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LA VIDA DE MAR-RICO

デッサン代わり

『そして、ひと粒のひかり』”飛躍or搾取”と言う選択肢

2009年05月08日 21時45分33秒 | 映画評
私は”円”の世界に生きている。きっちり閉じた文字通り円の中で守られている。
まるで子宮に守られた胎児のように。まるで何重にもゴムで包まれた白い粉のように。

南米コロンビアの田舎町に暮らす17歳の少女マリア。彼女が持っているのは、単調で退屈で何のキャリアにもならないプアワークと、彼女の給料を宛にするのが当たり前だと思っている母とシングルマザーの姉、セックスしたいだけの頭の悪い地元の彼氏、だけ。
ある日マリアはひと粒の種を宿したことに気付く。悪阻で仕事を辞めざるを得なくなった彼女は妊娠の事実を家族に打ち明けない。幼い子供を持て余し、いずれ母のようになるだろう哀れな姉を追随することは彼女には出来ない。場当たり的に「結婚しよう」と言う彼氏に別れを告げ、マリアはある飛躍に自らを託す。
それは、麻薬の運び屋としてNYに渡ること。無謀な身体的・社会的リスクをマリアは自分に課す。
ゴムで包まれた白い蚕のような麻薬の繭をマリアは身重の身体に一粒づつ詰めて行く。60粒あまりを飲み干し、生まれて初めてパスポートを手にし飛行機に乗り込む。同じ機内に運び屋の女性が他に3人。捜査官の疑惑を分散させようという狙いがそこにはある。つまり誰かしらが生け贄になる可能性がある、ということだ。
初めて降り立つケネディ空港、NYの街。余韻に浸る暇も無く野卑な男に車に押し込まれる彼女達。身体に詰まった’繭’を全て出産するまで彼女達はホテルに監禁される。そこで最悪の事態が起こる。彼女達の一人ルーシーの身体の中で麻薬が繭を破ってしまったのだ。バスルームで”始末”されるルーシー。その事実を知ったマリアは荷物を抱えてホテルを飛び出し、明確な理由も無いままNYに住むルーシーの姉の元へと向う。

マリアと私を隔てるのは只一点だけだ。
強い通貨の下に生を受けたか否か。
充分な資金と自由な休暇を携えた私が目にしたNYとマリアが目にしたNYは色も形も全く同じなのに、全く別の国のようだった。私は国境を越えてもまだ”円”に守られていられたのだ。”円”は”YEN”になっただけだった。
24時間絶食し、苦痛と共に薬を飲み込み、自分の肛門から出た薬を再度飲み込み、捜査官の厳しい尋問を交わすために嘘を付き、犯罪に加担しなければマリアはNYに辿り着くことが出来ない。彼女は何にも守られていないからだ。
先進国以外の国で貧困と無知を糧に育って来た女性は世界の何処に行っても弱者だ。弱者として生まれ弱者として生き弱者を身ごもり弱者を育てる。因果応報、家訓のようにそれを受け入れる彼女達。搾取されることに自覚出来ないまま搾取される彼女達。その閉じた円から抜け出すには、何億万分の一の確率での幸運を待つか、ビルの屋上から飛び降りるような無謀な飛躍しか無い。マリアが明文化せずに選んだのが後者だった訳だ。
四半世紀以上”円”の内側で暮らして来た私には彼女のような飛躍は決して出来ない。

『NYはパーフェクトな場所よ。』
ルーシーはマリアにそう告げる。
『子供はアメリカで育てたい。子供にチャンスを与えてあげたいの。』
臨月の妊婦であるルーシーの姉はマリアにそう告げる。
彼女達の言葉が真実だと私には思えない。NYはエキサイティングな街だが、決してパーフェクトでは無い。
NYで狭い部屋に親戚と共に住むような移民の子供として生まれることは決してチャンスに恵まれてるとは思えない。
しかしその二人の言葉が、マリアを最終的に更なる飛躍へと向わせる。その決断を下した時の、弱者でしか無い17歳の少女の表情は涙が出る程強く美しい。




『Morven Callar』次なる価値観に向う”女性性”

