まさおレポート

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紀野一義 非常に輝かしい光との出会い

2022-08-09 | 紀野一義 仏教研究含む

永遠なるものに生かされた

日蓮上人は命を龍ノ口で落としたと思い定めた。開目抄で頚はねられぬと過去形で書かれた。本来であれば死んでいると思い定めています。

 

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。 開目抄

 

紀野一義は3度死にかけた。信管を抜くのがほんの一瞬遅ければ爆死で、指に刺さったことや機銃で攻撃を受けたことで俺はあのとき死んだんだという気持ちと、絶対に死なないという思いが降りてきた。日蓮上人も同じ気持ちだったのではと思いますね。あれだけ腹の座ったお方は凄いですねと氏は感嘆する。

 

日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱を倒す 種種御振舞御書

 

日蓮上人は永遠なるもの、神々の世界、たしかに自分を動かしている永遠の力というのを感じていた。日蓮上人は自然に唱え始めた。ほとけに唱えさせられた。身は牛や羊のようなものと言い親鸞の歎異抄にも同じ表現がある。永遠なるものから唱題や念仏が生まれてくる。

 

四十余年・未顕真実等の経文はあらませしか 開目抄

 

広島の法華宗の寺に生まれた紀野一義は、「立正安国論」は日蓮上人が書いたというより、法華経の行者として書かされている。神々がそういうところに追いやるために書かした。書いたら窮地に追い込まれるのが解っていても書いたと述べる。

 

されば日本国の持経者は・いまだ此の経文にはあ(値)わせ給はず唯日蓮一人こそよ(読)みはべれ・我不愛身命但惜無上道、是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり 南条兵衛七郎殿御書

 

そういう自覚があったから日蓮上人が龍ノ口で首を刎ねられんとしたときには八幡を𠮟りつけるときなど冷静だった、そして怪異が起きる。

 

江のしまのかたより月のごとく光たる物、まりのようにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。 種種御振舞御書

業と法華経

日蓮上人はたびたび自身の先業と法華経の行者について述べ、佐渡御書で前世の報いで佐渡に流されると書く。

 

日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず。 佐渡御書

 

矛盾したものが同居し相克するなかでエネルギーが出てくる。矛盾の内包は祖師たちに普通のことであり、天賦のものであり、業を感じる。業は悪いだけのものではない、エネルギーの源泉となると氏はいう。

 

問うて云く華厳宗・法相宗・三論宗・小乗の三宗・真言宗・天台宗の祈をなさんにいづれかしるしあるべきや、答て云く仏説なればいづれも一往は祈となるべし、但法華経をもつていのらむ祈は必ず祈となるべし 祈禱抄

 

西山殿ご返事に「法華経は一切経に優れたり 日蓮は悪くても悪かるべし」

四条金吾

江ノ電長谷寺をおりて・・・道の突き当りが光則寺である。どこから眺めても美しい寺である。 ・・・人は優れた人格に帰投すると・・・その美しさは極度の輝きをもつ 紀野一義「日蓮 配流の道」

氏の言われる美しい寺に行ってみた。観光地にしては訪れる人はわたししかいなかった。それでゆっくりと見て回ることができた。氏の著作によると日蓮上人はこの山を伝って難を逃れたという。

 

光則寺を訪れると立正安国論真筆を石に彫り付けてある。

さらには立正安国論執筆の由来を示す日蓮上人みずからのべた文書の石碑が眼に入る。

男の中の男よと鎌倉中の人に謳われた鎌倉武士で剛直の士、日蓮上人にこよなく愛された四条金吾頼基の邸宅跡が寺になっている。

 

紀野一義は四条金吾は男っぷりがいいし、弟子になってからの態度がすばらしいと。日蓮上人も四条金吾のことを霊山浄土で釈尊に真っ先に報告するとまで言っている。

 

鎌倉仏教の祖師たち、道元、親鸞、日蓮を矛盾を包含していると述べる。この世界以外に求めるべき寂光土はないと言いながら、一方では霊山浄土で相まみえようとお手紙に認めるなど日蓮上人は魅力的な矛盾を平気で抱えているという。日蓮上人は「娑婆即浄土」といい、一方では四条金吾に「霊山浄土でお待ちしよう」と。親鸞上人も道元禅師も矛盾した言葉のなかに真理を説いている。鎌倉の祖師たちはそんなことを気にもしなかった。むしろ矛盾を丸のみする心が必要であり、それでなければ信心決定とはいえないと氏は述べる。

 

四条金吾にあてた手紙から次のようなエピソードを話す。

 

四条金吾が閉門中に主君の江間の四郎が病気になったとき金吾を呼びにきた。金吾は身延に馬を飛ばして助言を願った。日蓮上人は懇切丁寧な手紙を送って「仕方がないと言います風にして主君のところに行きなさい。髪を濡らして閉門しているようにしていきなさい。それでも敵に狙われるぞ気をつけなさい」と。

