まさおレポート

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火宅と法華七喩

2017-11-29 | 紀野一義 仏教研究含む

火宅の人とはどんな男を言うのだろう。そのうち火宅は死語になるかも知れないとも一瞬思ったがしかし法華七喩の一つ三車火宅から来ているのでおいそれとは死語にならないだろう。法華七喩は物語の宝庫だが三車火宅はその一つで、他にも以下の喩がある。三車火宅(譬喩品)など素直にうなずけるものと髻中明珠(安楽行品)などそうでないこじつけに感じるものがある。全体に流れる金持ち階級の話の匂いは法華経作成年代が富裕層の勃興期以降であることを示しているそうだ。

三車火宅(譬喩品)
ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしなかった。そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊の車と鹿の車と牛車の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出した。その後にさらに立派な大白牛車を与えた。この物語の長者は仏で、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界にいる一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩(三乗)のために説いた方便の教えで、それら人々の機根を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である一乗の教えを与えることを表している。

檀一雄の「火宅の人」では小説家はさしずめ声聞であり、中にいた檀一雄は遊びに夢中で家庭崩壊に気づかず、奥方が説得するも外に出ようとしなかったという物語になる。「火宅の人」は身勝手な男のなかなか自己弁護の聞いた題名ではある。法華七喩の作者は苦笑いをしているのではないか。ドストエフスキーのカラマゾフの兄弟で描くフョードルとは違い、どこか愛すべき人物で救いがある、同じような人物をみても彼我の作者によって描き方が随分異なることの見本か。

聞くところによると親父もある種火宅の人であったらしいし、折に触れてこの種の人を見てきた。日本は伝統的にこの種の男の存在を許してきたがドストエフスキーもロシア版火宅の人フョードルを手厳しく断罪しているようでどこか愛すべき人物としても描いている。

好色でどん欲でどうしようもないフョードルを一見マイナスの人格として描きながら、この男がいなければアリョーシャやゾシマの高潔さが浮かび上がらない。もっと言えばなんの存在感も無いと言うことか。フョードルあってのアリョーシャ、ゾシマといえる。
さらに言えばフョードルは引き立て役などという脇役の存在ではない。人間が生きていくということをあからさまに示すとこういう男になるということか。「カラマーゾフの兄弟」 その2

長者窮子(信解品)も放浪者に優しい物語だと読めるので火宅の人を頭に置いてみると類似性がある。

ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあげく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だと確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるのが嫌で逃げてしまう。長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を任せ、実の子であることを明かした。この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表している。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈迦仏に伝える形をとっている。

 三草二木(薬草喩品)は菩薩を三種に分けている点に注目すべきだがそれはさておき、小草も救うのでやはりろくでなしにも優しい。

大地に生える草木は大雲が起こり雨が降り注がれると平等に潤う。この説話の大雲とは仏で、雨とは教え、小草とは人間や天上の神々、中草とは声聞・縁覚の二乗、上草とは二乗の教えを通過した菩薩、小樹とは大乗の教えを理解した菩薩、大樹とは大乗の教えの奥義を理解した菩薩であり、それら衆生は各自の機根に応じて聞くが、仏は大慈悲をもって一乗の教えを衆生に与え潤したことを例えた。

化城宝処(化城喩品)はどこか指輪物語を思わせるが宝処から来る単なる連想である。人間、ホビット、エルフ、ドワーフ、オーク、トロルなどが住む架空の世界である「中つ国(Middle-earth)」を舞台とし、主人公のホビット族であるフロドを含む9人の旅の仲間が、冒険と闇の勢力との戦いを繰り広げる。諸悪の根源・冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「一つの指輪」を破壊するための冒険と友情が描かれる。

宝のある場所に向かって遥かな遠路を旅する多くの人々がいた。しかし皆が疲れて止まった。そこの中に一人の導師がおり方便力をもって幻の城を化現させ、そこで人々を休息させ疲れを癒した。導師はこれは仮の城であることを教えて、ついに人々を真の宝処に導いた。この物語の導師は仏で、旅をする人々は一切衆生、道のりは仏道修行の厳しさや困難、化城は二乗の悟り、宝処は一乗の悟りであり、仏の化導によって二乗がその悟りに満足せずに仏道修行を続けて、一乗の境界に至らしめることを説いている。

衣裏繋珠(五百弟子受記品)は筋とは関係ないがカラマゾフ兄弟のミーシャが襟に金を大事に隠していたことを思い出した、もとより関係ないといえばないのだが。
ある男が金持ちの親友の家で酒に酔い眠ってしまった。親友は遠方の急な知らせから外出することになり、眠っている男を起こそうとしたが起きなかった。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけた。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り、少しの収入で満足していた。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができた。この物語の金持ちである親友とは仏で、貧乏な男は声聞であり、二乗の教えで悟ったと満足している声聞が、再び仏に見え、宝珠である真実一乗の教えをはじめて知ったことを表している。


髻中明珠(安楽行品)なぜ髻の中にある宝珠だけは、みだりに与えると諸人が驚き怪しむのかが今ひとつスッキりとわからない。それは置いておいて。
転輪聖王は、兵士に対してその手柄に従って財宝などを与えていた。しかし髻の中にある宝珠だけは、みだりに与えると諸人が驚き怪しむので人に授与しなかった。転輪聖王とは仏で、兵士たちは弟子、種々の手柄により与えられた宝とは爾前経、髻中の明珠とは法華経であることを表している。


良医病子(如来寿量品)

父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すところが今ひとつ分からないが。

ある所に良医がおり、彼には百人余りの子供がいた。ある時、良医の留守中に子供たちが毒薬を飲んで苦しんでいた。そこへ帰った良医は薬を調合して子供たちに与えたが、半数の子供たちは父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしなかった。そこで良医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができた。良医は仏で、病で苦しむ子供たちを衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で涅槃したことを表している。

空と救済あるいは憐憫 ランバート・シュミットハウゼンの論文から

「ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論」高橋昌一郎 再読メモ

 フェルマーの最終定理と谷山豊それにガロア

「近世数学史談」 高木貞治著 読書メモ

お盆の空想 正、負、虚数


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