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LA VIDA DE MAR-RICO

デッサン代わり

自らの美を消費する女達『ヘルタースケルター』

2012年07月21日 00時21分25秒 | 映画評
東京が孕む欲望を忠実に翻訳する岡崎京子作品の中でも、本作の原作『ヘルタースケルター』は、『リバースエッジ』と並ぶ傑作だ。しかし主人公達の欲望に対する姿勢が両作品では異なる。後者のヒロインが海に浮かぶ土佐衛門のように倦怠感を持て余すのに対して、リリコは光の届かない深海に酸素ボンベ無しで一気に潜水するかのように閉塞感へダイブする。

主人公リリコを囲むのは夥しいほどの目である。映画は彼女の誕生から始まる。母胎である東京を埋め尽くすのは隙間無く並ぶ付け睫の数々とそれを値踏み少女達の目だ。単一の欲望のためにある限りの全手段を提供してくれる世話焼きな大都市東京。そこでデブ専風俗嬢だった田舎娘が全身整形でリリコとして生まれ変わる。

イットガールとして持て囃されるリリコだが、その美しさは末期のガン患者のように痛みと手間を伴う治療に支えられた期限付きのものだ。そして沢山の目に囲まれながらも周囲に存在するのはごく限られた人々だけ。その生活は埃をかぶったドールハウスのような自宅と病院、仕事場の往復だ。限られた時間と空間を疾走するリリコは常に情緒不安定で傲慢で、傍目から見れば最悪の女だ。そして除々に後遺症のアザが増え、天然美少女である新人がデビューすると彼女の人生は終わりに向けてカウントダウンを始める。

人物構成とストーリーに関しては、原作をかなり忠実に映画化した今作だが、沢尻エリカ演じるリリコはオリジナルと趣を異とする。まず、ひょろりとしたモデル体型と無機質な美貌の岡崎版リリコに比べ、沢尻版リリコは肉感的な肢体と愛くるしい顔である。沢尻エリカは決してモデル体型ではないし、本来『美しい』よりもアイドル的な『かわいい』顔立ちの女性だ。そして、岡崎版が示す思慮深さとは無縁のマネキンのリリコと対照的に、沢尻リリコは艶のある声と仕草で昭和の女優のような情念を醸し出している。(沢尻エリカが頭空っぽのセリフ棒読みモデルを演じるのは無理があると思う。)
しかしそれが原作には無い、人間臭さと切なさ、そしてそこから生まれる腹立たしさと愛らしさをリリコに吹き込んでいる。豊満な体と抑揚の効いた声色で周囲に居る者全てを誘惑し罵倒する。その一方で儚げに佇んで妹に弱音を吐き、幼女のように甘えて泣きごねる。リリコと言う『人形』それも二次元で表現されたものが沢尻エリカを通して見事に改訂されている。原作者の岡崎京子が意図的に描いた薄っぺらさは覆され、十字架を自ら背負った女の業がまざまざと画面に満ちる。ヒロインが変容しつつも主要となるテーマは原作と全くブレていない。それは沢尻エリカの『女優として生きること』と、リリコの『女であることを商品として生きる』ことがリンクしながら映画を牽引しているからだろう。監督の蜷川実花のキャスティングは的を得ており、沢尻エリカは大女優と呼ぶに相応しい好演ぶりだ。
難を付けるなら、大森南朋演じる捜査官とその周囲は必要ない。リリコの饒舌ぶりは狂言回しの必要性を排除する。文学的・抽象的なナレーターと勿体付けた演技は非常に陳腐で映画を安っぽくさえ見せている。

そしてその体当たりの演技は話題のセックスシーン全てに良い影響を及ぼしている。冒頭から恋人役の窪塚洋介との楽屋でのシーンは大胆だが猥雑で非常に美しい。人前での濃厚なディープキース、生々しい音の愛撫が続いた後で三面鏡の前で露骨な性行為が始まる。(蜷川実花の前作『さくらん』で遊女を描きながらもほとんどヌードもセックスも無かったのが腑に落ちなかったのだが、今作はのっけから剥き出しの性描写で驚いた。そしてそれはその性描写が今作の見せ場でないことの証拠だ。) その後は35にして田舎臭さの抜けないマネージャー役の寺島しのぶを挑発し、その恋人の脳みそつんつるてんのヒモを彼女の前で誘惑。きわどい台詞が続くが、沢尻エリカ以外が言えば安い企画AVになったに違いない。
これだけ誘惑と命令とセックスを続けながら沢尻リリコは不思議な純潔さを保つのに成功している。それは娼婦に純粋さを見出すタイプの馬鹿な男の夢物語とは遠く離れている。