四条金吾が主君の江間の四郎に薬を出して治り金吾の勘気が解け金吾が越後へ転地を命ぜられた。「おまえは越後へいってはならん、殿様よりも大事なものは日蓮上人と父母だと主君にいえ」と。こうして転地を免れた。

 

あるときは主君への陳情を日蓮上人が代筆した。なるべく大勢の人が知るように騒ぎ立ててだせと。騒ぎが大きくなればなるほど身が安全になり許さざるを得なくなる。そして夜はどんなことがあっても外にでてはならん。腹巻鉢巻をして信頼のおける家で鉢巻を外してから行きなさい、酒を勧められてもなんとか言って吞まないようにしなさい、夜遅くなって出仕するときは言を左右にして時間を変えろと事細かに注意を与える。

 

四条金吾の弟たちには小遣いに不自由のないようにしなさい。弟たちは四条金吾が殺されるときは一緒に殺される人間だから情けをかけておくようにしなさい。女たちが間違いごとをおかしても咎めてはならぬ。咎め立てすると油断が生じるなどと自分の弟子に対して至れり尽くせりの注意を与えて気を配っている。四条金吾は翌年に闇討ちに会ったがそのときに暗いところに行くときは下人に探らせてから行ったので暗殺から逃れることができた。

 

後に四条金吾が身延の日蓮上人にお会いしにやって来た。四条金吾が身延から帰るとき日蓮上人は四条金吾が無事に帰れるか心配で鎌倉方面からやってくる人に消息を尋ねている。日蓮上人が61歳でお亡くなりになるとき金吾は52歳、出家し67歳で亡くなっている。

常不軽菩薩と日蓮上人

すべての人に仏性があるとし人間を最大限に尊重する常不軽菩薩に最も注目していたのは、日蓮上人だと氏は述べる。

一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり 崇峻天皇御書

 

過去の不軽菩薩は、一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし。 昭和定本日蓮聖人遺文

道元禅師を語る

法華経を知るために道元禅師を探求

法華経の肯定、肯定、絶対肯定のもとに道元禅師、親鸞上人、日蓮上人を全肯定する。これが氏の鎌倉祖師たちへの思いです。

 

日本の仏教界も鎌倉までは水平的な僧しかいなかったが鎌倉に入って垂直的な祖師である道元禅師、日蓮上人、親鸞上人を輩出した。道元禅師は1200年に生まれた。法然が選択本願念仏集を1年前に著し念仏だけせよと唱えて流罪になり、親鸞も流罪になる。親鸞は法然が死んだので関東を放浪する。そんな時代に道元禅師は生きた。

 

道元禅師は1227年に宋から帰る。1237年は干ばつで淀川の川の水が無くなり不穏な時代で乱世に偉大な宗教者がでる。

 

1251年に日蓮上人は鎌倉に出てきたとき、まるでバトンタッチするかのように道元禅師は死ぬ。そして立正安国論を著し流罪死罪で死にかける。こうした困難は”渡す人”である宗教家の大きな条件で、こうした宗教家たちは深い悲しみを同時にもっている。鎌倉の祖師たちの出現にはほとけの意思が働いていた、出現させずにはおかないという力が働いていたと氏は述べます。

 

使命感をもっている日蓮上人、親鸞上人、道元禅師、宮沢賢治、みんな現れるべくして現れてきた人でそういう特別な人ってのは確かにいる。親鸞上人の念仏が好きな人は日蓮上人、道元禅師のことを知ろうとしない。日蓮上人の題目が好きな人は親鸞上人、道元禅師のことを知ろうとしない、お互いにもっと知り合うことが法華経を知るために大事だと氏はいう。

 

紀野一義は30代に道元禅師、日蓮上人、親鸞上人を基礎にして自らの仏教観を深めていこうと決意している。つまり発心している。その後の50余年は発心を実践していく生涯だった。道元を探求することは法華経を深めることであるとし、法華経の深化のために道元禅師を探求して行く。

道元の思想の深化の過程を追うことは、ひとり道元の思想を究めるのに役立つだけでなく、法華経そのものを理解する上にも有効な手段であると思われると氏は述べています。

 

道元の思想を明らかにするためには、法華経の思想を知るということが大切である。しかし、道元は法華経の思想をそのまま取り入れたのではない。法華経の原文を鳩摩羅什が簡潔な、格調ある文章で訳出した羅什訳妙法蓮華経の中の、特定の個所を選び出し、それに思想的な深みを加えて行つたのである。紀野一義論文 法華経と道元



ある事業者の会に呼ばれて仏教の話をしたときに質問を受けたと言います。「正法眼蔵がよくわからない」「どんな読み方をされていますか」「岩波の本を読んでいます」そこで「正法眼蔵は声を出して読まないとわからない」と言った。法華経もそうだが声を出して読まないとわからないところがあると読み方を指導までする。

