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LA VIDA DE MAR-RICO

デッサン代わり

ニューヨーク生活 映画編 勝手に…!!「Breathless」

2010年05月21日 03時23分55秒 | 映画評
ゴダールを語るのは男を語るのに似ている。ゴダールを語るのは女を語るのに似ている。宗教について語るのに、芸術について語るのに、人生について語るのに似ている。つまり、それは無意味ということだ。“ゴダール”の存在は何の結論も根拠も必要としない。何故なら、その存在には代替が無いからだ。

60年代前後、正規教育を受けていない監督達の、既存の手法を無視したロケ撮影や即興演出での映画制作法は“ヌーベルヴァーグ”(新しい波)と呼ばれた。それはドキュメンタリー映画「Beautiful losers」の若手アーティスト達がアートという土俵で示したアティチュードと同一のものだ。

その旗手と呼ばれるジャン・リュック・ゴダールの長編デビュー作が「勝手にしやがれ」。原題はÀ bout de souffle、英題はBreathless、直訳すると「息も出来ない」の意になる。その通り、ジャンプカットと言われる革新的な編集法によってブツ切りにされつなぎ合わされたフィルムは疾走し続け、まさに「息も出来ない」状態だ。更に全編に渡る詩的で私的な台詞は、映画が物語と言う容器に納まることを許さない。高次元の秩序をベースにしたスクラップブック、であり50年後の現在でも革新の象徴であり続け、「Beautiful losers」の一人映画監督のハーモニー・コリンも多大な影響を受けている。

「勝手にしやがれ」を初め、ゴダール作品のほとんどは明確な物語が無い。ハンフリー・ボガードを気取るけちなチンピラのミシェルが、ひょんなことから殺人を犯しアメリカ人の恋人パトリシアが住むパリにやって来る。始終煙草をふかし続けるミシェルと、神の存在を確信してしまいそうな程完璧な形の頭部を持つパトリシア。二人の会話は会話では無い。かと言って独り言でも無い。人間が持ちうる言葉が泉が湧き出るようにさらさらと溢れる。が、そこにも意味は無いのだ。

ほとんど10数年振りにしかも英語字幕で今作品を鑑賞し、やっぱりゴダールは分からないと感じた。「Made in USA」も「軽蔑」も「weekend(寝てしまった…)」も分らなかったし、きっと今でも分らない。しかし、確固たるスタイルがあること、“かっこいい”ことは昔も現在も分るのだ。あれだけ難解な台詞回しを用いながら、感覚を突く映画だ。
「ゴダールを理解する必要は無い。理解しようとしなくて良い。」
10数年前に年上の友人から言われた言葉は正しい。ゴダールはゴダールである、「女は女である」ように。

「勝手にしやがれ」とは言い得た名だ。それはミシェルがパトリシアに対してでも、観客がミシェルに対してでも無く、映画界と世界がゴダールに向けて発した言葉。

勝手にゴダれ。誰もゴダールがゴダールであることに関与出来ない。

※Film Forumにて10日迄上映中。映画館の大画面で見るゴダールは格別!

http://www.filmforum.org/

Land of plenty ランド・オブ・プレンティ(2004年独米合作)

2010年02月19日 12時58分27秒 | 映画評
小津安二郎を敬愛し、村上龍原作「イン・ザ・ミソスープ」の監督を務める予定のヴィム・ヴェンダース。自身はドイツ人だが、鎌倉・東京・テキサス・ハバナと彼の映画の舞台となる地は幅広く、国境を越えた合作も数多い。

今作の舞台は911後のアメリカ、大都市ロサンジェルスだ。

いつも小気味良いスパイク・リー映画や愛すべきオルタナティブ作品達が提唱する“多様性”。
数多くのアメリカ産名画、その最大の魅力が今作の前に霞んだ。
「Do the right thing」の忙しない輩達は多様と自由にもがきつつも“NY”そのものを共有している。しかし今作の主役達が共有するものは文字通り“血”のみだ。
その切実さを、殺風景なLAの街角とレナード・コーエンの歌声が引き立てる。

少女ラナはイスラエルから祖国アメリカに叔父探しにやって来る。ノートMACで友人とチャットする様子からリベラルかつ裕福な環境で育ったことが窺える。その叔父ポールは改造したバンでLAを彷徨い、「祖国の敵」を探す孤独な極右ヴェトナム帰還兵。老いにさしかかっても身も心もその後遺症から抜け出せずにいる。
Land of plentyの代名詞であるような大都会LAは全国で最もホームレスの多い都市でもある。教会でのフードボランティアに従事するラナ。そこにやって来る頭にターバンを巻いたハッサンと言う名の青年。
「出身は何処?」
「国じゃない、僕らは民族なんだよ。」
そう答えた青年はその直後銃弾に倒れる。
遠く離れた州に住むハッサンの腹違いの兄にその遺体を運ぶ為、ラナとポールはバンに乗り込む。
「ヴェトナム戦争について知りたいか?」
「ええ」
「俺たちは勝った。」
「それは比喩的な意味で?」
「いや、現実的な意味でだ。俺たちは勝った。」
ヴェトナム戦争はポールを壊した張本人であり更に彼を支える唯一のものだ。
二人を無邪気に迎え感謝で涙するハッサンの兄は貧しく孤独なパキスタン移民。
Land of plentyで培われた男達を只見守るラナ。彼女の母は兄ポールと真っ向から対する共産主義者で祖国を見捨て、遠い地で不治の病にかかっている。娘を通じて兄に手渡される手紙。弟を無くしたパキスタン人と妹を無くそうとしているポール。更に彼は仮想の敵を葬り去り、家族を手にいれようとしている。

