「小澤征爾さんと音楽について話をする」のメモです。
小沢征爾は音楽にマニアックな解釈をしない。というか嫌う。やんわり村上春樹の聴き方をマニアックすぎると批判しているように読めた。世界の村上春樹に音楽にかこつけてこんな批判をさらっと言ってのけるのはやはり小沢征爾くらいのものだろう。音楽家と小説家の距離が忌憚のない意見を述べさせたのだろう。
村上春樹はこの批判に、たしかに音楽にマニアックな好みを求める傾向があると自己反省している。
エルトンジョンは素敵な音楽とそれほどでもない音楽があるだけだという。クラシックやジャズなどというジャンル分けに興味を持たない。これが本当だろう。
確かに素敵な音楽への賛成票にマニアックな要素は入り込まないだろう。
村上春樹がおもしろくないと感じるときはそのテーマの扱いがマニアックすぎるからだろう。意識と心の解離を埋めようとしながらマニアックな要素が強すぎてある種の読者と嚙み合わないからだろう。
その人にとって噛み合わないのだからなんとかわかろうと思って意地になって無理して読む必要はない。村上春樹作品でも自分の意識と自分の心の解離を埋めてくれると思う面白い小説のみを読めばよい。
面白くないものを無理にわかろうとして読むと意識と心の解離を埋めようとしながらマニアックな要素が強すぎて返って意識と心の解離を広げてしまう。つまり毒になってしまう。いや、毒にはならずそれほどではない小説があるというだけになるのかも。
以下の早大でのあいさつを読んでそんなことを思った。
だから、小説というのは、直接的には社会の役にはほとんど立ちません。何かがあっても、即効薬やワクチンみたいなものにはなりません。でもね、小説というものの働きを抜きにしては、社会は健やかに前には進んでいけないんです。
というのは、社会にもやはり、心というものがあるからです。意識や論理だけではすくいきれないもの、すくい残されてしまうもの。そういうものをしっかり、ゆっくりすくい取っていくのが、小説の、文学の役割です。心と意識の間にある隙間を埋めていくのが小説です。
ですから、小説というのは1000年以上にわたって、いろいろな形で、いろいろなところで、人々の手に取られてきました。小説家という職業は、まるでたいまつのように受け継がれてきました。皆さんの中には、そのたいまつを受け継いでくれる人がいたら、あるいはそれを温かく大事にサポートしてくれる人がいたら、僕としてはとてもうれしいです。