まさおレポート

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バリ シュピース ビッキーバウム コリン・マクフィー

2020-06-27 | バリ島 絵画・紋様・アート・クリス・美術館・ワルター シュピース

 

 

1930年代のウブドに魅せられた男ヴァルター・シュピース。

時は1930年代、所はバリ島、主役は孤高の無国籍でゲイなシュピース、迎えるはバリで豪奢と貧窮のザナドゥ、ウブドのラジャ(領主)。仲間はあたかもモロッコのタンジールに集ったポール・ボウルズ、テネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・バローズ、アレン・ギンズバーグのようにシュピース、ビッキーバウム、ミゲル・コバルビアス、コリン・マックフィーらが集った。

1930年代のバリでの生活は特に外国人の生活は快適そのもので車の所有,数人の家事手伝い、豊かな食事を楽しめた。中でも王族は裕福でバリ特有の快適さを満喫していた。広大なプリPuri(王宮)には居間、来客用の部屋があり館には沢山の金や宝石が蓄えられていた。

オランダが阿片を輸出していたので吸引は日常だった。まさにザナドゥだ。シュピースも当時の西洋では肩身の狭かったゲイの享楽に預かったであろう。しかしシュピースは当時の傲慢な白人とは一線を画しており、気さくでフレンドリーだったとある。

さて、今どこで暮らしたいかと問われると日本ではなくバリのウブド、そのウブドにそのまま消えるかそのまま寝床を構えて暮らしたいと望む男は多い。当時も今も同じだろう。

1930年代のウブドは国籍離脱者たちの喧噪とエレガントな狂気に満ちている。時代は第二次世界大戦中のどさくさで1935年3月16日にヒトラー政権が、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、ドイツの再軍備を宣言した頃だ。

そもそもそこがウブドでなかったならそこにビッキーバウムもチャップリンもミゲル・コバルビアスもいなかった。シュピースは彼らの金糸銀糸で紡がれるようにウブドに現れた。

ウブドはバリ島の中部、海のない山中の町だ。そこから北に抜け海辺を西に沿って走るとシンガラジャで、南に向かうとデンパサールやサヌールがある。なんといってもウブドがバリ文化の中心であり聖と俗のトポスなのだ。

例えばビッキーバウムは1935年にシュピースのもとに滞在し1906年のバドゥン王国での対オランダ戦争とププタンを描いた『バリ島物語』(1937年)を発表している。バリ島の王侯貴族がみせた無抵抗の大量自決によってオランダは国際的な非難を浴びることとなる。その結果オランダ植民地政府はバリ島伝統文化を保全する方針を打ち出す。

ヨハン・ルドルフ・ボネ(オランダ・アムステルダムに1895年3月30日に生まれ、1978年4月18日オランダ・ラレンにて死去、享年83歳)は、オランダの画家でその人生の大半をウブドで過ごした。1929年バリ島を訪れシュピース(1895-1942)やウブド王宮のチョコルダ・グデ・ラカ・スカワティチョコルダ・グデ・アグン・スカワティに紹介される。シュピースがチャンプアンの新しい住まいに移転したボネはウブドのシュピース住居跡に絵画スタジオを構築した。バリピタマハ芸術家協会を作りバリのアートライフに大きな影響をもたらす。

さて彼らが集う10年以上前、1917年から1919年にかけてバリに災厄が襲い神の怒りを宥める儀礼サンヒャン・ドゥダリ(憑依舞踊)がバリで盛んになりシュピースがケチャの新たな創作を行う歴史的背景となる。

バリ島南部大地震(1917年)
世界的流行のインフルエンザがバリに(1918年)
穀倉地帯南部バリでネズミの大量発生による収穫激減(1919年) 

1917年1月21日 午前6時50分バ リ南部を大地震が襲った。揺れは40秒 ほど続きガムラン楽器の音が地震で鳴り響いた。ち ょうど朝の水浴びの時間にあたり谷に落ちる者もいた。余震は2月になっても続き被 害は広がった。バリ北部は死者14人負傷者11人倒 壊家屋1,276戸に、南部では死者1,358人,負傷者1,060人,倒壊した住居64,488戸,米倉9,927個 にお よんだ。