アメリカが抱える後遺症ヴェトナム戦争、持病となりつつあるアンチイスラム、
臓器の一部となった貧しい移民達、全ての症状の原因でもあり結果でもある格差と貧困。
アメリカに生きる誰もが国の持つ病気を背負わざるを得ない。
異なるウィルスに犯される人々の最後の手綱、それが“血”なのだ。

時間と言う縦糸、空間と言う横糸を高い技術で織り合わせた一色の織物のような映画だ。
一色と言えど、角度や光によって様々な色彩と素材感を感じさせる織物。

殺伐とした色形の建物群の中で陽光を真っすぐに浴びるラナの姿は消えない残像。
繰り返される「Land of plenty」の歌声がアメリカそのものを幾重にも包む。

Brother(2001年)

2010年02月08日 13時11分44秒 | 映画評
日米共同制作の北野武作品。
抗争で日本を追われたヤクザ山本が
LAでアフリカンアメリカンやヒスパニック達で構成されたファミリーを従える「BROTHER=兄貴」へ。
間接的な描写と主演北野武の抑えた演技から溢れるダンディズムとユーモアが効いたエンターテイメント!!

硬派な極道山本はLAへ留学した実弟を訪ねるも、彼はけちなチンピラに成り下がっていた。
辺りを縄張りにするマフィアとひょんなことから戦いを起こした山本は、
異人種達を従えるヤクザの頭になる。
在住ヤクザと手を結び組織はどんどん大きくなるが。。。

ハリウッドアクションと対照的な北野武のカットワークは、戦闘シーンでその差異が浮き彫りになる。
車中の血を流した死体を長いスパンで撮影し、射撃音と光だけで撃ち合いが激しいものであることを表す。美しいが甘さの無い久石譲のインストととの絶妙な組み合わせが乾いた悲しさを産み出す。
撮影方法は非常にシンプルで贅肉が無いのだが、何層にも色を重ねた染物のような奥深さが感じられる。
私は映画作りに無知な為、どういう技術がこのような不思議な効果を産んでいるのか想像出来ない。
が、北野武の底の無い絶望と諦念が作品の下地、重なった色彩達の一番初めの塗料だろう。

殺風景極まりなく、誰もが想像力を放棄したくなるような風景を持つLA。
そこにぴたりと収まりそうなぶっきらぼうで感情の起伏を見せない黒尽くめの男。
しかしLAでは誰もが欠けた想像力を埋めるように喋り怒り行動するのと反対に、
男は溢れる想像力に蓋するかのように終始黙り、たまに僅かに口端を上げるだけ。
彼だけがLAに犯されていないのだ。
薄暗く深い不気味な池も生命を育む豊かさを持っており、グロテスクで卑小な小魚や爬虫類がその懐を生きる場としている。

ラストシーン、ダイナーで敵マフィアに追い詰められた山本が、
「修理代な。」と言って店主に余額の支払いをする場面。
“お前から60ドル騙し取ったから”と手紙を書いて弟分のブラザーに財産を託すシーン。
山本の想像力がどれだけ深いかを示す印象的な場面だ。

私は監督のキャラクターや人生観、価値観が強く滲み出た作品が好みだ。
北野武作品は勿論その一つだ。

Brooklyn Babylon(2001)

2010年02月07日 05時39分48秒 | 映画評
現在私が住んでいるBrooklyn Fortgreenに程近い、
Crown Heightsを舞台にラスタファリアンとジューイッシュの恋愛模様を描いた作品。

ラップ(登場人物達のそれはポエトリーリーディングと呼びたい程文学的かつ芸術的)
に情熱を注ぐ男女を描いた「slam」(1998)と同じ制作陣の作品。
両作品でワルブラザーがガチハマリだったBonzo Maloneがその一人。
人は見かけに拠らないわ~。

Crown Heightsはアフリカン・アメリカンとジューイッシュのコミュニティが隣り合い、
hiphopが鳴り響くクラブの次の角ではユダヤ人達が伝統的な結婚式を挙げている。
sol and the lionsのフロントマンであるミュージシャンsolと
自立と教育を目指すユダヤ人女性sara。
ある夜互いの仲間同士が自動車事故を起こしたことから二人は出会い惹かれ合う。
肌色や教義の違う二人の恋愛には非難や邪魔が付きまとうが。。。。