 

道元禅師が法華経のなかにでてくる特別な問題つまりさとりに関して魂を撃つようにコメントしたのが正法眼蔵だと言います。法華経は論理的に説明したからわかると言うものではない、道元禅師は短い文章でコメントを書いていき、それがまとまったのが正法眼蔵だと。

正法眼蔵 相対立する世界

ミスティックなものを全部合理的に解釈するのでは道元の持っているものは、ほとんど消えていき、味わいがなくなる。氏は法華経の特定の個所に思想的な深みを加えて行つた正法眼蔵を読むにあたってまず覚えておかなくてはいけないことがあると言います。

 

正法眼蔵は全く相対立する二つのものが、それぞれに相手とは異なったものでありつつ、同時に相手とひとつである、あるいは、相手の立場に入れ替り得るものであることを様々な個所で示している。道元禅師はこのように相対立する世界が重なったところに実相を見る立場で一貫していると言います。

 

唯仏与仏は諸法実相なり。諸法実相は唯仏与仏なり。唯仏は実相なり、与仏は諸法なり。 正法眼蔵

 

氏は正法眼蔵を丸のみしてはいけない、どうしようもない部分もあるともいう。道元禅師は性欲に嫌悪感を持っている。絶世の美女であった母が強姦されるようにして道元禅師をはらみ、その後別の男のお妾さんとして道元禅師を産んだ。だから女が男が性欲でどんなに汚いことをするかを知りようがないので道元禅師はそこを飛ばし、性欲について知らないのだからかけない。

汝らは経験豊富だからそこは任せる、俺は経験していないからといえば立派なんだがただ飛ばしていると氏は言う、こうした見方が氏の真骨頂です。

心迷と心悟

道元の思想的立場の根底となったものは法華経でありそれを明らかにするためには「「正法眼蔵法華転法華」巻を読まなければならないと氏は論文「法華経と道元 紀野一義」で述べています。

いはゆる法華転といふは心迷なり、心迷はすなはち法華転なり。しかあればすなはち、心迷は法華に転ぜらるるなり。その宗趣は、心迷たとひ万象なりとも、如是相は法華に転ぜらるるなり。 正法眼蔵

氏はこれを迷ってもほとけ、悟ってもほとけのなかと説明している。

 

法華転法華の法華は大宇宙とおなじことで転じるというのは味わい深い言葉で非常によい意味で使われていると言います。さとると自分が大宇宙を転じる、迷えば自分が中心になっていくことはできないので大宇宙、法華に転ぜられる。

迷いは悪いように聞こえるけど、転ぜられ受け身になるときの意でたまたま迷いという字を使っただけ。だから迷おうと悟ろうとどっちでもよい、いずれにしてもほとけのなかだと氏は言います。

「心迷」と「心悟」とは全く相対立する世界でしかも法華においてひとつの世界であることを六租は見出し道元がそれを継承した。

 

今日の果報は昔菩薩道を行じた結果である。心迷、心悟いずれであれそれは本行菩薩道の結果である。それ故「心迷をうらむることなかれ」と言います。この本行菩薩道の考え方は法華経思想のひとつの柱である。 紀野一義論文 法華経と道元

 

吉田松陰は幕府に捕まり「たちませい」と言われた時になんともいえない喜びに捉えられた。法華転法華の世界でそういう状態にはいりたいものだ、こうした状態には自分の力だけで入ろうとしても無理で、ほとけや観音の後押しがなければ入れないと言います。

「こころ」はよくできた小説で広大無辺の世界に転ぜられていく話です。こころの不思議で漱石は迷いっぱなしで小説を書く。漱石は座禅も途中で放り出している、小説の筋も途中で放り出されている、それが彼の力量であった。

小説家が筋をうまく整えてハッピーエンドで終わらせるのも法華転であり、わからないので途中で放り出すのも法華転だ。

「こころ」は寺の息子に設定しているが農家の息子だっていい、漱石は禅の修行をして放り出されているから仏教にうらみがあったのかもしれないと冗談っぽくのべて、これも心迷法華転ですねと話を終えます。

則能信解

智あるは若し聞いては則ち能く信解し智なきは疑悔して則ち永く失うべし 紀野一義 「法華経」を読む

仏法は人の知るべきにあらず、ほとけがしるものだ、凡夫はさとれないという道元禅師の言葉「正法眼蔵光明の巻」は驚愕の一節です。

イメージで法華経を理解しなさいと云いながら一方では唯仏与仏と言います。一体われわれ凡夫はどうすればよいのかとの疑問が頭に浮かぶ。それに対する答えは則能信解だと氏は言います。氏の話にしばしば登場する則能信解とは一体何だろう。

 

学のない樵が名だたる学僧を差し置いて印可を得ることになり、高名な六祖になったというお話が正法眼蔵 恁麼の巻にある。お経を学問として学ぶのと信心は別だ、納得がいったら信心するというひとは一生信心しないと氏は言います。