2009年05月02日 14時16分17秒 | 映画評
Morvenは私自身を映す鏡である。
そして私がこうであり続けたいと感じる価値観を体現する化身である。

そう感じる女性も多いのではないだろうか?フランシス・フクヤマが提唱した「歴史の終わり」以降に生を受けたもしくは思春期を過ごした先進国の女性は誰でも、部分的にMorvenであると言える。

荒涼とした大地と大気に包まれるスコットランド。
暗闇の中で豆電球を点滅させる安っぽいクリスマスツリー。その麓に横たわる手首から血を流した仰向けの男。愛撫するように冷たく動かないその体に掌を這わせる女。彼女の視線は物憂気で何処かここにあらずと言った雰囲気があり、熟れた果実のような色香を含む。
彼女こそMorvenである。母のように彼の遺体を背後から包み、父にちょっかいを出す娘のような弄ぶようなその動き。
「ごめんよ、Morven。
 理解しようなんて思わないでくれ。正しいことじゃないって分ってる。
 僕の小説を出版社に送って欲しい。
 君のために書いた。
 愛してる。
 勇気を出せ。」
じんじん唸るPCの画面に浮かぶ、短く飾り気の無い遺書。映画の中で死んだ彼に関する情報はこれと、彼の動かない白い背中と、Morvenのために編集されたカセットテープだけだ。劇中で、彼は完全に「死んだ者」として扱われ、そう演じることを徹底して余儀なくされている。
Morvenは近くのスーパーで働く言わばフリーターだ。低賃金で保証も無くこき使われるワーキングプアに属する女性だ。単調で退屈な仕事、地元の仲間しか居ないバーで呑んだ暮れるのがせいぜいの気晴らしである。
急な彼の、能動的な死は確実に彼女を揺さぶる。しかし彼女はその動揺を表に出すことは無い。その方法さえ知らないかのように。自身の裡に蠢きを封じ込めるかのように彼の死を他言せず、彼の体をシーツで隠す。そして彼が残したウォークマンと音楽が外界を彼女から切り離す。Morvenは彼の残した音楽を離さず、まるで蓋をするかのようにイヤフォンを耳に嵌める。彼自身を以て彼を葬るかのように。

Morvenはある日行動に出る。彼の遺言を、その言葉を自分なりに翻訳する。

非常に象徴的なシーン。彼の小説の一番最初に書かれた彼の名前。それをdeleteし、Moven callarとゆっくり打ち込む彼女。その様子から文字の打ち込みに慣れていないのが伺える。
劇中には描かれていないが、Morvenはどちらかと言うと主体性が無く、死んだ彼に依存するようにして生きていた女性では無かっただろうかと私は思う。彼の名前を消し、自分の名前にすり替えるという行動は彼女の「独立宣言」と、彼の一部を自分の中に取り込むたいという依存心の現れに思えて仕方無い。彼女は小説を自分のものとして出版社に送り続ける。
そして、劇中で最も美しく切なく、狂おしく愛おしいシーンが続いて挿入される。
暗い部屋と対照的に明るく狭いバスルーム。下着一枚で立つMorven。ブラジャーさえ着けていない。浴槽にはビニールに包まれた動かない彼。サングラスをかけ、錠剤を酒で喉に流し込む彼女。イヤフォンから流れるvelvet undergroudの「I'm sticking with you」。その詩に真っ向から対抗するように彼を自分から引き剥がすMorven。
彼女は、彼を解体する。飛び散る血が彼女の体を洗う。
作業が終了すると、Morvenは額に血を付けたまま至極満足気な笑みを浮かべる。
バックパックにばらばらの彼を詰め彼女は山に向う。乾いた温かい日差しの下でピクニックに行く少女のような出で立ちの彼女。彼を地中に埋め隠し、名実共に荷を降ろしたMorvenは歓喜の声さえ上げ飛び跳ねながら山を降りる。
そして彼の預金をおろし、強烈な日差しと色彩の待つスペインへと旅立つ。