異なる肌色や宗教を持つ男女間の恋愛劇、その起源は「ロミオとジュリエット」に集約される。
が、NYそれもBKで異なるバックグラウンドを持つ男女の恋愛は珍しいものではない。
むしろごく普通のことで、世界で最も異人種同士の恋愛と結婚が易しい場所と言ってよい。
なので劇中に描かれる困難も大したものでは無い。solの友人達が「白人なんかやめろ」と騒いだり、saraの元彼と仲間がsolを袋叩きにしようとする程度だ。

両者とその軋轢の描写は表面的で、その対立が避けがたい緊張感溢れるものだと言う印象が乏しい。
この映画で私が知ったことはユダヤ人達がロックを奏でると言う事位だ。
それ以外に新たに知った事や感慨深い描写は無かった。

ミュージシャンmatisyahuが示すように、ラスタもジューも旧約聖書を聖典としている。
ジューにとって神が用意した「約束の地」はパレスチナであり、
ラスタにとってそれはアフリカ大陸だ。双方とも他民族により故郷を追われた彷徨える民である。
宗教的知識がこんなシンプルなラブストーリーを見るだけでも必要とされる。
日本の宗教教育の貧しさを再認識した映画だった。

ANTI CHRIST アンチクリスト(2009)

2010年01月16日 12時05分06秒 | 映画評
カンヌ映画祭でpros&cons(賛否両論)の嵐に晒されたと言う、
ラース・フォン・トリアーの「アンチクリスト」。
此処NYのIFCセンターと言う小さな映画館で鑑賞して来ました。

感想を簡単に言えば、
「映像の美しさと隠喩の難解さは流石だが、強烈な生理的嫌悪が映画の品質を遥かに勝る。」

映画は“プロローグ”“Grief悲嘆”“Pain,Chas痛み、混沌”“Despair絶望”“エピローグ”で構成されている。

特筆すべきはプロローグ、スローモーションのモノクロ映像で織り成された夫婦のFuck(敢えてこう呼びたい。)シーン。シャワーの雫、ボトルから零れる水の滴り、暗黒の空から舞い落ちる雪など細部の描写が美しい。映画の全編に使用されテーマにも深く関係する、ヘンデルのアリア「涙の流れるままに(私を泣かせて下さい)」が響く中、結合する性器や荒々しい行為そのものや妻のオーガズムに達する表情が映し出される。

そして、夫婦が営みに夢中になっている間に幼い息子が部屋の窓から転落死してしまう。

妻は悲しみと罪悪感から精神のバランスを崩し、夫は成熟した優しさと包容力で彼女を見守る。
心理療法士でもある彼は妻の深層心理に彼等の別荘が深く関係していることを知り、
森の中のその別荘で彼女の心身を癒そうとする。

しかしその屋根裏で夫は妻の「魔女の部屋」を見つけ、閉塞的環境の中で妻は錯乱して行く。
自慰に耽り激しくセックスを求めるかと思えば、自らと夫の性器を鋏や鈍器で傷つける。
まるで性が唯一の罰と救済の手段と信じている狂信的な信者のように。

映画の中で夫がキリスト、妻が魔女の象徴であるのは想像に易しい。
全てを受け入れる、あまつさえ魔女とのセックスをも受け入れて(これはキリスト教に対する皮肉だ。)妻を救済しようとする夫。夫の救済を拒否し自らの魔女性を固持する妻。(この態度がアンチクリスト、反キリストそのものだ。)

ラスト近くにプロローグのフラッシュバックが挿入されるのだが、ここで妻は息子がまさに窓から落ちようとしているのを見ていた(知っていた)ことが示唆されていたように思う。
彼女は尊い魂を助けることより肉の快楽を優先した、つまり妻の魔女性が息子を死へ追いやったのだ。

最終的にキリストは魔女を追放する。夫は妻を自らの手で絞殺するのだがそのシーンのリアルさはスナッチムービーさながらだ。妻の顔がみるみる赤紫色へ変貌し剥いた白目が充血していく様子がカット無しの映像で綴られる。憶測だが、実際にかなり危険な状態の一歩手前迄女優を窒息させたのでは無いだろうか。

エピローグは夫が山を一人で降りるシーンだ。突如、顔の無い沢山の女達が現れ彼とは逆に山を登って行く。彼女達は救済を必要としない魔女達であり、山へと(彼女達の還るべき場所である。)向かって行く。


トリアー作品は「奇跡の海」「ダンサーインザダーク」を以前視聴しその女性の描写に嫌悪感を抱いたことを今回思い出した。
前者は不具となった夫の救済の為最低の娼婦へと身をやつす知恵遅れの女性、
後者は息子の為に無実の罪を引き受け死刑に処される貧しい盲目の母親が主人公。
両者とも“カトリックが掲げる理想的献身を体現する女性”だと感じた。
日本人の私からすればそれは合理性に乏しいマゾヒスティックな自己犠牲であり、無知で貧しい哀れな女性が陥りやすい罠だ。しかし罰を受けることで救済を手に入れようとするある種歪んだ価値観は、西欧のかなり広い範囲でまだまだ機能しているのだろう。

キリスト教の持つ歪みや強迫、歴史を再確認してから再度トリアー作品を論じたいと思う。