 

しかしこの説明ではなかなか現代の人に納得してもらうことは困難であると氏も思ったのだろう、恁麼の巻は何回読んでも難しいですねと繰り返し話している。

則能信解するためには師に対する深い信頼がなければならない、師を信じて身を投げ出すようにしてはじめて則能信解が成立する。氏がたびたび繰り返す「師のない仏法はない」とはこのことだろう。

唯仏与仏

仏法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑにむかしより、凡夫として仏法を悟るなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究盡といふ。正法眼蔵 唯仏与仏

氏は六祖という文字の読めない男のさとりを述べる。これもまた全く相対立する二つのものが、それぞれに相手とは異なったものでありつつ、同時に相手とひとつである、あるいは、相手の立場に入れ替り得るものであることを様々な個所で示している例になる。

 

六祖は字を一生かけなかった。だれにも教わらなかった無学の自然児だが結局さとった。

六祖は木こりで薪を買おうという宿屋に行き、その場で金剛般若経を聞く。六祖はそれを聞いて動けなくなり金剛般若経を学びたいと思うが一方で老いた母の世話をしておいてはいけないと悩む。

居合わせた人がその話を聞いて「おまえこの金を母にわたして行け」お金を母にわたして行く。はたして金を受け取った母はそれで生き延びたか、おそらくむりだ、いくら金を渡しても年取った親を捨てたことには違いない。六祖は十字架を背負ったことになる。

六祖はどこへ行くにも、さとった後も石臼を背負い続けた。六祖も風に吹かれて呼ばれて六祖になったと氏は語ります。

 

開示悟入

 

竺法護の訳した経典の訳はさっぱりわからないが羅什が訳すると全部わかる。羅什訳を道元が読んで目が明いていく。道元禅師は羅什によって統一されたこの開示悟入の四句に基づいて、さらに見解を展開する。

 

道元禅師は開示悟入のそれぞれに深い意味を讃み取つていた。「開示悟入」は法華経「方便品」にこう記されている。

 

諸仏世尊は、唯一大事因縁を以ての故に世に出現したまふ。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したまふと名つくるや。

 

諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したまふ。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に世に出現したまふ。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に世に出現したまふ。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に世に出現したまふ。

 

舎利弗、是を、諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したまふと名つく。これを「開示悟入」という。「開示悟入」の四句は實は羅什によって整理されたものである。

 

道元禅師の言います「発心・修行・菩提・涅槃」は法華経の「開・示・悟・入」に相部する。

 

道元禅師は「発心」について「ただ正信の機のみよくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし おほよそ心に正信おこらば、修行し参學すべし。しかあらずばしばらくやむべし。

 

この「おほよそ心に正信おこらば」が、道元の考えた「発心」である。この正信の起らぬ以前が「まなこいまだひらけず」すなわち「不開」なのである。

 

眼いまだ開けざる者にどうして正信が起こるのか。それは、仏の促しがあるからである。しかし、その仏の促しは、人間の心識の及ぶべきところではない。それゆえ、道元は「おほよそ諸仏の境界は不可思発なり、心識のおよぶべきにあらず」と言います。

 

不可思議な諸仏の境界が人々を促して発心せしめるのであり、発心せしめられた者が修行するのである。道元は、菩提を現じた者はふたたび生死流転の世界に帰り來るべきであると考えた。法華経に「仏知見の道に入らしめる」とあるのはそのことであると理解したのである。法華経自身にはそうであることを示す文章はないが、道元はそうでなくてはならぬと考え、その方向を示したのである。これは法華経に封する道元のひとつの姿勢なのであるが、このことは、般若心経に「空即是色」と立ち露る方向を示す方向に合致している。

渡す人道元禅師

北条時頼に請われて鎌倉に半年いてその後永平寺に戻ってきた。この時に山の詩を詠んでいます。弟子をおいてきたが北条時頼が莫大な寄進をした。それを持ち帰ったら道元に放逐された。座っていた板をはがしてその下の土までさらわれるという峻烈な放逐の仕方だった。

峻烈な道元禅師が正法眼蔵「発菩提心の巻」を引いて人を渡すことの意味を述べています。

 

道元禅師は人が発心する、菩提心を発すということはまず人を助けたい、まず人を幸せにしたいと願うことだという。そういう心をおこしたことによって大きな功徳が得られたらそれをさらに他人の幸せを願う方に人を渡す方に向けてゆく。回向というのは方向をそちらに向けることになり、大地は黄金になり、大海は甘露となる。

時間的経過は誰も止めることは出来ない。紅顔はどこへ行ったのか。今のあなたは捕まえられない。さまよっているにすぎないのではないか。そんなたよりない人間でも発心することがある。この心がおきるとそれまで持て余していたことを放り出してまだ悟っていないことをさとりたいと思う。これは誰かにさせられる、もうそのとき凡愚からさとりにいたっていると氏は語る。

