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まーくの総合情報

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武田軍、434年ぶり、瀬田に旗を立てる

2007-02-11 | 歴史
ラヂオプレスが聞いた【徳川葵放送 浜松 1572】によると。徳川・織田連合軍は、遠江国:三方原で武田信玄軍に完敗。武田軍はこのまま美濃・尾張への進撃、上洛を目指すと予想されます。
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武田軍は好機を逃し、謎の撤退を開始しました。信濃国:駒場(こまんば)にて、武田信玄.逝去、との未確認情報を【上杉軒猿通信 春日山 1573】が配信しています。
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甲府・躑躅ヶ崎館の真田幸隆.広報官は、
「報道は間違い。御屋形様は御健在で信州の隠し湯にて療養中」とし、その証拠に「最近の書類に武田信玄.公が花押(サイン)を書いたもの」を示しました。
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武田信玄.公、今際の際(いまわのきわ)に、「近江国:瀬田に我が旗を立てよ」と遺言を残した、と兵学者:小幡景憲(おばたかげのり)が主張しています。【甲陽軍鑑】。
解説:近江国、瀬田川(琵琶湖から淀川に注ぐ)には、古来、「瀬田の唐橋」という橋が架かり、東国と京都を結ぶ交通路のチョークポイントとなっている。
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山梨県山梨市観光協会が、甲州武田勢力の関西方面への進出を図るべく、先日、滋賀県瀬田に、「風林火山」の旗を立てました。【朝日新聞[2007.02.11]】信玄遺言以来、実に 434年ぶり のできごとです。

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なお、武田・風林火山については、フィットネス情報F[07.02.04]も参照。

取り潰しは当然 でも何に抗議?

2004-12-18 | 歴史
前回からさらに井沢説は続きます。
殿中で刀を抜いて斬りつけた場合、乱心だろうと遺恨だろうと、
「その身は切腹、お家は断絶」が当たり前。事実、前々回G[04.12.16]にもあるように、内匠頭の近しい親戚も同様の措置にあっています。
一方、刀を抜かずに逃げただけの側は無罪。これも江戸時代の前例があります。
つまり幕府の裁定は、決して「片落ちのお裁き」ではなく、当時の「判例」に基づいた、極めてまっとうなものだったのです。
江戸庶民も全国の人たちにもそれが常識で、赤穂浪士が吉良を討つなどとは想像だにしていなかった、のが実態らしい。

しかし大石は明らかに幕府への抗議と当てつけのために吉良邸に討ち入っています。実は乱心での刃傷なら、内匠頭の一族(弟:大学頭)にまで累が及ばないのです。ところが幕府は、「明らかに乱心の」内匠頭を将軍:綱吉の保身のためか、「遺恨あっての刃傷」と決めつけて、弟の家も取りつぶしてしまいました。赤穂浅野家を守りたい大石は、これに激怒、抗議の意も込めて、「無関係の吉良邸へ討ち入ってしまった」というのです。

竹田出雲.原作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が大当たりしてから、事実をねじ曲げ、江戸庶民の願望も含んだ虚構が主流になってしまいました。

井沢元彦.説の受け売りで続けてしまいましたが、
日本史上最大の冤罪被害者、
高家筆頭:吉良上野介義央さん
の無罪を晴らす

活動をまーくは展開中です。
三河国(愛知県)吉良町の写真がないか、今ちょっと探してます。
というわけで、少なくとも
「愛知県知事と議会は、フィクションの『忠臣蔵』には抗議しよう!」
「大河ドラマで『忠臣蔵』を扱う限り、NHK受信料は同盟不払いにしよう!」
という主張も推進中。
(精神疾患は扱いが複雑なため、ぼかした表現にさせてもらいました。)

浅野は乱心?現代精神科医の判断

2004-12-17 | 歴史
前回そのように書くと、特に歴史家の間から反論が上がりそうです。

事件後、浅野内匠頭は極めて冷静な態度である。幕府の取り調べにもキチンと答えている。落ち着いた態度で食事も摂り、酒やタバコも欲しいと言っている。こんなに落ち着き払った人間が、乱心なわけがない!

しかし、井沢氏の前掲書の中で現代の精神科医が浅野の様子を「診断」した意見が紹介されています。
この、落ち着き払った所こそ、「乱心」の何よりの証拠だ、というのです。
殿中で刀を抜けば、その身は切腹・お家は断絶が当たり前。まともな神経の人間なら、顔色が青ざめ、食事も咽を通らなくなる。しかも取り調べへの態度こそ冷静なものの、陳述は筋が通っていない。
自分は「遺恨があって吉良殿に刃傷に及んだ」と言っていながら、「吉良のどこが強欲・悪辣で職務放棄だから、世のために斬ったのだ」とは説明していません。
さらに「遺言」もおかしなもの。妻や弟もいるのに、用人:片岡源吾右衛門に宛てて、「こんなことになって、さぞ不審に思うだろうねえ」という内容。
「家を潰したのは忍びない」とか「吉良の強欲は腹に据えかねた」などという釈明が一切ありません。どうも、「自分がしでかしたことの重大性が分かっていない」らしい。
このあたりが、現代精神医学から見た浅野乱心説の論拠となっています。
(この項、さらに次回へ続く)

『忠臣蔵』吉良上野介は無実、冤罪

2004-12-16 | 歴史
元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士四十七士が本所松坂町吉良邸に討ち入った日、として知られています。実際は14日深夜から15日未明だね。太陽暦では1703年1月31日にあたるらしい。両国駅からちょっと行った先に「吉良邸跡」っていうのを見つけることができます。
さて歴史上のこの「赤穂事件」の真相については様々な説が言われています。が、まーくが一番信用できると思ったのが、歴史作家:井沢元彦.氏の説。『忠臣蔵 元禄十五年の反逆』という小説中のストーリーで現代人が忠臣蔵の謎を解いています。F[04.05.17]参照。ポイントを紹介しましょう。

1 江戸時代のような伝統・閉鎖社会では礼儀作法は簡単に変わらない
2 間違った作法を教えれば、浅野だけでなく吉良の責任問題(切腹)に
よって吉良が意地悪をしようがない

3 塩の製法技術に決定的な違いなどない
4 渡した賄賂が少なかった、という確認もできない。指導謝礼は裏金ではなく、浅野家の帳簿に残るはずの公金。
5 大石も「吉良が強欲に賄賂を求めた」という非難をしていない
よって吉良が不満を覚えたとする根拠がない

6 浅野内匠頭の「伯父or叔父」が先年乱心して全く同様な刃傷事件を起こしている
7 内匠頭自身も以前から神経症に悩まされている
点から、

→ 浅野内匠頭が乱心・錯乱して、全く恨みもない無関係な吉良上野介に斬りつけた。

取り押さえられた後、「俺は恨みがあってやったんだ」と口走ったが、最近の同種の犯罪と同じで、吉良は全くの巻き添え被害者。それどころか、加害者扱いされてる点では日本史上、最大の冤罪事件、と言えるのでは。
(この件、次回へと続きます。)