インド古代数学ではゼロ分のゼロはゼロだという。現代数学ではゼロ分のゼロは定義できないとされている。植木雅俊氏の「思想としての法華経」で知った。
これは実に竜樹の中観思想の空の概念ではないかと。
中観思想の空とは全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということだが、中観思想の空そのものは残る。つまり空はすべてを縁起によって生み出す存在だ。
そして空はインドではゼロなのだ。ゼロは縁起によって1から無限大委までの世界を成立させる。空はいかなる数で割っても空なのだ。
縁起はサンスクリットでは pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、で他との関係が縁となって生起するということだが大事なことは、縁を生起する出発点は空なのだ。
全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるが出発点の空は不変不滅のダルマとして在る。
これだけでは判じ物のようだがショーペンハウアーの「意思と表象の世界」の考えを補助線とすると「意思」はあらゆる「表象」つまり世界を生み出すものであり、空と同じことを述べていると考えると俄然みえてくる世界がある。
つまりインド風のゼロは中観思想の空であり、ショーペンハウアーの「意思と表象の世界」の「意思」なのだ。
ゼロをショーペンハウアーの意思と表象の世界の「意思」と考えてみると、「意思」はあらゆる「表象」つまり世界を生み出すものであり、「意思」は不変の存在であり、「意思」を「意思」で割っても「意思」である。
つまりインド古代数学でいうところのゼロ分のゼロはゼロとなる。
以上は他人に説得性を持つかどうかは不明だが、わたしには面白いと思えた。
追記
現在アラビア数字と呼ばれているが実はインド数字と呼ぶのが正しく、現にアラビア圏ではインド数字と呼ばれているとあった。