東京が孕む欲望を忠実に翻訳する岡崎京子作品の中でも、本作の原作『ヘルタースケルター』は、『リバースエッジ』と並ぶ傑作だ。しかし主人公達の欲望に対する姿勢が両作品では異なる。後者のヒロインが海に浮かぶ土佐衛門のように倦怠感を持て余すのに対して、リリコは光の届かない深海に酸素ボンベ無しで一気に潜水するかのように閉塞感へダイブする。
主人公リリコを囲むのは夥しいほどの目である。映画は彼女の誕生から始まる。母胎である東京を埋め尽くすのは隙間無く並ぶ付け睫の数々とそれを値踏み少女達の目だ。単一の欲望のためにある限りの全手段を提供してくれる世話焼きな大都市東京。そこでデブ専風俗嬢だった田舎娘が全身整形でリリコとして生まれ変わる。
イットガールとして持て囃されるリリコだが、その美しさは末期のガン患者のように痛みと手間を伴う治療に支えられた期限付きのものだ。そして沢山の目に囲まれながらも周囲に存在するのはごく限られた人々だけ。その生活は埃をかぶったドールハウスのような自宅と病院、仕事場の往復だ。限られた時間と空間を疾走するリリコは常に情緒不安定で傲慢で、傍目から見れば最悪の女だ。そして除々に後遺症のアザが増え、天然美少女である新人がデビューすると彼女の人生は終わりに向けてカウントダウンを始める。
人物構成とストーリーに関しては、原作をかなり忠実に映画化した今作だが、沢尻エリカ演じるリリコはオリジナルと趣を異とする。まず、ひょろりとしたモデル体型と無機質な美貌の岡崎版リリコに比べ、沢尻版リリコは肉感的な肢体と愛くるしい顔である。沢尻エリカは決してモデル体型ではないし、本来『美しい』よりもアイドル的な『かわいい』顔立ちの女性だ。そして、岡崎版が示す思慮深さとは無縁のマネキンのリリコと対照的に、沢尻リリコは艶のある声と仕草で昭和の女優のような情念を醸し出している。(沢尻エリカが頭空っぽのセリフ棒読みモデルを演じるのは無理があると思う。)
しかしそれが原作には無い、人間臭さと切なさ、そしてそこから生まれる腹立たしさと愛らしさをリリコに吹き込んでいる。豊満な体と抑揚の効いた声色で周囲に居る者全てを誘惑し罵倒する。その一方で儚げに佇んで妹に弱音を吐き、幼女のように甘えて泣きごねる。リリコと言う『人形』それも二次元で表現されたものが沢尻エリカを通して見事に改訂されている。原作者の岡崎京子が意図的に描いた薄っぺらさは覆され、十字架を自ら背負った女の業がまざまざと画面に満ちる。ヒロインが変容しつつも主要となるテーマは原作と全くブレていない。それは沢尻エリカの『女優として生きること』と、リリコの『女であることを商品として生きる』ことがリンクしながら映画を牽引しているからだろう。監督の蜷川実花のキャスティングは的を得ており、沢尻エリカは大女優と呼ぶに相応しい好演ぶりだ。
難を付けるなら、大森南朋演じる捜査官とその周囲は必要ない。リリコの饒舌ぶりは狂言回しの必要性を排除する。文学的・抽象的なナレーターと勿体付けた演技は非常に陳腐で映画を安っぽくさえ見せている。
そしてその体当たりの演技は話題のセックスシーン全てに良い影響を及ぼしている。冒頭から恋人役の窪塚洋介との楽屋でのシーンは大胆だが猥雑で非常に美しい。人前での濃厚なディープキース、生々しい音の愛撫が続いた後で三面鏡の前で露骨な性行為が始まる。(蜷川実花の前作『さくらん』で遊女を描きながらもほとんどヌードもセックスも無かったのが腑に落ちなかったのだが、今作はのっけから剥き出しの性描写で驚いた。そしてそれはその性描写が今作の見せ場でないことの証拠だ。) その後は35にして田舎臭さの抜けないマネージャー役の寺島しのぶを挑発し、その恋人の脳みそつんつるてんのヒモを彼女の前で誘惑。きわどい台詞が続くが、沢尻エリカ以外が言えば安い企画AVになったに違いない。
これだけ誘惑と命令とセックスを続けながら沢尻リリコは不思議な純潔さを保つのに成功している。それは娼婦に純粋さを見出すタイプの馬鹿な男の夢物語とは遠く離れている。
