今から150年ほど前アルゼンチンは大いに繁栄しており、ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれていた。アルゼンチンタンゴは、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスではじまった。移民が故郷を思う切なさと哀愁がバンドネオン演奏とともに表現される。
ラ・クンパルシータ 、リベルタンゴ、アディオス・ノニーノ、ブエノスアイレスの冬、ポル・ウナ・カベーサ、シュニトケ『タンゴ』、パジャドーラ、エル・チョクロ・・・曲が続きタンゴの世界に吸い込まれる。
最後のとりで踊る男性は圧巻でプロフェッショナルな技と気迫を堪能し、地球の裏側まで見にきた甲斐があったと思わせるものがあった。毎日のショーでマンネリ化しているのも中にはいたが舞踏家の志の高低が表現にでる。
圧巻の男性舞踏家の踊りは一言でいうと異界に飛んでいる。この世からぶっ飛んだ世界に行ってしまっている。踊りで神の世界と交信している。バリのケチャダンスでもそのような踊りを見せる人がいるが、とても近いものを感じた。
「安らぎと屈辱と恐怖を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれの夢を見ているのだと悟った」舞台からボルヘスが語りかける。 ブエノスアイレスは非現実が身近に感じられる街だ。特にタンゴを見ているとそう思う。
これらはアルゼンチンタンゴの中でも「ステージタンゴ」とわれるショーダンスで一般的に踊られているアルゼンチンタンゴ「サロンタンゴ」とは異なるものだ。
男女が抱き合って踊るスタイルはアブラッソ(スペイン語で“抱擁”)と呼ばれる。
当時ブエノスアイレスの移民は男性が女性に比して多かったため、酒場で男同士で踊ったといわれる。娼婦を相手に踊ることで男女で踊るタンゴへと変化するがならず者が踊る下品な踊りと非難されたたたという。
バンドネオンが移民によって持ち込まれタンゴのテンポが遅くなった。1840年にドイツで発明されたバンドネオンは、早い演奏が出来なかった。