宇宙創生から未来へ
Prologue
佐藤勝彦(自然科学研究機構)
「宇宙は“ 無” の状態から量子重力的効果によって生まれた。この量子宇宙はインフレーションと呼ばれる急膨張をおこしマクロな宇宙となった。インフレーションが終わるとき,宇宙は激しく熱せられて火の玉宇宙となった。またインフレーション中に存在した量子揺らぎはインフレーションによって引き延ばされ,後に緩やかに成長し銀河団,銀河,星など宇宙の構造になる種となった」
これは1980年代に,旧来のガモフによるビッグバンモデルの欠陥を補強するために提唱されたインフレーション理論,量子宇宙論によって強化された現代宇宙論のパラダイムである。インフレーション理論は未完ではあるが力の統一理論を宇宙初期に応用することで提唱されたものである。また量子宇宙論は,未だ成功していない量子重力理論,つまり一般相対性理論と量子論の統一理論に基づくものである。共に“ 理論” の“ 理論” として提唱されたもので,したがって,あくまでもパラダイムと呼ぶにふさわしいものである。当時,宇宙論の研究はその観測的実証の困難から,どうしても理論的研究が主導する分野であった。無からの創成やインフレーションはそれぞれ宇宙開闢から10-44秒(プランク時間)とか10-36秒(大統一理論相転移時刻)に起こったとして提唱されたものであり,そのころに起こった出来事が観測的に実証されることはないと考えるのは当然であろう。
しかし,1980年末から次第に宇宙論の研究は,観測主導の時代に変わっていった。もちろん10-44秒のプランク時間の観測ができるようになったのではなく,現在の宇宙時刻から電磁波で観測できる最も宇宙の初期,宇宙開闢の約38万年後までの観測が爆発的に進むようになったからである。
日本の大型光赤外望遠鏡すばるをはじめとする多数の大型望遠鏡が建設され,さらにハッブル宇宙望遠鏡に代表されるような宇宙望遠鏡が多数打ち上げられ,波長の短いガンマ線から,X線,紫外線,可視光,赤外線,そして波長の長い電波まで宇宙論的遠方まで観測が進められるようになった。写真乾板ではなくCCDなど高感度光電素子が次から次へと開発され,さらにこれらの観測データは電子信号として得られることから高速大容量コンピューターによる処理が可能となり,無数とも言える天体の観測が,全波長にわたって可能となってきたのである。かつて天文学の研究と言えば,長さ1mほどの望遠鏡をのぞいて観測するガリレオのイメージが強かったが,今天文学研究の現場はハイテク機器を設置し大型望遠鏡や人工衛星を制御,それによって得られたデータを処理する大型計算機群で構成される工場のようなものである。
他の科学観測・実験と比べて観測的宇宙論の素晴らしいところは,過去の世界を見ることができることである。電磁波の伝搬速度,光速は他のいかなる信号速度より速いが,宇宙は広大であり,発射された時刻とそれが地球に届くまでに長時間を要する。暗く澄みわたった場所では肉眼でも見ることのできるアンドロメダ銀河,これは230万光年の遠方にあるが,もし皆さんが今晩見たとすれば,それは230万年昔の宇宙を見ていることになる。宇宙では遠くを観測すれば過去がどんどん見えてくるのである。光や電磁波を使って観測するとき,宇宙誕生から38万年以前の宇宙は高温でプラズマ状態にあり,光はプラズマの電子に散乱されるのでこれ以前の初期宇宙は電磁波では写真をとることはできない。しかし,透過性の高い粒子や波を使えばさらに宇宙初期の姿も描き出すことができる。たとえばニュートリノを使えば,宇宙の温度が100億度もある時刻1秒の頃まで見える。ビッグバン宇宙でヘリウムなどの元素が核融合によって形成されるのはもっと温度が下がった,宇宙開闢から3分頃であるが,ニュートリノ望遠鏡ができればこの元素合成の現場を観測できる。アインシュタインの相対性理論の予言する重力波を使えば原理的には,宇宙開闢の瞬間すら見えてくるのである。
1980年末ころから始まった観測的宇宙論の最大のハイライトは,米国NASAの宇宙背景放射観測衛星COBEによる,宇宙背景放射の揺らぎ,温度の方向によるむらの発見である。1982年,COBE衛星に搭載されていた背景放射の非等方性を観測するDMRは,宇宙が高温で不透明だった時期から透明になった頃の宇宙の姿,開闢から38万年たったころの宇宙の姿を描き出した。そこにはインフレーション理論が予言していた宇宙構造の種,密度揺らぎがクリアに描き出されていたのである。DMRのチームリーダー,スムート(G. Smoot)は発見直後にニューヨークタイムズ紙で,「この発見によって人々はインフレーション理論が正しいことを信じるようになるだろう」と語っている。揺らぎはサイズの大きいものから小さなものまで連続してあるが,この分布を記述するパワースペクトルがインフレーション理論の予言と見事に一致したからである。