女性の外見の美のピークは25歳頃がピークと言っていいだろう。何もしなくても美容が保持され周囲から大事にされる最終年齢だ。それを越えるとちやほやされること自体が不自然になり、知性だの仕事の不出来だの気遣いだの、『中身』と言われる部分で評価されるようになる。しかしそれは絶対的な存在に対する敬服とは全く別物だ。『若く美しい』と言うだけで無条件に有り難がられることは、子供であるだけで許される甘えと同じく期間限定の特権である。平均以上に美しくそれを意識する女性はその短い時間を味わい尽くさねばと言う焦燥に駆られた経験が多かれ少なかれある筈だ。常人の何乗もの美を持ち、更に常人よりも遥かに短い耐性期間しか持たないリリコの切迫感は並大抵のものではない。しかも彼女も、全ての若く美しい女性がそうであるように、大スターでありながらごく限られた空間で生きている。「好きだ」「美しい」「欲しい」「かわいい」と言う言葉を何万回も浴びながら、生身のそれらと向き合うことは無いのだ。
「つべこべ言わずに、私が欲しいことを証明して、早く突っ込んで」それがリリコの叫びの翻訳に違いない。それは淫乱ともセックス依存症とも違う。誰の手を借りるのでなく自分の美を自分で消費し尽す、そのための行為なのである。だから相手など下らない男であろうが何だろうがどうでもいいのだ。
沢尻版リリコは『美の儚さ』に対してとことん意識的に演じられている。それも女優として自分を消費する沢尻自身があるからなのだろうが、それはえげつない台詞やセックスシーン以上に演者にとって精神を消耗するものに違いない。
「もっと綺麗にならなきゃ」意識が朦朧とするなかでリリコが呟く台詞だ。美に肉薄し美を消費する。それによって美の期間は更に縮まる。まだまだ若さが美しさと同一視され、奇形に近い一つだけの美だけが賞賛に値する日本社会で多くの日本女子が陥る罠である。それは他の大小の様々なものを無視し一つだけの小さな蟻の穴に全員がわき目も振らずに入りこもうという競争だ。美が平準化され、平均以上の美が容易に手に入るようになり、微小な差異で美への肉薄度が決まる。日本で若く美しい女性であることは最大の楽しさとしんどさを同時に味わえる言わば特権なのかも知れない。
最終的にリリコが見つけたのは、永遠に自分が女王で居られる場所だ。信奉者と異形の者だけが存在する世界で彼女は永遠に自分の美を誇っていられる。眼帯をしたリリコは安住の地を見つけたかのようにリラックスして見える。不特定の目に晒される場所から、自らが選んだ特定の目だけに囲まれる居場所へ、リリコの美と意識は次の段階へと進み映画は終わる。エンディングに流れるAAの「the Klock」は自分で自分を消費し続ける少女達のエネルギーと、そこに時折、気まぐれに訪れる静寂と休息とをまさに翻訳している。
主人公リリコを囲むのは夥しいほどの目である。映画は彼女の誕生から始まる。母胎である東京を埋め尽くすのは隙間無く並ぶ付け睫の数々とそれを値踏み少女達の目だ。単一の欲望のためにある限りの全手段を提供してくれる世話焼きな大都市東京。そこでデブ専風俗嬢だった田舎娘が全身整形でリリコとして生まれ変わる。
イットガールとして持て囃されるリリコだが、その美しさは末期のガン患者のように痛みと手間を伴う治療に支えられた期限付きのものだ。そして沢山の目に囲まれながらも周囲に存在するのはごく限られた人々だけ。その生活は埃をかぶったドールハウスのような自宅と病院、仕事場の往復だ。限られた時間と空間を疾走するリリコは常に情緒不安定で傲慢で、傍目から見れば最悪の女だ。そして除々に後遺症のアザが増え、天然美少女である新人がデビューすると彼女の人生は終わりに向けてカウントダウンを始める。
人物構成とストーリーに関しては、原作をかなり忠実に映画化した今作だが、沢尻エリカ演じるリリコはオリジナルと趣を異とする。まず、ひょろりとしたモデル体型と無機質な美貌の岡崎版リリコに比べ、沢尻版リリコは肉感的な肢体と愛くるしい顔である。沢尻エリカは決してモデル体型ではないし、本来『美しい』よりもアイドル的な『かわいい』顔立ちの女性だ。そして、岡崎版が示す思慮深さとは無縁のマネキンのリリコと対照的に、沢尻リリコは艶のある声と仕草で昭和の女優のような情念を醸し出している。(沢尻エリカが頭空っぽのセリフ棒読みモデルを演じるのは無理があると思う。)
しかしそれが原作には無い、人間臭さと切なさ、そしてそこから生まれる腹立たしさと愛らしさをリリコに吹き込んでいる。豊満な体と抑揚の効いた声色で周囲に居る者全てを誘惑し罵倒する。その一方で儚げに佇んで妹に弱音を吐き、幼女のように甘えて泣きごねる。リリコと言う『人形』それも二次元で表現されたものが沢尻エリカを通して見事に改訂されている。原作者の岡崎京子が意図的に描いた薄っぺらさは覆され、十字架を自ら背負った女の業がまざまざと画面に満ちる。ヒロインが変容しつつも主要となるテーマは原作と全くブレていない。それは沢尻エリカの『女優として生きること』と、リリコの『女であることを商品として生きる』ことがリンクしながら映画を牽引しているからだろう。監督の蜷川実花のキャスティングは的を得ており、沢尻エリカは大女優と呼ぶに相応しい好演ぶりだ。