Morvenが解体し、見えない奥深くに隠したもの、それは彼の遺体だけでは無い。それは彼の遺体とセット販売されていた「感傷」そのものだ。Morvenは感傷を拒否し感覚を優先する、と言う選択をした。それは「生き抜く」ためにである。彼の居ない世界を、生きる価値など持たない世界を生き抜くために。
「生」に対するMorvenの執心、興味はかなりの強く、それは彼女の言葉では無く行動と視点で確認出来る。濡れ落ち葉に塗れた虫を見つめるMorven、乾いた大地を這う蟻を掌に乗せるMorven、スーパーに積まれた人参にしつこく貼り付く芋虫を指先で突つくMorven。あらゆる場面で彼女は蠢く「生」に魅入られる。
女には感傷が無い、と書いたのは村上龍だっただろうか。それは言い過ぎだと私は思う。女にも感傷はある。只、感傷と決別するだけの精神力と心構えを持てる、のだ。そしてそれは「生」に貪欲な者だけが持てる特権とも言える。「生」の反意語は「物語」とも言える。「物語」は感傷の子宮であり、感傷を甘やかす。感傷を換気の悪い部屋に押し込め、引き蘢りにすらする。
「Morven Callar」は「物語」と決別する、というattitudeを示した映画である。よって此処には恋人の死を悼み、思い出や記憶に耽る、前世紀的な女性像が入る隙が無いのだ。

能天気な親友を引き連れてスペインにバカンスに行ったMorvenだが、彼女は休暇先でもあまり楽しそうに見えない。盛り場のクラブにいくらでもいそうな薬とセックスに強い行きずりの男にも、夜中繰り広げられる乱痴気騒ぎも彼女の関心を引かないように思える。爆発的な機械音と点滅する赤いライトに占拠されたダンスホールで彼女は淡々と只歩くだけだ。その耳にはイヤフォンがきっちりはめ込まれている。彼女が感傷と無縁な訳では無いことがこのシーンでも確認出来る。これは彼女の闘いなのだ。感傷の餌食にならない、と決断した女性の内なる闘い。
Morvenが著者であると勘違いした出版社の人物が彼女を追ってスペインにやって来る。小説を誉められても、出版を約束されてもMorvenには他人事だ。しかしその契約金を知って彼女はよろめきそうになる程驚く。イヤフォン以外に彼女を強力に後押しする「金」の出現は彼女を更に「物語」から引き離すのだ。
冷えた自分のアパートに戻り荷造りするMorven。もう此処に居る理由は無いとばかりに彼の墓である部屋とも決別する。
「夢を見るのは止めて。」
親友を次の旅に誘うMorvenは彼女から意外な言葉を聞くことになる。親友は此処から離れる気はさらさら無いのだ。Morvenのように決別する気など彼女には無い。それを現実的、と言うのかも知れない。
Morvenは親友に何も言わずスーツケースを引きずりながら街を離れる。

「女の子はいつも夢見がち。」何かの雑誌でこの映画の紹介文に付いていたコピーだ。私はこの表現に非常に違和感を感じた。きっとその記事を書いた人物は男性か、ある程度年齢とキャリアのいった女性なのではいかと推測した。
Morvenは夢を見ている訳では無い。スーパーでこき使われ、安酒場で憂さ晴らしする少女では無い年齢の女性は夢を見る程呑気でも幸福でも無いからだ。但し現実を受け入れようともしていない。現実をサバイバルする、のだ。そのチケットが彼の死だった。
死ぬために小説を書いた彼、Morvenは生き抜くためにそれを自分のものにする。
教育も権力もほとんど何も持っていない21歳の女の子にとって可能なサバイバル、その最大公約数がこの映画では示されている。言葉も展望も確固たる思想も彼女達が持っている筈が無い。しかしもっと強力なものを彼女達は持ち得ている。身体と、それを資本とした感覚、だ。
Morvenは「Morven Callar」は、既得権益が持つ事の出来ないその特権を具体的に示した秀作であり、映画、表現の分野で確固たる地位を持つ素晴らしい作品である。
きっと21世紀が進むに従って再評価されるに違いない。
彼の遺言を悉く反したに見えるMorvenだが、実はその反対である。彼女は従順なまでに彼の言いつけを守ったのだ。
「勇気を出せ。」
と言う言付けを。