親鸞上人を語る

好きかきらい

「私は西行法師という坊様が非常に好きです。もちろん私は親鸞上人も好きですし道元禅師も好きです」氏は好きかきらいが信仰の出発点になっていることを言ってはばからない。

 

親鸞上人は公家の息子だが百姓の面構えをしていると言います。日蓮上人の場合は悲しきに涙嬉しきにも涙、涙をこぼしっぱなしであった。反対に涙をこぼさなかったのは親鸞上人だが、だからと言って親鸞上人に情がなかったわけではない。

 

紀野一義の魅力を一口でいうなら矛盾を矛盾のまま包含する柔らかな宗教心だろう。同時期を同じ学徒動員され生き抜いた司馬遼太郎と近しい宗教観を感じる。両者はいずれも仏教徒だがいずれの宗派にも属さない。



罪深い者

自分がにせものであり、罪深い者であることを痛切にかんじるはず。この「痛みの自覚」のない人はついに持ちえない「ええなあ!という人生」

 

わたし自身にもいろんな鬼がくっついているらしいから、自分でも困るが、困りながら、やっぱりちゃんとしたいなと思う、それが人間として大切なところだと思うのである。 ある禅者の夜話

 

親鸞上人は自らを凡愚といっている。凡愚なひとほど立派な人が来てくれる。凡愚であって素晴らしい人をつかまえなければいけないと言います。

 

親鸞上人も吉野秀雄も手弱女ぶりの勇気を持っている。そういう人はどこかに念仏を唱えても淋しいという気持ちを持っている、そういう人にこそ歎異抄が必要だ。

朝比奈師も禅だけではどうしようもない時に念仏を唱えられた。禅は重要な修行ではあるがそれだけではダメなときもあると氏はいいます。

親鸞上人は愛欲を恥じている

親鸞上人は自らの言行に矛盾するような言葉を残している。「私が目を瞑った後は私の死骸を鴨川に投げ入れてくれ」とまでいう。

氏は親鸞上人はそんなにキレイな人じゃないという。つまり人間というものはそんなにキレイじゃない、汚いもっとどす黒いものだ、それだからこそ親鸞上人はすばらしいと氏は述べています。

 

親鸞上人は比叡山六角堂で修業中に95日目に枕元に観音が聖徳太子となって現れた。

聖徳太子は「行者が、これまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私(観音)が玉女の身となって肉体の交わりを受けよう。一生の間、能く荘厳して、その死に際しては導いて極楽に生ぜさせよう」

奥さんになるひとは観音様の化身であるとの夢です。

 

親鸞上人は流罪で直江津に行く。この直江津の海の色が凄いと氏は言います。その目で親鸞と同じ海の色をみている。親鸞上人を山の思想家と呼ぶが越後の海岸を見て海から大きな影響を受けているとも。海を見ていなかったら愛欲の広海はでてこない。その地で恵信尼と出会い、子をもうけている。名を藤井善信にされ愚禿と称している。

 

親鸞上人は自らの愛欲を恥じていることを聞き逃してはならない。念仏だけで救われると説いた親鸞上人が何故膨大な教行信証を書いたのかに思いを致さねばならないと氏はいう。誰だって人には言えないことをしている。そういう人が歎異抄を読むと尾てい骨に応えると氏は語る。

 

弥陀のはからい




法然が選択本願念仏集を1年前に著し念仏だけせよと唱えて流罪になり、親鸞上人も流罪になる。親鸞上人は法然が死んだので関東を放浪する。親鸞は熱が下がらないときに夢の中で浄土三部経の文字がきらきら光って出てくる体験をする。 

 

親鸞上人が法然上人に出会うというのは説明がつかない。説明のつかないことを弥陀のはからいと言われた。

潔さとパスカル

理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増すパンセ233節

 

パスカルの賭けと呼ばれるこの言明は確率論の新たな領域を描き出したとして有名だ。確率論でしか表現できないと言われる量子力学の基礎を与えた人の一人ということは可能だろう。

このパスカルパンセの一節からはその証明が正しいかどうかよりも「なるほどね、損得の確率で神の存在を証明するとはすごい証明方法だな」と感心してしまう。と同時に神の存在に対してどこか強迫観念のような雰囲気をも感じてしまう。ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」のイワンの悩みをどこかで感じてしまうのだ。

 

デカルトも「方法序説」で神の存在証明を試みており、この近代科学の元祖とも呼べる両巨頭が共に神の存在証明に関わっていることから近代科学への道を押し開いたという点で感銘を覚えるが、一方痛ましいほどに当時の彼らが神の存在証明で格闘していたことも感じられる。

翻って仏教ではこのように「仏」の存在証明で格闘した人はしらないが、ひょっとして当時のインドの無名の哲学者のゼロの発明や空論が哲学的な仏の存在証明と言えるのかもしれないと思い始めている。

