東南アジアとりわけタイやベトナムでは仏教に対する信仰心は驚くほどである。これらの国に旅をすると必ず寺院を訪れる。ガイドが付き添っているとこれまた必ず熱心に仏教の説明をしてくれる。
釈迦がインド北方の国の王子であり何不自由ない生活を送っていたのだがある日妻と子供をおいて城をでて修行生活にはいる。難行苦行の末35歳で菩提樹の下でスジャータをお飲みになり悟りを開かれる。
そんな話を今までとは打って変わって熱心に説明される。宣教師か布教師あるいは日本でよく見かける訪問布教のような熱心さである。一度や2度なら偶然かとも考えられるが3度4度と重なるとこれらの国の人々が如何に深く仏教を信仰しているかを肌で知ることになる。
ガイドに私も仏教徒で日本もほとんどが仏教徒だと説明を試みることもある。しかし日本人のもつ仏教感と彼らのもつそれは異なるとうすうす感じることになる。何より寺院のたたずまいが異なる。京都や奈良鎌倉の寺院や仏像を見慣れた私の目にはこれらの国の建築は正直いって美しいとは思えない。仏像もやたらと金ぴかであるか巨大な寝釈迦像=リクライニングブッダが多いのでこれまた審美感に訴えない。地獄絵も多いが赤や緑黄色の原色でグロテスクな状況が描かれており眺めて気持ちのよいものではない。
しかしそんな日本とこれらの国の仏教寺院の見た目の違いが何によってもたらされるのか。国が異なれば建築も仏像も変わるのは当然だろうがやはりひとくくりに仏教と呼ぶ宗教そのものが彼我で異なるようだ。イスラム教ユダヤ教キリスト教のカソリック、プロテスタントそしてモルモン教やエホバの証人などがすべて同じ呼称の宗教で呼ばれたら彼ら信者は腰を抜かすか怒るか、いずれにしても心穏やかではいられない。これと同じことが「仏教」の世界では平然と受け入れられている。