Beautiful Losers 遊ぶことを選択した負け犬たち

2009年05月02日 14時03分08秒 | 映画評
90年代世紀末のアメリカ。パンク、ヒップホップ、サーフィン、スケートボード。60?70年代から引き継がれたありとあらゆるストリートカルチャーに共鳴し、「DIY = Do It Yourself」の精神を唯一の絆(きずな)とし、既成のアートをなぞることを拒否し、自らの想像力をグラフティ、映像、パフォーマンスへと昇華させたLosers(=負け犬たち)。彼らの奇跡と軌跡をたどったドキュメンタリーが10年後の21世紀に公開された。

 ハーモニー・コリン、マーク・ゴンザレス、マイク・ミルズ。この三人の名前だけでも耳にしたことのある人も多いのではないだろうか。中でも最も有名なのが、映画監督ハーモニー・コリンと彼が若干20歳で制作した映画『Gummo』だろう。

 今から10年程前に公開されたこの映画でフォーカスされるのは、「white trash(=白いゴミ)」と呼ばれることもある、知的、経済的、社会的にも最下層に位置する白人たちだ。

 だだっ広いだけで何も無いアメリカの田舎町オアイオ州ジーニアに暮らす彼らの日常とよどんだエネルギーが、小動物をあやめる2人のティーンエイジャーを中心に浮き彫りにされる。極限までリアルで極限までロマンティックなこの映画はハーモニー・コリンを新時代の「enfant terrible(=恐るべき子供)」へと押し上げた。映画とスケート狂の少年だったLoserコリンはアメリカのLosersを描くことによって時代の寵児(ちょうじ)となった。

 「Loser」とはアメリカ社会において特別な意味を持つ語だ。

 「Winner or Loser?」

 アメリカ人は幼いころからその二者択一を常に迫られる。競争に勝ち抜くためのしたたかさとそれを保持するポジティブさを持つ強者こそが絶対であり、それがアメリカン・ドリームをつかむWinner(=勝者)となり得る。

 反対にLoserの刻印を押された者は「生きるに値しない惨めな者」としてさげすまれる。Loserになる、ことは罪に等しい。

 「強さ」と「ポジティブさ」に取りつかれ強迫観念のようにそれらを追い求める、それは現代アメリカ社会のさまざまな病気の根源と言っても過言ではないだろう。

 「僕らはただ楽しく遊んでいただけかも知れない。」

 ハーモニー・コリンはNYの「alleged gallery」で共同制作していたころのことをそう振り返る。彼らLosersは社会的成功とは無縁の地からスタートし、正式な美術教育を受けることも無く、「遊んでいた」のだ。

 ここで特筆すべき点がある。彼らLosersのほとんどが非ヒスパニック系の白人であり同時に中流かそれ以下の家庭に生を受けていると思われること。そして経済が新自由主義に移行し、貧富の格差が広がり固定化し始めた70年代後半以降に青春期を過ごしていることだ。

 「古き良きアメリカ」が幻想となり、「アメリカン・ドリーム」が無効となりつつあることを体感する世代と階層の真ん中に彼らは居たのである。

 Losersの作品はどれもどこか寂しい。世界で最も豊かな国アメリカを謳歌(おうか)したとは思えない程切なさにあふれている。

 2001年に夭折(ようせつ)したLoserマーガレット・キルガレンの作品は特に強くそれを感じさせる。ひょろりとした体形、ぼんやりしたまなざし、三次元での存在を拒否するかのように頼り無い線で描かれた人物たちは、アメリカの持つズレを悲しくもユーモラスに翻訳している。

 いまだに影響力があるかのように扱われているモノ、人、集団、そして有効性の無い価値観。その下に生まれ育った彼らLosersは、それらに取り込まれないための手段として「遊ぶ」ことを選択し、「Beautiful」の称号を得るに至った。マッチョ思想やキリスト教、「古き良きアメリカ」の残骸(ざんがい)をしゃぶることで自らのプライドを保とうとする「Gummo」の住民たちが「遊ぶ」ことのできない本物のLosersに甘んじるのとは対照的だ。

 『Beautiful Losers』それは世にも美しい洗礼名である。

(oh my news にて掲載 現在閲覧不可)