 

パスカルも神を信じたほうが確率的によいと述べたが親鸞も歎異抄で地獄は一定すみかぞかし。法然を信じて浄土にいく確率があれば、どのみち地獄へ行くよりもよいと述べている。類似点が興味深い。

 

念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。

そのゆゑは、自余の行はげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてまつりといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身となれば、とても地獄は一定すみかぞかし。歎異抄 第二条

 

①「自余の行はげみて仏になるべかりける身が」の自余の行とは自行化他の行で法華経の修行を指す。仮に親鸞がこの法華経の修行を志しても「いづれの行もおよびがたき身となれば」として、到底かなわぬと見て地獄に行く。

 

②「念仏を申して」日蓮の四箇格言に唱えるように地獄におちる。

 

③「とても地獄は一定すみかぞかし。」①でも②でもどっちにしても地獄に行く。

 

④ならば「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」と腹を決める。この①から④まではなんとパスカルパンセの233節「得るときは全てを得、失うときは何も失わない」と似ていることか。しかし大事な点で異なる。

 

歎異抄では「得るときは浄土に生まる、失うときはどっちにしても地獄だ」となる。つまりパスカルの「何も失わない」と、歎異抄のどっちにしても地獄行となる、この違いは興味深い。パスカルの確率論の背後にあるものは近代合理主義ともいうべきもので、一方歎異抄はその後の武士道にも通じる覚悟を情緒として述べている。

 

ここで紀野一義の言葉に耳を傾けてみます。親鸞上人は法然にあうまでは地獄を覚悟していた。法然によって浄土に賭けることにした。1かゼロであり、この潔さが大事だと言います。氏はパスカルの賭けは好きではない、どっちにころんでもゼロではないなどは賭けではない、人生に一度は賭けがあるという親鸞上人の潔さに共感している。

 

師を一点つまり一人定めることは人生の賭けだとも。そして賭けである以上、師を選ぶのに失敗したら地獄に落ちる覚悟も必要であるとも言います。これがパスカルの賭けと違う点だと。

 

だからこそよくよく師を時間をかけて見極めなければならないとも。師を時間をかけて見極めることが大事であると同時に師の見極めかたを具体例として挙げている。師匠を変えるというのはあり得る。親鸞も法華堂で20年間修業した後法然に出会い師を変えている。親鸞が法然を師と定めるために29歳までかかった。

不思議を語る

不思議な奇跡

紀野一義は「私の周囲にも、怪異はいくらも起きている。口を噤んで語らないだけのことである。」という。氏はさまざまな著書や講演で話の挿話のように怪異を語ることがある。それを集めてみるとなかなか信じがたいような不思議な世界が広がってくる。

 

大菩薩峠には特別な土地の波動がありますね。中里介山はああいうところにいてああいう小説をかいたんだなと。 紀野一義講演より

 

氏は下記のような驚くべき解釈ができる人です。通常、仏教学者や僧はシャーリー・マクレーンのアカシック・レコードをおそらく避けるだろうと思う。しかし氏はそんなことは頓着していない。思うところをそのまま話している、それがいいのです。

 

空海が土佐海岸洞窟で体験した、明星の如くなる大宝珠が入ってくるという体験を日蓮上人も重ねていると言います。

 

生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき。日本第一の智者となし給えと申せし事を不便とや思し食しけん。明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣、粗是を知りぬ 清澄寺大衆中

 

こうした逸話をこれまでのように伝説と片付けてはならない、大いなる真実だと氏は語ります。アーカシャという眼に見えない空間におどろくべき世界があることを法華経の作者は知っていた。シャーリー・マクレーンのアカシック・レコードがどうかかわってくるのかは今後に待たねばならないが日蓮上人も「虚空」の中からなにかを読み取ることができたのであろうと記します。

 

キリスト教の世界では奇跡は認定される。しかし仏教の世界では認定などは聞いたことがない。氏は不思議な奇跡をそのまま受け入れることを日蓮上人理解の必須要件だとします。

 

UFOが地球に平和をもたらすと考えているひともいるし、氏もそう考えていると述べる。よびかけをそのようにとらえることができる。「未知との遭遇」を観て、宇宙人が地球を救済するという話は興味深いと述べています。

 

海外の話で150キロ離れたところで盗難にあった時計があった話を紹介している。時計はその人がもっとも長い間身に着けているものでそういうものは何かしら呼ぶ力を持つんですねと言います。

 

氏のビデオカメラを京都に行ったときに失くした際も、いくら小田急線や新幹線に連絡して探しても見つからなかったが、東京駅でふとひらめいたので連絡したらあったと言います。

 

わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。

 

梅原猛との対談でもミスティックなものが生命だと述べている。

 

