初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
ただここに在る自己の存在のままにいることで自己の真相を知る皆様。
ただいま母親の家からブログ更新を始めました豊田です。
親戚の伯母さんが遊びに来ていて半纏を来ている僕に驚いている。
いまどきはフリースだそうだが、まあ、家ではこちらのほうが落ち着く。
今は、なにやらパジャマの話が展開している。
ユニクロのサイズは大きいとか、そんな話が引き続き展開していく。
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外は雨で薄暗い。
体は疲れているし、気分は落ち着きがない。
体の麻痺具合は、相変わらずだ。
さて今日は11時40分ごろに起床しました。
千鶴さんが勢和多気へ帰省しているので、ひとりです。
ひとりになると途端に生活が自堕落になるのがダメ人間だめまの姿。
だらっとした様子で洗面を済ませます。
色々と思念が湧いていたが、すっかりと忘れてしまった……。
そのあとで座禅40分ですね。
まあ、淡々といつもと同じように、思念世界と感覚世界の行ったり来たりですね。
この後ろの方で自分を判断している自己が消失しなければいけない。
座禅を終えると読書です。
悠聖がいないから、部屋でタバコを吸いながら、コーヒーも飲む。
『新しい宇宙像』は四次元の話に突入する。
どのように四次元を認識するかという話だが、これは自己意識のことだ。
つまり自己の意識が四次元体なのである。
高次の意識ではなく、ただの普通の意識、その動きは、線、面、立方体の運動を包括するより大きな次元である。
それは顕微鏡でも見れないし、望遠鏡でも見えない。
世界最小の物質よりも小さいし、宇宙最大の物質よりも大きい。
この自己意識が不在であるのが、人間が機械的であることの原因なのである。
とか、妄想が膨らむが、実際のところ、話が難しすぎて、全然ついていけませんwwww
考えたら不可視の世界のことが分かるとウスペンスキーは思っているようだ。
しかし、この考え自体が限定されているので、不可視の世界は、考えでは表現できない。
それは事実、つまり、このリアルな生自体の中で、感覚、感情によって理解されるものなのであり、その理解には、必ず、意識のポイントに移行が伴っているのである。
リアルの側が生きているのであり、自己の内面が生きているのではない。
その自己の内面というのはリアルから派生してきた者であり、枝葉のようなものなのだ。
根本は阿弥陀の生命の描写であり、その瑞々しい、直接の、瞬間の、体験が、体を通して、この自己という概念を齎したのだ。
まあ単純に言えば、肉体が成長して自我が生まれているが、それをコントロールしているのは、自己ではなく、大自然なのである。
この大自然と自己は縁起しており、目が見るのが先か、物があるのが先か、分からないほどに同一なのだ。
であるからして、【自己の】行為、意志、意識、想念、感覚、体というのは、幻想であり、それは仏の表層なのだ。
それは自己のではなく、無なのだ。
【無の】行為であり、意志でありとなる。
そして、この無とは、無いことというよりも知られざる者なのである。
知られざる中で諸行無常に、常に新たな生が創造され続けているのであり、そこに自己はいない。
これが事実なのだ。
仏教は、事実の説明をしているのであり、概念とは関係が無い。
実際に、今、そのようであることを述べているのであり、そこに到達するわけではない。
ただ、思念の世界が、その実際の姿を歪めて、私という思いから世界を見るので、そこを外しているだけである。
安らぎは、この明滅の根本にあり、それが知られない存在、もしくは真我なのだ。
それはまるで熟睡時の未知が、この世界に目覚めたかのような感覚を齎らす。
そこへ、段々と徐々に、理性を鍛えて、事実を見失わないようにするのが、修練、修行なのかもしれない。
で、読書を終えると、母親の家でクリームシチューを食べてからブログの更新をしていたのでした。
ではでは、皆様、本日も、これ以上ない無上の最高の一日をお過ごしください。
