「環境=森林=林業=国産材(杉岡製材所)=理」の公式は成り立ちますか?
環境=森林から説明するのは手に負えないところもありますが、やってみます。そこは、実は賛否分かれるところだと思います。針葉樹植林は植生に合ってないという方も多いのですから。今、九州(照葉樹林帯)にあった常緑広葉樹の植林が注目されています。ただし、問題は、常緑広葉樹である楠、熊楠(タブ)、樫などを建築材として使う受け皿の問題です。杉も現在受け皿がなく、価格の低迷を引き起こして困っているわけですから・・・もしも、そのような環境が整えば、製材所は杉・桧よりも、常緑広葉樹の使い方を考えなければなりません。
ちなみに余談ですが、5千年前の縄文中期は現代よりも気温が高かったらしいのです。そのことから、落葉広葉樹林帯と照葉樹林帯の境目はもっと北にあったということがわかります。それなのに当時の九州の林層には、栗などの落葉広葉樹が多くあった、ということですから、焼畑により林を管理し、木の実などの食料を得ていたのではないかと言われています。自然に戻す=常緑広葉樹植林という公式は、木と山の文化的視点からみると、最も正しい選択だとは決して言い切れないと思います。山から得る資源を上手に活用する文化は、それが衣であれ、食であれ、住であれ永い間継承されてきたものだと思います。
これも余談ですが、花粉症で悩む人々は、杉を敵視します。戦後の拡大造林は間違っていた、と日曜日午前中にある某番組で、コメンテイターが発言するのを目にしました。これには、憤りさえ感じました。空気汚染により起こっているアレルギー症状の一つが花粉症なのに、杉花粉そのものを忌み嫌うのは、なんとも感情的で子供じみています。しかしながら、私の家族にも花粉症が複数発生しました。対策を勉強しなければならないとも感じています。
戦後の拡大造林に対する私の意見は次の通りです。現在、日本の一年の木材消費量は、約1億立米。国産材の使用料は約2千万立米弱。残り8千万立米は、輸入材です。木は成長し続けているので、国産材は、毎年8千万立米増えています。つまり、6千万立米が余っている。しかし!!です。植林した戦後は木材を輸入していなかった訳ですから、自給自足するとなると今の森林蓄積量でも足りないのです。その当時の判断が決して間違っていたとは言い切れません。もしも、中国やインドなど10億人規模の国が経済発展をとげ、トイレットペーパーを普通に使い出したら、どうなるのでしょうか?木材は一気に不足するかもしれません。
とにかく木材を使用したら、植林・育林をし、使用した建物などを長く使うようにする。そうすれば、二酸化炭素の問題も含め、他の手段より環境への負荷はかからないと思います。また、常緑広葉樹植林に関心があればNHK出版「知るを楽しむ」シリーズ「日本一多くの木を植えた男」宮脇昭を読んでみて下さい。
森林=林業も難しい問題です。国の政策では、森林を、水源、治山治水、二酸化炭素吸収・固定など環境面(五行の水)で見ています。林業家はあくまで経済林として経営している。五行の木として扱っているわけです。そこに大きなギャップがある。国のほうから水としての補助金をもらい、木を生産していくことも限界に近いと感じずにはおれません。木の営みが成り立っていて、いつのまにか水の役目も果たしているという状態が理想ではないかと思います。
余談ですが、水田も治山治水に大きく寄与しています。立正大学の富山和子先生の本も気付かされることが多いと感じます。
林業=国産材は、最も現実的で悩まされる難問です。国産材を保有する林業家も、林野庁も採算が取れてないのですから…製材所は原木を安く買い叩いて売っている。それでも採算割れがほとんど。私はどうしているかというと、惚れた木を買うようにしています。それは、高樹齢の木であることが多く、その付加価値を理解してもらえるような説明を心掛けています。量がわずかで微力ですが…これから膨らましていきたいところです。
国産材=理は成り立つと思います。一番初めの針葉樹と広葉樹に戻ってしまいますが、成り立つように森林計画をやっていく必要があると思います。水を得るために植林をするという行為は、大宝律令の時代には少なくともあった訳ですから。
環境に良い?という国産材を供給している山とはそんなものです。
そんなものとは思えません。蛇口をひねればいつでも水が飲めるのは、降水量の恵だけではないからです。酸素も然りです。
すばらしいです。
がんばってください。
この視点が正しいのかどうかはわかりません。
私の実感という主観だけだからです。
むしろ、間違っているのではないか?
という疑問を抱きつつ、ブログにアップロードしています。