいる。
その長兄が、突然、うちの夫と、末の妹あてに、
vacuité 空(くう)って何だと思うか、という質問メールを送ってきた。
そこには、
自分はもちろん「真実は存在しない」と思っている
と書き添えられていた。
私は無視したが、夫は丁寧な答えを長々と書いて、自分でも力作だと思ったのか、それを私のアドレスにも転送してきた。
エラーかと思って聞くと、私に読んでほしかった(ほめてほしかった?)みたいだ。
で、ちらりと読んだら、まず、ウィキペディアかなんかのコピー) をもとにして、vacuitéとか、無とかについてのさまざまな定義が述べてある。それからおもむろに、そのうちの何がここ(真実が存在するかどうか)では問題になっているのか、を考察することで論を進めているようである。
私はおかしくなった。
今の大学生がレポート提出に当たってすぐにウェブを渉猟して定義やらなんかをコピーするという話は聞いていたが、見たことはなかったから。
大学生か、お前は・・・
大学の先生をやっていなくてよかった。
夫の場合は、剽窃しようとか楽をしようとかではなくて、すごくコクマル的な実直さの現われなんだけれど、こういう導入ではその後を読む気が失せる。
「大体においてこういう問いをメールでしてくる相手は当然その言葉についての定義くらいウェブでチェックした上で考えているだろうから、それはすでに暗黙の了解とした上で、自分の視座だけ明らかにして独自の論をたてるだけでいいんだよ」
と私は夫に言った。
義妹の方は、さすがに仏教哲学の専門家であるから、腰が低く、その問題が分かればすべては氷解するが、それは永遠の問題であり、私には手が届かないと前置きしてから、仏教における空について説明していた。
私は、夫に、私にとっての空(くう)とは関係性の中にしか現れないものだと言った。それをいうと「真実」も特定の関係性の中でとる形でしか把握できない。
で、夫に、
たとえば、「お母さんの絵」を描くことはできるよね、でも、「お母さんのいない絵」って描くことができないよね。木を一本描いても、花を一輪描いても、それは「お母さんのいない絵」だけど、いないことを特定できないよね。
でも、家族の食事シーンみたいな絵を描いて、そこにおじいちゃんおばあちゃん、お父さん、小さな子供たちみたいなメンバーが食卓を囲んで、おばあちゃんが赤ちゃんを抱いているという絵を書くとするでしょ、そしたら誰でも、そこには「お母さんがいない」という情報を読み取るでしょう。
不在って、コンテキストの中にしか読み取れないんだよ。そして、そこには、お母さんというものが関係性の中でどういうものなのかを「誰でも知っている」という前提があって、不在を感じることは即、存在を知っていることにつながるんだよ・・・
などと言っていると、なんだか、自分の母のことを考えてしまった。
母が遠くで生きていたときは、私のそばには「不在」であったけれど、彼女が遠くに「実在」しているのは知っていた。彼女と話したり会ったりする時にはその「実在」と向かい合うのだけれど、母は、もう昔の母ではなかった。いつのまにか万能の保護者ではなく、あちこちに弱いところを抱えた年寄りになり、私の助けを必要とする存在でもあった。そんな母を前にした時、「私と私のおかあさん」の関係性の真実が、過去とか現在とかの中でどこにあるのかもうよく分からなかった。
ところが、母が亡くなってから、母はすぐに「私のおかあさん」として復活した。もう物理的な距離も、過ぎ去った過去との断絶もなくなって、すごく親密で、確かで、私の中にも外にも常にいるようになった。父も同じだ。
つまり、肉体の実存と引き換えに、不在は遍在へと変わったのだ。
それって、キリストが死んで、復活して、昇天して、いよいよ目に見えなくなってからはじめて聖霊が降りてきた、それによってキリストは永遠に私たちと共にいるという感じに似ているなあ、とも思った。
「父なる神」は目に見えない。
それで、神が存在するかどうかは人間にはいまいち分からない。
でも、原爆の後とか、津波の後の光景とか、ナチスの収容所跡とか餓死する幼い子供の写真などを見ると、多くの人が、
「神も仏もあるものか」
「神は存在しない」
と確信をもって言う。
でも、
「神のいない光景」
を認知するということは、
「母のいない食卓」と同じで、
みなが「神がいる」とはどういうことかを、関係性の中で知っているからかもしれない。
もちろんそれだけでは、足りなかった。
で、神は人となった。
はじめは人々を期待させたのに、最後は虐待されて殺された。
私たちにとっての「万能の親」がやがて年取って病気になって弱くなるように。
不条理だ。
しかし、そのキリストは復活した。そして再び姿を消した。
そしたら、「不在」は「遍在」になった。
そのことによって、一度も姿を現したことのない「父なる神」の方も、
「遍在」を感じられるようになった。
聖霊が満ちたのだ。
父と子と聖霊の三位一体というのが、「神を知る」ために絶対必要なプロセスだったんだなあ、とわかる。
長兄のメールも捨てたもんじゃない。