バイバイ!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
ただここに在る自己の存在のままにいることで自己の真相を知る皆様。
ただいま母親の家からブログ更新を始めました豊田です。
親戚の伯母さんが遊びに来ていて半纏を来ている僕に驚いている。
いまどきはフリースだそうだが、まあ、家ではこちらのほうが落ち着く。
今は、なにやらパジャマの話が展開している。
ユニクロのサイズは大きいとか、そんな話が引き続き展開していく。
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体は疲れているし、気分は落ち着きがない。
体の麻痺具合は、相変わらずだ。
さて今日は11時40分ごろに起床しました。
千鶴さんが勢和多気へ帰省しているので、ひとりです。
ひとりになると途端に生活が自堕落になるのがダメ人間だめまの姿。
だらっとした様子で洗面を済ませます。
色々と思念が湧いていたが、すっかりと忘れてしまった……。
そのあとで座禅40分ですね。
まあ、淡々といつもと同じように、思念世界と感覚世界の行ったり来たりですね。
この後ろの方で自分を判断している自己が消失しなければいけない。
座禅を終えると読書です。
悠聖がいないから、部屋でタバコを吸いながら、コーヒーも飲む。
『新しい宇宙像』は四次元の話に突入する。
どのように四次元を認識するかという話だが、これは自己意識のことだ。
つまり自己の意識が四次元体なのである。
高次の意識ではなく、ただの普通の意識、その動きは、線、面、立方体の運動を包括するより大きな次元である。
それは顕微鏡でも見れないし、望遠鏡でも見えない。
世界最小の物質よりも小さいし、宇宙最大の物質よりも大きい。
この自己意識が不在であるのが、人間が機械的であることの原因なのである。
とか、妄想が膨らむが、実際のところ、話が難しすぎて、全然ついていけませんwwww
考えたら不可視の世界のことが分かるとウスペンスキーは思っているようだ。
しかし、この考え自体が限定されているので、不可視の世界は、考えでは表現できない。
それは事実、つまり、このリアルな生自体の中で、感覚、感情によって理解されるものなのであり、その理解には、必ず、意識のポイントに移行が伴っているのである。
リアルの側が生きているのであり、自己の内面が生きているのではない。
その自己の内面というのはリアルから派生してきた者であり、枝葉のようなものなのだ。
根本は阿弥陀の生命の描写であり、その瑞々しい、直接の、瞬間の、体験が、体を通して、この自己という概念を齎したのだ。
まあ単純に言えば、肉体が成長して自我が生まれているが、それをコントロールしているのは、自己ではなく、大自然なのである。
この大自然と自己は縁起しており、目が見るのが先か、物があるのが先か、分からないほどに同一なのだ。
であるからして、【自己の】行為、意志、意識、想念、感覚、体というのは、幻想であり、それは仏の表層なのだ。
それは自己のではなく、無なのだ。
【無の】行為であり、意志でありとなる。
そして、この無とは、無いことというよりも知られざる者なのである。
知られざる中で諸行無常に、常に新たな生が創造され続けているのであり、そこに自己はいない。
これが事実なのだ。
仏教は、事実の説明をしているのであり、概念とは関係が無い。
実際に、今、そのようであることを述べているのであり、そこに到達するわけではない。
ただ、思念の世界が、その実際の姿を歪めて、私という思いから世界を見るので、そこを外しているだけである。
安らぎは、この明滅の根本にあり、それが知られない存在、もしくは真我なのだ。
それはまるで熟睡時の未知が、この世界に目覚めたかのような感覚を齎らす。
そこへ、段々と徐々に、理性を鍛えて、事実を見失わないようにするのが、修練、修行なのかもしれない。
で、読書を終えると、母親の家でクリームシチューを食べてからブログの更新をしていたのでした。
ではでは、皆様、本日も、これ以上ない無上の最高の一日をお過ごしください。
バイバイ!