地震の翌年にはインフルエンザが世界的に大流行しバ リでも多数の犠牲者がでた。 その翌年1919年南バ リで田がネズミに襲われ再び収穫は激減した。

カランガサムの知事がオランダ植民地政府理事官に地震の原因は天罰説である、ブサキ寺院の儀礼を1901年 以来16年間放置したため神の怒りが大地震を引き起こしたと書簡で示したという。

file:///C:/Users/milva/Downloads/KH_019_2_002.pdf

 

当時のバリの人々は神々に対する儀礼をおざなりにしていたことが神の怒りを呼んだと考え清浄化のためにバロンの練り歩きやサンヒャン・ドゥダリ(憑依舞踊)が盛んに行われる。

そんな状況にあるバリに1925年にシュピースはやってきた。バリの観光客数は1920年代からわずか10数年の間に10倍3万人に膨れ、あたかもシュピースを迎える準備であるかのように1924年にはバタヴィア - シガラジャ間の定期船の就航が始まっていた。(バタヴィア (Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)

ミゲル・コバルビアスは1930年にグレゴール・クラウゼの写真集バリ島に魅せられバリ島へ新婚旅行に出かけシュピースと交流する。帰国時のパリでコリン・マックフィーと出会い、シュピースへ紹介した。

1933年に再びバリに戻り、長期滞在する。この間には、ジャワ島、インド、ベトナムなども旅した。1936年に、バリ島での体験・見聞を『バリ島(Island of Bali)』にまとめ出版。同書は、ニューヨークにおけるバリ島ブームを一層高めるものとなった。

コリン・マクフィー(Colin McPhee, 1900年3月15日 - 1964年1月7日)は、カナダの作曲家、音楽学者で 1931 ~1939年までバリ島に住み1936年にカルロス・チャベスの依頼で、管弦楽でバリの儀礼音楽を再現した『タブー・タブーアン(Tabuh-Tabuhan)』を作曲した。https://www.youtube.com/watch?v=Fck3yS5DAUM

ル・メイヤーは1931~1957年までサヌールに住んだためシュピースと交流があったかどうかはわからないがバリの踊りを題材に多くの作品を残しているので可能性は極めて高いだろう。

1932年チャーリー・チャップリンがウブド訪問しガイドとして付き添う。

「バリ行きを決めたのは兄のシドニーだった。この島はまだ文明の手が及んでおらず、島の美しいおんなたちは胸もあらわだというのだ。こんな話が僕の興味をかきたてた」

とチャプリンは記している。

ビッキーバウムがウブドに小説を書きにやってきた。シュピースは短期間で風変りな小説バリ島(Island of Bali)を書きあげることに協力した。材料の提供から校閲まで行ったという。出版すると世界中で読まれた。

モスクワ生まれのシュピースはもともと音楽家でありダンサーだった。巨匠ムルナウに師事してサイレント映画をつくっていた。ビッキーバウムの小説もゴーストライターのように助けた。もともと音楽家でありダンサーだった。バリ舞踏に挑みバリス舞踏の名人ワヤン・リンバクと出会ってケチャの創作を行った。

ケチャは集団で車座になった男性が声でパーカッションを演ずる。ル・メイヤーが豊かな乳房をもつ妻を描いたのと対照的で、色彩を感じさせないケチャ、パーカッションに美を見出したのはシュピースならではの貢献ではないか。ただし商業的な才能も持ち合わせていたために円陣の中央での女性の踊りも取り入れている。

シュピースの弟コンラッドもウブドに来たが神経症に冒されて自殺するという不幸に見舞われる。ムルナウの死去とともにショックなことだっただろう。

シュピースは「カットアップ」の手法を用いて幻想的な絵を残した。第一次世界大戦中にウラルの敵国人抑留キャンプに収容され遊牧民族の生活に触れた体験がアジアへの関心を高めたという。そのことがインドネシア、バリに向かわせたのだろうか。

かくてシュピース、ビッキーバウム、ミゲル・コバルビアス、コリン・マックフィーがバリに集う。

さて私も最後の行く先はウブドにしたいと思っている。しかし1930年代のウブドなので想像と創造の世界に遊ぶ以外にはない。

 


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