難を付けるなら、大森南朋演じる捜査官とその周囲は必要ない。リリコの饒舌ぶりは狂言回しの必要性を排除する。文学的・抽象的なナレーターと勿体付けた演技は非常に陳腐で映画を安っぽくさえ見せている。
そしてその体当たりの演技は話題のセックスシーン全てに良い影響を及ぼしている。冒頭から恋人役の窪塚洋介との楽屋でのシーンは大胆だが猥雑で非常に美しい。人前での濃厚なディープキース、生々しい音の愛撫が続いた後で三面鏡の前で露骨な性行為が始まる。(蜷川実花の前作『さくらん』で遊女を描きながらもほとんどヌードもセックスも無かったのが腑に落ちなかったのだが、今作はのっけから剥き出しの性描写で驚いた。そしてそれはその性描写が今作の見せ場でないことの証拠だ。) その後は35にして田舎臭さの抜けないマネージャー役の寺島しのぶを挑発し、その恋人の脳みそつんつるてんのヒモを彼女の前で誘惑。きわどい台詞が続くが、沢尻エリカ以外が言えば安い企画AVになったに違いない。
これだけ誘惑と命令とセックスを続けながら沢尻リリコは不思議な純潔さを保つのに成功している。それは娼婦に純粋さを見出すタイプの馬鹿な男の夢物語とは遠く離れている。
女性の外見の美のピークは25歳頃がピークと言っていいだろう。何もしなくても美容が保持され周囲から大事にされる最終年齢だ。それを越えるとちやほやされること自体が不自然になり、知性だの仕事の不出来だの気遣いだの、『中身』と言われる部分で評価されるようになる。しかしそれは絶対的な存在に対する敬服とは全く別物だ。『若く美しい』と言うだけで無条件に有り難がられることは、子供であるだけで許される甘えと同じく期間限定の特権である。平均以上に美しくそれを意識する女性はその短い時間を味わい尽くさねばと言う焦燥に駆られた経験が多かれ少なかれある筈だ。常人の何乗もの美を持ち、更に常人よりも遥かに短い耐性期間しか持たないリリコの切迫感は並大抵のものではない。しかも彼女も、全ての若く美しい女性がそうであるように、大スターでありながらごく限られた空間で生きている。「好きだ」「美しい」「欲しい」「かわいい」と言う言葉を何万回も浴びながら、生身のそれらと向き合うことは無いのだ。
「つべこべ言わずに、私が欲しいことを証明して、早く突っ込んで」それがリリコの叫びの翻訳に違いない。それは淫乱ともセックス依存症とも違う。誰の手を借りるのでなく自分の美を自分で消費し尽す、そのための行為なのである。だから相手など下らない男であろうが何だろうがどうでもいいのだ。
沢尻版リリコは『美の儚さ』に対してとことん意識的に演じられている。それも女優として自分を消費する沢尻自身があるからなのだろうが、それはえげつない台詞やセックスシーン以上に演者にとって精神を消耗するものに違いない。
「もっと綺麗にならなきゃ」意識が朦朧とするなかでリリコが呟く台詞だ。美に肉薄し美を消費する。それによって美の期間は更に縮まる。まだまだ若さが美しさと同一視され、奇形に近い一つだけの美だけが賞賛に値する日本社会で多くの日本女子が陥る罠である。それは他の大小の様々なものを無視し一つだけの小さな蟻の穴に全員がわき目も振らずに入りこもうという競争だ。美が平準化され、平均以上の美が容易に手に入るようになり、微小な差異で美への肉薄度が決まる。日本で若く美しい女性であることは最大の楽しさとしんどさを同時に味わえる言わば特権なのかも知れない。
最終的にリリコが見つけたのは、永遠に自分が女王で居られる場所だ。信奉者と異形の者だけが存在する世界で彼女は永遠に自分の美を誇っていられる。眼帯をしたリリコは安住の地を見つけたかのようにリラックスして見える。不特定の目に晒される場所から、自らが選んだ特定の目だけに囲まれる居場所へ、リリコの美と意識は次の段階へと進み映画は終わる。エンディングに流れるAAの「the Klock」は自分で自分を消費し続ける少女達のエネルギーと、そこに時折、気まぐれに訪れる静寂と休息とをまさに翻訳している。