女性の外見の美のピークは25歳頃がピークと言っていいだろう。何もしなくても美容が保持され周囲から大事にされる最終年齢だ。それを越えるとちやほやされること自体が不自然になり、知性だの仕事の不出来だの気遣いだの、『中身』と言われる部分で評価されるようになる。しかしそれは絶対的な存在に対する敬服とは全く別物だ。『若く美しい』と言うだけで無条件に有り難がられることは、子供であるだけで許される甘えと同じく期間限定の特権である。平均以上に美しくそれを意識する女性はその短い時間を味わい尽くさねばと言う焦燥に駆られた経験が多かれ少なかれある筈だ。常人の何乗もの美を持ち、更に常人よりも遥かに短い耐性期間しか持たないリリコの切迫感は並大抵のものではない。しかも彼女も、全ての若く美しい女性がそうであるように、大スターでありながらごく限られた空間で生きている。「好きだ」「美しい」「欲しい」「かわいい」と言う言葉を何万回も浴びながら、生身のそれらと向き合うことは無いのだ。
「つべこべ言わずに、私が欲しいことを証明して、早く突っ込んで」それがリリコの叫びの翻訳に違いない。それは淫乱ともセックス依存症とも違う。誰の手を借りるのでなく自分の美を自分で消費し尽す、そのための行為なのである。だから相手など下らない男であろうが何だろうがどうでもいいのだ。
沢尻版リリコは『美の儚さ』に対してとことん意識的に演じられている。それも女優として自分を消費する沢尻自身があるからなのだろうが、それはえげつない台詞やセックスシーン以上に演者にとって精神を消耗するものに違いない。
「もっと綺麗にならなきゃ」意識が朦朧とするなかでリリコが呟く台詞だ。美に肉薄し美を消費する。それによって美の期間は更に縮まる。まだまだ若さが美しさと同一視され、奇形に近い一つだけの美だけが賞賛に値する日本社会で多くの日本女子が陥る罠である。それは他の大小の様々なものを無視し一つだけの小さな蟻の穴に全員がわき目も振らずに入りこもうという競争だ。美が平準化され、平均以上の美が容易に手に入るようになり、微小な差異で美への肉薄度が決まる。日本で若く美しい女性であることは最大の楽しさとしんどさを同時に味わえる言わば特権なのかも知れない。

最終的にリリコが見つけたのは、永遠に自分が女王で居られる場所だ。信奉者と異形の者だけが存在する世界で彼女は永遠に自分の美を誇っていられる。眼帯をしたリリコは安住の地を見つけたかのようにリラックスして見える。不特定の目に晒される場所から、自らが選んだ特定の目だけに囲まれる居場所へ、リリコの美と意識は次の段階へと進み映画は終わる。エンディングに流れるAAの「the Klock」は自分で自分を消費し続ける少女達のエネルギーと、そこに時折、気まぐれに訪れる静寂と休息とをまさに翻訳している。



サバーブを繋ぎとめる最後の糸『ブロークンフラワーズ』

2012年07月21日 00時20分24秒 | 映画評
過去の恋人達を訪ね歩く旅はアメリカを探す旅となる。今作『ブロークンフラワーズ』には、アメリカのかつての姿と喪失を描き、微かな希望を滲み出すことに成功している。この70年代のロードムービーを発酵させたような味わい深い小作は、コミュニティの存続を可能にする一抹の光を切なくも可笑しく描き出す。

かつてはドンファンと呼ばれたその名もドン・ジョンソンは、同棲していた恋人に振られ今は独り身の初老の男に過ぎない。その彼に届くのはピンクの便箋に赤い文字で書かれた差出人不明のメッセージ。「貴方には19歳になる息子がいるの」。ドンは心当たりのある5人の元恋人達を訪ね歩くことになる。

