初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
天と地を繋ぐ力が体の隅々を巡っていることで、自己の体験が克明に知られ、感じられるという魔術を知る、皆様。
ただいま、慌ただしい中でブログの更新を始めました豊田です。
母親と千鶴さんが、悠聖のお茶を飲むカップの蓋について、話している。
「うぅううー」と発声しながら、おもちゃで遊んでいる悠聖。
ちょっと咳き込んでいる。
マウスを弄ろうとしてくるので、危ない、危ない。
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ガタンガタンと調理器具のぶつかり合う音が、隣の台所から聞こえてくる。
ズボンをくれると母親が言うのでみると、ジャージの下だった。
さて、今日は12時半ごろに起こしてもらいました。
だるいので、ゴロゴロしていると悠聖がニヤリとしながら、叩きにくる、笑
和らいだ気持ちが湧いてくる。
何か、こう、どういう仕組みなのか、自然な嘘のない顔をみると、人は癒されるようにできている。
起きて洗面をしていると咳がよく出る。
寒くなってきて乾燥してきたのだろうか。
体調を崩すと、何もかもが、大変になるので、皆様も、お気を付けくださいませ。
千鶴さんが、アラレちゃんの歌を歌いながら、踊っているwwww
悠聖がそれを真似して踊る。
「よかったな、こんな面白い嫁で」と自分で言っている、苦笑
なんか、満足感が、心をめぐる。
阿部敏郎さんが「僕と一緒に虫けらになってみない?」という超名言を吐きましたが、この、なんでもない自然体、無意味な踊り、そういった堅苦しくない、馬鹿騒ぎが、心を和ませるのだったww
洗面を終えると座禅40分です。
どうも思念の中に入りすぎる傾向があるが、昨日から、また、ある感覚が蘇っているので、ここに戻るコツのようなものが、あり、それで、座っている間に何度も、意識が変化する有様を、見た。
この、ここにある、というのは、常に、そうなのだが、それを見ている注意点、つまり始発点が、勘違いされているのだ。
思考、感情、動作は、すべて、自動的であるが、それのどれかに、自己が在ると思っている。
しかし、この自己というやつは、固定的に、どこかにあるわけではない。
それこそ流動の中の、その流動自体、活動、生きている、回っている、そこが、自己なのである。
そして、それは他者と自己とか、対象と自己に違いを認めない。
ポイントが移るのは、想いや、興味関心が、引き離されることで、実現する。
それには、静かにして、身と口と意の動きを観察することなのである。
また、これは、監視することではない、観察することで、抜けることであり、緩めること、癒すこと、手放すことなのだ。
あるがまま、最初からある、この自然の、留まることのない、動きの中へ。
座禅を終えると、読書ですね。
戒について、また書かれていました。
不殺生戒という一番根本の戒律がありますが、どんなものでも生きとおしに生きており、死んでいるものはひとつもないと書いてある。
それが不殺生戒、つまり、殺生は「できない」ということなのだ。
葬儀というのは死者を送っているのではない。
死んだ者は、どこにもいないのだ。
生命から外れたものは、永遠に、ない。
阿弥陀の生命を、最初から、生きているのであり、わたし、という存在は、生まれてなどいないから死ぬこともないというわけである。
奇蹟を求めては、存在と知識の話。
存在と知識と言うのは、言葉と感覚のことである。
この、言葉と感覚がひとつになって、理解(直観)が生まれていく。
どちらが欠けても、意味のない思考だ。
例えば、家を建てる方法を知ることは、できるが、それができるように理解するには、実際にやってみなければ無理だ。
医学でも、音楽でも、なんでも、理論だけではできない。
料理の作り方を知っていても、上手くできない。
そのようにして、理解を生むには、存在と知識の両方が、発展するのだ。
これは、まあ座禅と、読経が、両方必要と言う事であるが、まあ、そう難しく考えないで、感覚が掴むとか、感覚で知るとか、体で覚えるということである。
で、読書を終えると、悠聖を連れて、コインランドリー、コンビニ、ガソリンスタンドへ。
悠聖、自動ドアのボタンを押すと開くことを教えたら、もう、帰りには、自分で開けているwwww
信じられないスピードで物事を吸収する。
それは、直観が、働いているからであり、記憶が、それを吸収する余地が十分あるからだろうか。
帰ってから千鶴さんの作ってくれた中華丼を食べましたが「激うま」です。
まじで、料理したら美味しいのだなあ。
まあ、この「うまー」とよく言っていたら悠聖が覚えて「うまうま」とやっているこの頃、千鶴さんに怒られるのだった。
それでは、皆様、本日も、思いや、興味関心なんかに振り回されず、生の感性、感覚、直観的生を、お楽しみくだされマシ。
