こんばんは。
本日もブログ更新できそうですが、時間があまりありません。
今日も母親の家のパソコンを借りて書いてます。
随分前に自分のパソコンから煙が出て壊れたのですが、買い替えるだけのお金がありませんw
そのうち生きていくのも難しくなるかもしれないのです。
まあ、なんとか粘りますがね!
時計の音はガガガガガガガガガと時を刻み、隣で広告をガチャガチャとめくっている母親の独り言がする。
体が疲れてやる気もない。
やはり食べると疲れてくるようになったようだ。
今日は扇風機がどけられているので、風には当たっていない。
汗がベタベタして顔が気持ち悪く、さっき食べた寿司とコロッケ、サラダの後味がまだ口に残っている。
上半身の左側に精気が通っていないことを感じる。
さて、本日は16時半に起床いたしました。
昨日より更に遅く「あーあ」と思いましたが、煙草1本吸って洗面うがいしてから坐禅へ。
45分。
不思議なことに毎日していると断続的でも、その坐っている時間の感覚が変化している。
内面的にも感官的にも、不味いところが見えてくるのだ。
妄念の世界は、ふとした日常の一シーンなんかを、見事に覚えていて、そこから不平不満や心配、焦りなどに導く。
体は瑞々しさを失っているが、それは直の、この大自然に触れる事に恐怖を感じているからだろう。
胸が詰まっているが、そこを開くには、もはや、不自然に感じる。
他者のことを気にせず、一度、この詰まった胸の閉塞感を開放してしまわなければならない。
そうでなければ「虚ろ」な生を彷徨う内に、二度と繰り返されない貴重な、日常、毎日、このときを見逃してしまうだろう。
再び生き直すことはできない。
で、坐禅を終えると読書です。
人は、人のいう事を疑わずに、信じることがありますが、本で書かれているからと言って、作家の人が東大、京大出身でも、だからといって、自分自身にとって真理だと鵜呑みにすることは非常にアホらしい。
それを、実際に日常に当てはめてみると、その作家の日常ではありえそうなことも、この我が身にとっては、ぜんぜん合わないこともある。
育った環境、時代や国家、宗教、文化など、また歴史の醸成した言語感覚など、すべて違うからだ。
しかし、表面的な奥にある、その質、つまり伝えたいところの肝が、優れている場合は、それらの相違をも超える。
諸行無常、諸法無我、一切行苦、涅槃寂静という至言。
このような宗教的真理の要約された言葉が、自己の内で消化されていくには、考えなくてはならない。
考えるというのは、この諸行無常等々の言葉が、実感として、この世界を捉えた自己と他者の社会の中で知られねばならぬということである。
すべては流れていくと頭では理解するのは容易い。
しかし、それが潜在したい意識(本能的感情)の部分で、疑うことなく真理だと直観する時とは違うのである。
わたしの思うようには何もならない。
その苦しみから逃れるためには、寂静に放たれなくてはならないのだが、頭の理解で、そのようなことは不可能である。
で、座禅を終えると、慌てて母親の家で、ご飯を食べてブログ更新をしているのでした。
さて、今日はいつも以上に時間がありませんので短くしか書けませんが、何を書こうか。
祈りや願いが、純粋な心から発せられている、その時、大自然は光を纏う。
それは体と心が一体となって、この神の創りし大自然と融合していることなのである。
融合するとは受容しているということだ。
坐禅の標準は自受容三昧と言われるが、この私を放して、心を開いて、直に接する事が迷いを吹き飛ばすのだ。
それには貪りと怠惰に勝つ必要がある。
これは容易ではないが、恐らく、その忍耐以上の価値が、宝が、そこにはあるだろう。
だからこそ、古代の人々が、この教えに歓喜したに違いないからである。
苦しみとは「私という想い」これだけである。
ほいでは、仕事行ってきまーす!
やばい、遅刻しそう(笑)
本日もブログ更新できそうですが、時間があまりありません。
今日も母親の家のパソコンを借りて書いてます。
随分前に自分のパソコンから煙が出て壊れたのですが、買い替えるだけのお金がありませんw
そのうち生きていくのも難しくなるかもしれないのです。
まあ、なんとか粘りますがね!
時計の音はガガガガガガガガガと時を刻み、隣で広告をガチャガチャとめくっている母親の独り言がする。
体が疲れてやる気もない。
やはり食べると疲れてくるようになったようだ。
今日は扇風機がどけられているので、風には当たっていない。
汗がベタベタして顔が気持ち悪く、さっき食べた寿司とコロッケ、サラダの後味がまだ口に残っている。
上半身の左側に精気が通っていないことを感じる。
さて、本日は16時半に起床いたしました。
昨日より更に遅く「あーあ」と思いましたが、煙草1本吸って洗面うがいしてから坐禅へ。
45分。
不思議なことに毎日していると断続的でも、その坐っている時間の感覚が変化している。
内面的にも感官的にも、不味いところが見えてくるのだ。
妄念の世界は、ふとした日常の一シーンなんかを、見事に覚えていて、そこから不平不満や心配、焦りなどに導く。
体は瑞々しさを失っているが、それは直の、この大自然に触れる事に恐怖を感じているからだろう。
胸が詰まっているが、そこを開くには、もはや、不自然に感じる。
他者のことを気にせず、一度、この詰まった胸の閉塞感を開放してしまわなければならない。
そうでなければ「虚ろ」な生を彷徨う内に、二度と繰り返されない貴重な、日常、毎日、このときを見逃してしまうだろう。
再び生き直すことはできない。
で、坐禅を終えると読書です。
人は、人のいう事を疑わずに、信じることがありますが、本で書かれているからと言って、作家の人が東大、京大出身でも、だからといって、自分自身にとって真理だと鵜呑みにすることは非常にアホらしい。
それを、実際に日常に当てはめてみると、その作家の日常ではありえそうなことも、この我が身にとっては、ぜんぜん合わないこともある。
育った環境、時代や国家、宗教、文化など、また歴史の醸成した言語感覚など、すべて違うからだ。
しかし、表面的な奥にある、その質、つまり伝えたいところの肝が、優れている場合は、それらの相違をも超える。
諸行無常、諸法無我、一切行苦、涅槃寂静という至言。
このような宗教的真理の要約された言葉が、自己の内で消化されていくには、考えなくてはならない。
考えるというのは、この諸行無常等々の言葉が、実感として、この世界を捉えた自己と他者の社会の中で知られねばならぬということである。
すべては流れていくと頭では理解するのは容易い。
しかし、それが潜在したい意識(本能的感情)の部分で、疑うことなく真理だと直観する時とは違うのである。
わたしの思うようには何もならない。
その苦しみから逃れるためには、寂静に放たれなくてはならないのだが、頭の理解で、そのようなことは不可能である。
で、座禅を終えると、慌てて母親の家で、ご飯を食べてブログ更新をしているのでした。
さて、今日はいつも以上に時間がありませんので短くしか書けませんが、何を書こうか。
祈りや願いが、純粋な心から発せられている、その時、大自然は光を纏う。
それは体と心が一体となって、この神の創りし大自然と融合していることなのである。
融合するとは受容しているということだ。
坐禅の標準は自受容三昧と言われるが、この私を放して、心を開いて、直に接する事が迷いを吹き飛ばすのだ。
それには貪りと怠惰に勝つ必要がある。
これは容易ではないが、恐らく、その忍耐以上の価値が、宝が、そこにはあるだろう。
だからこそ、古代の人々が、この教えに歓喜したに違いないからである。
苦しみとは「私という想い」これだけである。
ほいでは、仕事行ってきまーす!
やばい、遅刻しそう(笑)