ゴダールを語るのは男を語るのに似ている。ゴダールを語るのは女を語るのに似ている。宗教について語るのに、芸術について語るのに、人生について語るのに似ている。つまり、それは無意味ということだ。“ゴダール”の存在は何の結論も根拠も必要としない。何故なら、その存在には代替が無いからだ。
60年代前後、正規教育を受けていない監督達の、既存の手法を無視したロケ撮影や即興演出での映画制作法は“ヌーベルヴァーグ”(新しい波)と呼ばれた。それはドキュメンタリー映画「Beautiful losers」の若手アーティスト達がアートという土俵で示したアティチュードと同一のものだ。
その旗手と呼ばれるジャン・リュック・ゴダールの長編デビュー作が「勝手にしやがれ」。原題はÀ bout de souffle、英題はBreathless、直訳すると「息も出来ない」の意になる。その通り、ジャンプカットと言われる革新的な編集法によってブツ切りにされつなぎ合わされたフィルムは疾走し続け、まさに「息も出来ない」状態だ。更に全編に渡る詩的で私的な台詞は、映画が物語と言う容器に納まることを許さない。高次元の秩序をベースにしたスクラップブック、であり50年後の現在でも革新の象徴であり続け、「Beautiful losers」の一人映画監督のハーモニー・コリンも多大な影響を受けている。
「勝手にしやがれ」を初め、ゴダール作品のほとんどは明確な物語が無い。ハンフリー・ボガードを気取るけちなチンピラのミシェルが、ひょんなことから殺人を犯しアメリカ人の恋人パトリシアが住むパリにやって来る。始終煙草をふかし続けるミシェルと、神の存在を確信してしまいそうな程完璧な形の頭部を持つパトリシア。二人の会話は会話では無い。かと言って独り言でも無い。人間が持ちうる言葉が泉が湧き出るようにさらさらと溢れる。が、そこにも意味は無いのだ。
ほとんど10数年振りにしかも英語字幕で今作品を鑑賞し、やっぱりゴダールは分からないと感じた。「Made in USA」も「軽蔑」も「weekend(寝てしまった…)」も分らなかったし、きっと今でも分らない。しかし、確固たるスタイルがあること、“かっこいい”ことは昔も現在も分るのだ。あれだけ難解な台詞回しを用いながら、感覚を突く映画だ。
「ゴダールを理解する必要は無い。理解しようとしなくて良い。」
10数年前に年上の友人から言われた言葉は正しい。ゴダールはゴダールである、「女は女である」ように。
「勝手にしやがれ」とは言い得た名だ。それはミシェルがパトリシアに対してでも、観客がミシェルに対してでも無く、映画界と世界がゴダールに向けて発した言葉。
勝手にゴダれ。誰もゴダールがゴダールであることに関与出来ない。
※Film Forumにて10日迄上映中。映画館の大画面で見るゴダールは格別!
http://www.filmforum.org/
60年代前後、正規教育を受けていない監督達の、既存の手法を無視したロケ撮影や即興演出での映画制作法は“ヌーベルヴァーグ”(新しい波)と呼ばれた。それはドキュメンタリー映画「Beautiful losers」の若手アーティスト達がアートという土俵で示したアティチュードと同一のものだ。
その旗手と呼ばれるジャン・リュック・ゴダールの長編デビュー作が「勝手にしやがれ」。原題はÀ bout de souffle、英題はBreathless、直訳すると「息も出来ない」の意になる。その通り、ジャンプカットと言われる革新的な編集法によってブツ切りにされつなぎ合わされたフィルムは疾走し続け、まさに「息も出来ない」状態だ。更に全編に渡る詩的で私的な台詞は、映画が物語と言う容器に納まることを許さない。高次元の秩序をベースにしたスクラップブック、であり50年後の現在でも革新の象徴であり続け、「Beautiful losers」の一人映画監督のハーモニー・コリンも多大な影響を受けている。
「勝手にしやがれ」を初め、ゴダール作品のほとんどは明確な物語が無い。ハンフリー・ボガードを気取るけちなチンピラのミシェルが、ひょんなことから殺人を犯しアメリカ人の恋人パトリシアが住むパリにやって来る。始終煙草をふかし続けるミシェルと、神の存在を確信してしまいそうな程完璧な形の頭部を持つパトリシア。二人の会話は会話では無い。かと言って独り言でも無い。人間が持ちうる言葉が泉が湧き出るようにさらさらと溢れる。が、そこにも意味は無いのだ。
ほとんど10数年振りにしかも英語字幕で今作品を鑑賞し、やっぱりゴダールは分からないと感じた。「Made in USA」も「軽蔑」も「weekend(寝てしまった…)」も分らなかったし、きっと今でも分らない。しかし、確固たるスタイルがあること、“かっこいい”ことは昔も現在も分るのだ。あれだけ難解な台詞回しを用いながら、感覚を突く映画だ。
「ゴダールを理解する必要は無い。理解しようとしなくて良い。」
10数年前に年上の友人から言われた言葉は正しい。ゴダールはゴダールである、「女は女である」ように。
「勝手にしやがれ」とは言い得た名だ。それはミシェルがパトリシアに対してでも、観客がミシェルに対してでも無く、映画界と世界がゴダールに向けて発した言葉。
勝手にゴダれ。誰もゴダールがゴダールであることに関与出来ない。
※Film Forumにて10日迄上映中。映画館の大画面で見るゴダールは格別!
http://www.filmforum.org/