又四郎夢日記

ニコマス紹介や、雑学、雑記など。

大嘘つきの松平

2014-12-24 16:45:04 | 岡山
大嘘つきとして知られる斎藤松平は下総国(現在の千葉、茨城辺り)出身でしたが美作国(現在の岡山県北東部)で大工の棟梁をやっていました。

ある日、松平は藩のご家老様から厩(うまや)建築を命じられました。十五日程はかかる仕事なのに五日で請け負ってしまいます。家老は『嘘をつくと命はないぞ!』と言いますが、松平は『半日でも遅れたら命を差し出します』というので、仕事が始まりました。

しかし出来るはずもなく弟子たちは『猶予を願うか人を増やさなければ期限に間に合いません』と訴えますが、松平は『五十二の今日まで嘘で通った松平じゃ、嘘で首がなくなるなら本望』と平気な顔です。

そして期限の日、家老は『最後に言い残したいことがあれば申せ』と最後の情けをかけます。松平は『一目、両親に会いとうございます』と言うので両親を呼びに行かせたら両親はとっくの昔に死んでいました。カンカンに怒った家老は『最早かんべんならぬ!』と松平を斬ろうとしますが、そこで松平『これが嘘のつきおさめでございます』と言って首を差し伸べました。その姿にあきれた家老は『貴様にはかなわぬ!』といって屋敷の奥に引っ込んでしまったそうです。

無茶苦茶な話ですが、こういう人って必要な気がするんですよね。松平のような人ばかりになると社会が維持できませんが、こういう人の存在が許されない社会は生き苦しい世の中のような気がします。

アユモドキ

2014-04-16 17:03:48 | 岡山
皆さんはアユモドキをご存知でしょうか?国の天然記念物の魚で、京都府亀岡市の桂川水系(淀川水系の一部)、岡山県の旭川(あさひがわ)・吉井川水系にしか残っていません。

NHKのダーウィンが来た!によると、岡山市の中心部から車で10分ほどの祇園用水(ぎおんようすい)にこの幻の魚がいるそうです。『祇園用水は、単位面積あたりの種類の多さでは、日本で一番淡水魚が豊かな場所だと言っていいと思います』とも書いてありますから、貴重な所なんですね。

地元民でありながらまったく知りませんでした。どうやら日本は世界的に見ても貴重な自然や文化が多く残されているようです。

岡山の超人荒木要平

2013-12-27 17:30:48 | 岡山
幕末の備中国(現在の岡山県西部)に、荒木要平(あらきようへい)と言う武芸者がいました。中国一(中華ではなく中国地方)の剣客とか、七つの流派の免許を持っていたので、荒木の七免許とか言われた人です。この人は、両手両足を使って動物のように走る四足走法ができたそうです。ある日、備後国(現在の広島県東部)の鞆(とも)の浜で、二足走法で普通に走る人達と競争をする事になりました。結果は、荒木が決勝点に着いた時、二足走法の人達は半分までしか到達していなかったそうです。

この話は別名義でやっているもう一つブログ、なぜなに古流武術にも書いたので、あちらには書かなかった話もしましょう。荒木は若い頃に剣術の試合で金的を責められて不覚を取ったので、股間を鍛えました。その話が有名になり、鴨方(かもがた)の庄屋である塚村貞次がやってきて、金玉の力試しをさせてほしいと言ってきました。荒木はこれを了承したので、フンドシ姿の六人の若者相手に力試しをする事になります。力試しのやり方は、先頭の若者が荒木の股間を掴み、ほかの人たちは前の人の腰に手を回して数珠つなぎになって、玄関の上にいる荒木を引きずり下ろしたら若者チームの勝利という方法です。

こうして金玉引きが始まりましたが、若者たちの方が引かれて行きます。途中から庄屋も加わって七人で引きましたが、結果は荒木の勝利でした。

岡山の聖者坪田利吉

2013-12-14 17:26:16 | 岡山
坪田利吉は広島県の生まれですが、岡山で社会貢献した人です。
利吉は子供の頃に義父によって座敷牢に閉じ込められて強制労働させられていました。ある日、脱走に成功するのですが、行くあてもなく尾道の海岸をさまよっていると、親切な人が遍路として聖地巡礼の旅を勧めてくれたので、巡礼の旅に出発します。この時、利吉は十三歳でした。

遍路といえば、四国のお遍路さんが有名ですが、昔は他の地方でもさかんだったようです。利吉は関東、九州、四国と旅をして、千が寺詣りを終えて岡山に着いた時には、二十一歳になっていました。巡礼の旅を終えた利吉はこう考えました。「孤独な自分が一人前になれたのは人様のおかげ。これからの生涯は人の為にささげよう」。それから利吉は万納屋と名乗って行商を始めます。利吉は毎日の売上を、商品の仕入れ用、家計用、社会奉仕用の三つに分けて積み立てていきました。

利吉が行った社会奉仕活動は色々あったようですが、代表的な物としては、小学校に傘を寄付したという話があります。傘立てもこしらえて数千本の傘を寄付したそうですが、大人が平気な顔でその傘を使っているのを見てやめました。無料宿泊所も造りましたが、盗人が利用したり、博打宿にされたりして止めました。石の橋を架けたところ、人々に喜ばれたので、何本も橋を架けていきました。公園や散歩道に石のベンチもつくりました。

その中で恐らく最も大きな物は、鉄骨の警鐘台(火の見櫓)です。しかし数本立てたところで資金が不足しました。そこで野崎鉄工所へ相談にいったそうです。すると、「立ててあげましょう。何年かかろうとチビチビ払いなさい。もし払えずに死んでしまったら香典としてあなたに差し上げる。」との返事。利吉は毎日午後六時に仕事を終えていたそうですが、それ以来、午後九時まで働くようになったそうです。

この火の見櫓や橋は、一部が現存しています。写真は岡山の橋などで観られます。

残念な事に利吉が活躍した岡山でさえ、坪田利吉の名はほとんど忘れられています。せめて出身地広島と岡山の人くらいは、知っておいた方がいいんじゃないでしょうか。

作州では棒を振るな

2013-12-05 17:56:42 | 岡山
江戸時代には、作州では棒を振るなと言われていました。作州(さくしゅう)とは美作国(みまさかのくに)、現在の岡山県北東部の事です。美作国は今年(2013)で建国1300年となりました。その美作国は、古流武術(古武道)の一派である竹内流(たけのうちりゅう、たけうちりゅう)発祥の地です。竹内流は柔(やわら、古流武術の素手技術)を中心とする流儀としては最も古いものであり、最古の柔術とされています。

その竹内流には柔の他にも色々な技術があり、その中でも柔と並んで重視されているのが棒術です。作州には棒術で有名な竹内流があり、竹内流の支流もあるので、農民の中にさえ意外な棒術の使い手がいました。その為、多少腕に自身があっても、作州では棒を振らない方が良いと言われていたと言うわけです。

今となっては岡山県民でさえ大部分の人はこの事を知りませんが、天下に雷名した名門流派発祥の地であり、今でも三系統の竹内流が活動している事くらいは、知っておきたいものです。知っておきたい人の為に、竹内流のサイトを幾つか紹介します。

竹内流藤一郎家(日下捕手開山)
竹内流藤十郎家(腰之廻小具足、相伝家)
竹内流備中伝(竹内流全般の情報が載っています)
竹内流備中伝日新館
竹内流備中伝聴風館

古流武術についてもっと詳しく知りたい方は、私が別名義で作成した、なぜなに古流武術をご覧下さい