んでわー!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
天と地を繋ぐ力が体の隅々を巡っていることで、自己の体験が克明に知られ、感じられるという魔術を知る、皆様。
ただいま、慌ただしい中でブログの更新を始めました豊田です。
母親と千鶴さんが、悠聖のお茶を飲むカップの蓋について、話している。
「うぅううー」と発声しながら、おもちゃで遊んでいる悠聖。
ちょっと咳き込んでいる。
マウスを弄ろうとしてくるので、危ない、危ない。
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ガタンガタンと調理器具のぶつかり合う音が、隣の台所から聞こえてくる。
ズボンをくれると母親が言うのでみると、ジャージの下だった。
さて、今日は12時半ごろに起こしてもらいました。
だるいので、ゴロゴロしていると悠聖がニヤリとしながら、叩きにくる、笑
和らいだ気持ちが湧いてくる。
何か、こう、どういう仕組みなのか、自然な嘘のない顔をみると、人は癒されるようにできている。
起きて洗面をしていると咳がよく出る。
寒くなってきて乾燥してきたのだろうか。
体調を崩すと、何もかもが、大変になるので、皆様も、お気を付けくださいませ。
千鶴さんが、アラレちゃんの歌を歌いながら、踊っているwwww
悠聖がそれを真似して踊る。
「よかったな、こんな面白い嫁で」と自分で言っている、苦笑
なんか、満足感が、心をめぐる。
阿部敏郎さんが「僕と一緒に虫けらになってみない?」という超名言を吐きましたが、この、なんでもない自然体、無意味な踊り、そういった堅苦しくない、馬鹿騒ぎが、心を和ませるのだったww
洗面を終えると座禅40分です。
どうも思念の中に入りすぎる傾向があるが、昨日から、また、ある感覚が蘇っているので、ここに戻るコツのようなものが、あり、それで、座っている間に何度も、意識が変化する有様を、見た。
この、ここにある、というのは、常に、そうなのだが、それを見ている注意点、つまり始発点が、勘違いされているのだ。
思考、感情、動作は、すべて、自動的であるが、それのどれかに、自己が在ると思っている。
しかし、この自己というやつは、固定的に、どこかにあるわけではない。
それこそ流動の中の、その流動自体、活動、生きている、回っている、そこが、自己なのである。
そして、それは他者と自己とか、対象と自己に違いを認めない。
ポイントが移るのは、想いや、興味関心が、引き離されることで、実現する。
それには、静かにして、身と口と意の動きを観察することなのである。
また、これは、監視することではない、観察することで、抜けることであり、緩めること、癒すこと、手放すことなのだ。
あるがまま、最初からある、この自然の、留まることのない、動きの中へ。
座禅を終えると、読書ですね。
戒について、また書かれていました。
不殺生戒という一番根本の戒律がありますが、どんなものでも生きとおしに生きており、死んでいるものはひとつもないと書いてある。
それが不殺生戒、つまり、殺生は「できない」ということなのだ。
葬儀というのは死者を送っているのではない。
死んだ者は、どこにもいないのだ。
生命から外れたものは、永遠に、ない。
阿弥陀の生命を、最初から、生きているのであり、わたし、という存在は、生まれてなどいないから死ぬこともないというわけである。
奇蹟を求めては、存在と知識の話。
存在と知識と言うのは、言葉と感覚のことである。
この、言葉と感覚がひとつになって、理解(直観)が生まれていく。
どちらが欠けても、意味のない思考だ。
例えば、家を建てる方法を知ることは、できるが、それができるように理解するには、実際にやってみなければ無理だ。
医学でも、音楽でも、なんでも、理論だけではできない。
料理の作り方を知っていても、上手くできない。
そのようにして、理解を生むには、存在と知識の両方が、発展するのだ。
これは、まあ座禅と、読経が、両方必要と言う事であるが、まあ、そう難しく考えないで、感覚が掴むとか、感覚で知るとか、体で覚えるということである。
で、読書を終えると、悠聖を連れて、コインランドリー、コンビニ、ガソリンスタンドへ。
悠聖、自動ドアのボタンを押すと開くことを教えたら、もう、帰りには、自分で開けているwwww
信じられないスピードで物事を吸収する。
それは、直観が、働いているからであり、記憶が、それを吸収する余地が十分あるからだろうか。
帰ってから千鶴さんの作ってくれた中華丼を食べましたが「激うま」です。
まじで、料理したら美味しいのだなあ。
まあ、この「うまー」とよく言っていたら悠聖が覚えて「うまうま」とやっているこの頃、千鶴さんに怒られるのだった。
それでは、皆様、本日も、思いや、興味関心なんかに振り回されず、生の感性、感覚、直観的生を、お楽しみくだされマシ。
んでわー!