さらにCOBEの後継機,WMAP衛星が地球からのノイズを避け全天サーベイがしやすい場所,月軌道より遠方のL2ポイントに打ち上げられた。WMAPは2003年,ほぼ30倍の細かさで地図を作り上げ,そのデータ解析によりさらにインフレーションを裏付けた。このデータ解析の中で,宇宙の年齢が137億年であることを示し,宇宙の年齢もほぼ決まった。このデータが発表されたときほとんどの研究者があまりにも理論の予言どおりの結果であることに驚いた。私もあまりにも綺麗な一致に驚き,どうしてこんなにうまく一致するのだろうかといぶかったほどである。物理学者として改めて地球で人間が論理をつくし,実験で確かめ導かれた物理学の法則が宇宙のあらゆる場所で,また時間的にも宇宙の始めから現在に至るまで貫徹しているのだと深く感銘した。
米国物理学会会長も務めたバーコール(J. Bahcall)は,賛辞として「WMAPの大きな成果はなにも新しいことがなかったことである」と語った。実際このWMAPの結果によってCOBEの結果も再確認され,2006年,DMRチームリーダのスムートはノーベル物理学賞に輝いたのである。さらに欧州宇宙機関 (ESA)によって宇宙背景放射を偏光観測まで含め高感度・高分解能で観測するプランク衛星が同じくL2ポイントに打ち上げられた。2013年,最初のデータ解析の結果が発表され,プランク衛星はさらにインフレーション理論を裏付けた。
プランク衛星の目指すものは,単純な密度の揺らぎの観測のみではなく,実は些細な偏光観測をおこなうことである。インフレーションは宇宙の構造の種となる密度揺らぎだけではなく,時空のさざ波とも言うべき,重力波も生み出す。インフレーション理論が正しいのならば現在の宇宙には,それが引き延ばされ,波長が長い宇宙背景重力波が満ちているはずなのである。宇宙背景重力波があると,宇宙マイクロ波背景放射にはBモードと呼ばれる偏光パターンが現れる。プランク衛星はこれを観測でとらえることを目指している。残念ながら2013年のデータ解析では,Bモードに対して上限値を求めることしかできなかったが,2014年にはさらに精密なデータ解析の結果が発表されることになっている。たいへん楽しみである。日本のグループ,高エネルギー加速器研究機構(KEK)の羽澄昌史を中心としたグループは60cm程度の小型反射望遠鏡,超低温冷却系,多色超伝導検出器アレイを搭載した衛星を開発し,CMBの偏光度を全天にわたり精密観測するLiteBIRD衛星計画を提唱している(CHAPTER1の「素粒子研究を礎に宇宙の“うぶ声”を探る」)。たとえプランク衛星の感度が及ばずBモードが観測できなかったとしてもLiteBIRD衛星では可能である。
Bモード観測の重要性は単にインフレーションを裏付けると言うだけではなく,実はインフレーションがいかに起こったかを観測によって明らかにすることである。佐藤やグース(A. Guth)によって提唱された原初インフレーション理論はそのままでは天文的観測と矛盾したり,また,その根拠となった大統一理論が統一理論としては実験と矛盾したりすることがわかり,いろいろな改訂版が数多く作られた。新インフレーション,カオティックインフレーション,ハイブリッドインフレーション,拡張インフレーション,ソフトインフレーション,ナチュラルインフレーション,オープンインフレーション,スカラーニュートリノモデルなど数えることは難しいが100程度はある。今日,インフレーションを引き起こす場は,確定的理論がない状況では,一般にインフラトン場と呼ばれている。しかし,モデルが確定していないにもかかわらず,上に記したような問題を解決するような理論は他になく,インフレーション理論は初期宇宙の標準的パラダイムとなっているのである。ただ,これらのモデルによって予言される揺らぎの性質が相互に異なる。特にBモードの強弱により,宇宙初期にどのようなインフレーションが起こったのかを明らかにできるのである。
もちろん,マイクロ波背景放射を経由してインフレーション起源の重力波を観測するということをしなくても,直接重力波をとらえることができるならより直接的なインフレーションの証拠となり,またインフレーションがいかに起こったかの情報が直接得られる。現在日本で,神岡鉱山の地下深くに宇宙からの重力波を捕らえようとする大型冷却重力波望遠鏡,KAGRAの建設が進んでいる。これが完成すれば,連星が合体しブラックホールができるときに発生する重力波が観測されると期待されている。残念ながら,インフレーション起源の重力波はあまりにも波長が長くKAGRAでは検出できない。しかしNASAやESAは人工惑星を3個打ち上げ,その間にレーザの光をやりとりする干渉計によってこの重力波を捕らえる計画の検討を進めている。