梅原 この前、日本哲学会で田辺元、和辻哲郎の仏教理解について道元を中心に研究発表したときにも、そのことにふれましたが、和辻さん田辺さんにはそれがないんですよ。二人ともミスティックなものを全部合理的に解釈するのです。それでは道元の持っているものは、ほとんど消えていくのですよ。

 

紀野 それはたしかに味わいがなくなっちゃいますよ。味わいがなくなるだけならいい。けれども、生命がなくなったんじゃ意味がないから。 日蓮の思想と行動紀野一義/梅原猛

 

さらに災難に誘い込む鬼にまで言及する。

 

悪鬼ばかりいる世界には、悪いことばかり起きるのである。わたしの逢った交通事故についていうと、わたしがぶつかった所は、深大寺の表参道へ出てくるところなのであるが、そこは、過去何回となく同じ事故が起こっている。同じことが起こるということは、人を同じ災難に誘い込む鬼がいるのではないだろうか。ただ人間の不注意というだけでなしに、もっと何か不可抗力のようなものが動いているのである。恐ろしいことである。 ある禅者の夜話

 

戦争中の怪異を次のように語ります。

 

この病兵はかつて中国戦線にあった時、討伐に出た連隊の兵全員が深夜に帰隊した時の、身の毛もよ立つような話を語り続けた。

血と泥にまみれて帰隊したその深夜、広場でボロボロの軍旗に捧げ銃の礼をした瞬間に軍旗は突如燃え落ち、整列した兵全員が、形容しがたい呻き声をあげて一斉に大地にメラメラと吸い込まれてしまった怪異を語り、僧侶である師に彼らの供養を依頼して死んだという。 名僧列伝(二)

 

山本五十六はブーゲルヴィル島ブイン上空で、アメリカのP38戦闘機16機に襲撃されて亡くなる。このP38戦闘機には氏も何度も襲われた。このP38戦闘機について次のような怪異を紹介している。

ドイツ軍にP38戦闘機12機が爆撃された。3機が撃墜を免れて米軍基地まで戻ってきた。基地の将校はその報告を受けた。ところが別の連絡官がやってきて「残念な報告があります。P38戦闘機12機がすべて爆撃されました」と報告した。

 

「馬鹿なことをいうな、今3機が撃墜を免れて基地まで戻ってきた報告を聞いたばかりだ。」「お言葉ですが中将、現地からの報告で全機撃墜されたと」つまり3機は幽霊になって帰ってきたという話を紹介します。

 

日本の仏教界あるいは世間全般にその種の話はタブーとまではいかないが低級な話、きわものとして躊躇させる空気がある。しかし氏はリアルを伝えたいのだろう。そういったことも躊躇せず次のように語ってくれます。

 

親友が亡くなったあとに津山の姉の嫁ぎ先でその友の霊が出た。それも丑三つの二時に。二十二歳の氏は友の霊に成仏してくれとさけぶ。凍りつくような冷気が襲い、胸を押さえつけられる気がして跳ね除け、起き上がると紀野と呼びかける友人の声が聞こえた。氏は妄想かもしれないと慎重に述べている。そして語らないだけでいくらでもその種の経験をしていると記します。

 

「手のひらを広げて歩くとね、波動がビンビン来るんですよ。大菩薩峠には特別な土地の波動がありますね。中里介山はああいうところにいてああいう小説をかいたんだな」と土地の波動を語ります。

 

京都で知り合いと泊まった。その知り合いは裏の部屋で、氏は表の部屋に泊まった。知り合いの朝顔色が冴えない。氏がどうしましたと聞くと夜中の12時ごろに部屋の障子の向こうでがやがや音がする。

なんだろうと思ったが他人の家を詮索するのもなんだのでそのまま寝てしまった。あくる日の朝その障子をあけると墓場だった。それで知り合いは少しショックを受けたのか顔色が悪い。

氏が知り合いに「背中が痒くなかったですか」と尋ねると「いいえ」「それなら墓の下に眠る人が「よく来てくれました」とあいさつされたんですよ。なにも気持ち悪がることはありませんよとさらりと答える。

氏は「わたしゃ寺の息子ですから墓で人の声が聞えたりは日常茶飯でしたから、なんともないんです」と語ります。

 

インドのチター奏者と結婚した女性から鎌倉に住みたいので家を探していただけませんかと頼まれた。どうぞ借りてください、家賃はいりませんといわれた家には武将の幽霊がでるという。その夫婦は幽霊は平気だという。どうですかと夫婦に尋ねると「出ていらっしゃいます」と平気で答えたと言います。

 

こちら寺の息子ですから大勢の人が死んだところとかね、死ぬ人とかねそういうのだいたいわかるんですけど。でも大勢の人が死んだような感じがしないなぁと思っていると、浅野長政が切腹した場所っていうのが天守閣じゃないんですよ。50mほど降りて左へまた行った家老の家で切腹したんですねと語ります。

 