今回の別冊『宇宙の誕生と終焉 最新理論でたどる宇宙の一生』は2007年~ 2012年に月刊誌「日経サイエンス」に掲載された宇宙の誕生をはじめとする宇宙論関係の記事で構成したものである。宇宙論の理論的研究,特に宇宙の創生研究は20世紀末から,多様な展開を見せている。特に興味深いのが超弦理論に基づく膜宇宙論の展開である。超弦理論の大家,サスキンド(L. Susskind)は物理法則が異なるかもしれず空間の次元が3次元とは限らない10200もの宇宙が存在するという。CHAPTER1の「多次元宇宙のうねりが生むインフレーション理論」のように,この膜宇宙論の中で我々の住む膜宇宙とは別の膜宇宙と反膜宇宙が衝突したとき生じるエネルギーによって我々の宇宙はその初期にインフレーションを起こしたのだという。また未完の量子重力の1つの予言として,実はビッグバンは前世の収縮していた宇宙が反発膨張に転じたものだとしている(「量子重力が予言するビッグバウンス宇宙」)。「宇宙の起源」ではいまどのような多様な創成理論があるか解説されている。宇宙の初期に量子効果が考慮されていないアインシュタインの相対性理論がそのまま使えるとは思えない。量子効果を含めた多様な理論が提唱されているが,それらはブラックホールについても多様な性質を予言する。「CHAPTER2 宇宙の特異点」では,天文学的ブラックホールの観測の3つの話題(「ブラックホールからの大逆流」,「Mサイズのブラックホール」,「ブラックホールの容貌を撮る」)に加えて,量子論とのかかわりを論じた「相対論と量子論をつなぐブラックスター」「裸の特異点 もうひとつの“ブラックホール”」を取り上げる。
現在の宇宙の最大の謎は,銀河や銀河団の内部やまわりに存在する正体不明の暗黒物質,そして今宇宙を加速膨張させている宇宙全体に一様に広がった正体不明の暗黒エネルギーの存在である。最近の観測では我々の体や輝いている星を構成する通常の物質は5%,暗黒物質は27%,暗黒エネルギーは68% である。しかし注目すべきは「CHAPTER3 物質とエネルギーの謎」の最初の解説「銀河はどこへ行った?」に示されているように,通常の物質でも,どこにあるのかわからない割合が90%にも上ることである。「暗黒物質が作る影の宇宙」は暗黒物質の正体をめぐる解説だ。暗黒エネルギーの存在は宇宙の加速膨張から示唆されているが,もしこの速い膨張が別の原因によるなら暗黒エネルギーは存在しない。「暗黒エネルギーは幻か?」は私たちの住む領域が外の領域より物質密度の低い泡領域ならそれで速い膨張は説明できるという主張である。膨張宇宙では,宇宙全体のエネルギーを定義することはできない。「宇宙のエネルギー保存則は破れているか」は宇宙膨張に伴って電磁波が赤方偏移し光子のエネルギーが減少する例をあげて解説しているものである。
暗黒エネルギーの発見以前の標準ビッグバンモデルでは宇宙膨張は減速するので,遠方にあって見えなかった銀河も次第に視界に入ってくる。私たちの子孫は私たちよりより広い宇宙を知ることができる。しかし暗黒エネルギーの満ちた宇宙では宇宙膨張が加速するため,遠方の銀河は時間の経過と共に私たちの視界から消えていく。1000年後には自分が住んでいる銀河しか見ることはできず,その外には暗闇の空間しか存在しなくなる。「CHAPTER4 宇宙の行く末」の「宇宙の歴史が消える日」に説かれているように,この時代に私たちの末裔がいたとしても宇宙が膨張していることなど認識できず,ビッグバンで宇宙が生まれたことは,古文書に書かれた神話としてしか知ることはできないかもしれない。
加速膨張の続く宇宙では,どうしても気持ちが暗くなる話がほとんどだが,「宇宙100兆年の未来」では重元素の増加などにより,現在の宇宙より惑星も生まれやすくなり,生命は生まれやすくなるのだと明るい未来も予測している。我々の住む宇宙はこれからどのような宇宙になっていくのだろうか? これは「宇宙がどのように始まったか」という疑問と同じように,たいへん興味深いテーマだ。しかし宇宙論でいう未来とは,何億年,何兆年,何京年,……という時間スケールであり,そのはるか未来について今日の科学の外挿による予言は無意味なものとなっている可能性が大きい。また人類が存続している可能性はほとんどない。我々人類の記録が新たな知的生命体へと次々に伝承されるのかも疑わしい。しかし,これらを承知の上でも,我々は自分の住む宇宙の未来を知りたいのである。
この別冊によって宇宙の創生から未来まで最新の宇宙研究の現状を多くの方々に知っていただければたいへん幸いである。
別冊日経サイエンス196 「宇宙の誕生と終焉 最新理論でたどる宇宙の一生」目次へ
著者
佐藤勝彦(さとう・かつひこ)