臨死体験

氏は臨死体験を紹介している。この女性ヘレンはいまから患部の切開を始めると言う医者の声を記憶している。そのあと彼女はベッドの上にいて見下ろしている。切開なんてしてほしくないといったのを覚えているという。

そのあと谷のようなものの中に入っていった。その谷であるひとに出会った。ある人は自ら祖父と名乗った。一度もあっていない人で、後に祖母がそれは祖父に違いないと証言してくれたと言います。

 

祖父はまだヘレンを迎える準備ができていない、だからあなたは帰りなさいといった。音楽が聞こえてきました。教会音楽みたいでした。どんな楽器か、歌はありますかとの質問に「畏敬の念を思わせる音楽でした」と答えている。上から見下ろしてみている臨死体験は日米共通しています。

 

あるとき紀野一義の主催する真如会であるひとが臨死体験を告白された。花園で10年前に死んだお姉さんが待っていてあなたがくるのはまだ早いという。たべものがのどをとおらなくなって死んだというとお姉さんが「馬鹿をいいなさんな」とおかゆを飲ませてくれた。するとおかゆがのどをしゅっと通っていった。おかゆを全部食べさせてくれた。どんと背中を叩かれた瞬間にもとにもどったと言います。

 

看護婦に「のどがかわいた」といったところ吸い飲みで飲ませてくれ、ごくごく飲んだ。ついでに重湯も飲んでしまった。さらにおかゆも食べてしまった。それからめきめき回復して今に至る。こんな話をすると変な顔をされるのでいままで黙ってた。

この驚くべき話を聞いた後に氏の真如会は大変なことになったと言います。

 

死んでしまうと先に死んだ親や兄弟、祖父母にあうケースは非常に多い。そして花園を歩くケースが多い。あわい色のトンネルのようにみえる中をジェットコースターで通り抜ける感覚で螺旋形のトンネルを抜けていく。あらゆる光が見え、トンネルを入って宇宙空間に出ていく体験だと氏は語ります。

 

紀野一義は小学校3年のときに寺の境内の樹木にぶつかって死にそうになったときの体験を語る。

頭のうしろから真っ黒な中を落ちていく、とんでもないところに行くなと思っていると医者にご臨終だといわれて母がわたしの名を呼び始めた。遠くで母らしき声が「かずちゃん、かずちゃん」と呼んでいる、その声に返事すると氏は生き返った。あれは母親の声かほとけの声か定かでない。親が子を呼ぶくらい美しいものはない。トンネルかどうかはわからないが真っ暗な中を落ちていく経験から臨死体験の話はなるほどなと思うと語ります。

 

氏は三浦雄一郎が富士山の山頂から滑空して転落したときの話を紹介しています。両手で岩肌を捕まえようとした。生爪がはがれた。生首がとんだ、松の木に噛みついたのをみた。それをみて生首に負けてはいけないと思い岩肌を捕まえたらようやく止まった。

神主は「油壷に主君を逃し北条勢に首をはねられた三浦荒次郎に違いない」といい、三浦雄一郎の魂が死の世界に飛んでいくというのを表しているといった。

 

臨死体験をすると人はいい意味で変わってしまう。命がけの座禅での思いは臨死体験に近いかもしれない。そういう体験をしないで論理的に考える人とは別のところにいくんではないか、座禅しない人でもこういう経験をしたひとは座禅と同じ気持ちになると氏はいいます。

 

氏は臨死体験に生理学的な洞察も加える。

エンドルフィンは脳の神経細胞の中で作られる一種のホルモンであって体に苦痛が生じる時に急速に増えてくる。そしてモルヒネと同じような強い作用を発揮する。したがって人間は死ぬときは思うほど苦しいものではないということを言います。

人間の体っていうのは我々が想像する以上に不思議な働きを持っています。でこういうものが「いまはのきわ」に出てくると昔の侍が切腹をする時のあの苦痛と恐怖感から侍たちが救われると語ります。

 

よく死んでしまった顔が非常に穏やかで満足しきったような顔をしている。あの人間の穏やかさが薬の作用だというふうに言われるのもちょっと抵抗があるんですけれどもそういう働きがないとは言えないと思いますねと氏は言います。

 

ゲーテは死ぬときにもっと光をと云ったことに次のような解釈をしている。それを人は死ぬ時に目の前が真っ暗になってくるのでもっと明かりをつけて明るくしてくれと言ったんだというふうに理解されている。けれども実はこの光は闇の向こうから輝いてくる光であったに相違ないと語ります。

 

最も信じがたい共通の要素はでその光が「ある存在」であることに疑問を表明した人はいない。しかもそれは極めて明らかに人格を有している。その存在から発して死にかけている人に降り注ぐ愛と暖かさは全く表現を絶しているもので人はそれによって完全に包まれ抱擁される。

旧約聖書の初めに神は天地を創造した。神は言われた「光あれ」こうして光があったということはこういうことで考えられるのではないかと氏は語ります。

続く

 


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