言うまでも無くドンは現在のアメリカの姿だ。仕事にも成功し何もかも手に入れたようで何も残っていない無表情の男は着古したジャージのまま日がな一日ソファで過ごす。彼の無気力の正体は恋人達によって少しずつ明かされる。事業に成功したシングルマザー、夫と不動産を営む元フラワーチルドレン、スピリチュアルのカリスマとなった元やり手弁護士、典型的なホワイトトラッシュに甘んじる孤独な女、そして死んだ女。彼と恋人としての時間以外を共有していない5人の女は、急に現れた昔の恋人に対し歓迎したり、ただ戸惑ったり、罵しったり、また全く無反応だったりする。そこで明らかになるのはドンファンであった彼が彼女達の人生にほとんど関与出来なかったと言う事実だ。頻繁に連絡を取り合うような仲の者は居らず、現在の彼女達は誰も彼を必要としていないのだ。

彼女達はまたアメリカの光と闇とをそれぞれ体現している。ビジネスウーマンとしての成功、反体制から土地転がしへの没落と変容、物質社会から精神世界への移動、社会の底辺、そして死そのもの。そこに『古きよきアメリカ』が示すようなコミュニティや家族の存在は見られない。中流家庭の妻として子供を育てるといった典型的なサバーブの幸福を体現する者は誰も居ない。彼女達は伝統的なコミュニティに守られることはなく、またそれに頼ることはなく個人として人生を生き選び堕ち死んでいる。ドンと彼女達は個人として出逢い別れたが、そこにコミュニティは介在しない。アメリカ人にはもはや帰属する場が消滅してしまったかのようだ。

便箋と同じピンクの花をプレゼントし彼女達の真意を計ろうとするドンだが、結局真相は分からずじまいだ。しかし誰もがピンク色の所持品を何かしら持っている。それは誰もがメッセージの差出人である=相手のことは決して理解出来ないという示唆だろう。中流家庭が象徴するコミュニティと価値観が崩壊した後で、アメリカ人同士が共有出来る絶対的な代替はまだ見つかっていないのだ。

そしてここで大事な登場人物を挙げたい。ドンの隣に住むウィンストン一家だ。エチオピア移民の彼は工場で働き、素朴だが艶やかなアフリカ人の妻を持ち、愛くるしい子供達に囲まれている。音楽と色彩で溢れる彼の家はドンの家の寒々しさと対照的である。アフリカ人らしい暖かさとお節介さを持ち合わせたウィンストンはドンの家に勝手に入って音楽を付け、朝食に招待し、彼のプライベートを詮索し、元恋人達の住所と近況まで調べ上げ、チケットとレンタカーの手配までする。無愛想で素っ気無いドンだが拒否する素振りを見せながらも結局はウィンストンの言うとおりに旅を決行し、行く先々で彼に電話し成果を報告するのだ。

ウィンストンが体現するのは大家族制と言うコミュニティそのものだ。それは現在も有効に機能している『生きた』もので、ドンが手に入れられなかったものである。ウィンストンが帰属すべきコミュニティを持ちえた理由は皮肉にも彼が移民だからだ。アメリカという外国で暮らす移民は母国を同じとする移民とそのコミュニティが必要なのだ。それが自明のウィンストンはドンに対してもコミュニティでのコミュニケーションを使用し、それを知らないドンとの間でそれは機能している。

映画のラストでドンが唯一人間らしい表情を見せる瞬間がある。自分の息子らしき少年との出逢いだ。しかしそれは一瞬にして跡形も無く崩れ去る。アメリカ人がかつてサバーブを纏め上げていたようなコミュニティを復活させるのは難しいだろう。埋められない程広がった所得差と個人主義がそれを阻んでいる。しかし、ヒビだらけのアメリカの内部は外部である移民によって繋ぎとめられることもある。単純な移民の是非では無く、他者の存在が閉塞する内部を好転させるという可能性の一つが読み取れるのだ。

何重もの"ロストイントランスレーション"「鬼が来た!」

2012年07月08日 17時53分50秒 | 映画評
戦争の残酷さを語る、人間の命の尊さを伝える、極限状態の人間の恐さを表現する。『戦争映画』に付きもののコピーや紹介が全く役に立たないのが本作「鬼が来た!」だ。人間の感情や感傷に頼ることなく、細部まで計算し尽くして製作されたこの映画が描くのは、ソフィア・コッポラのお洒落映画の題名でもある『ロストイントランスレーション(翻訳で失われる何か)』そのものなのだ。

2000年公開の中国映画だが、画面は99%モノクロ(最重要の残り1%をカラーにするところがまた憎い)で時代背景は1945年の終戦直前、場所は中国華北地方の小さな村だ。穏やかで平和な村だが、日本軍の占領下にありシナ人たちはその顔色を窺いながら生活している。軍歌と共に行進する日本兵から飴玉をもらう子供たちや、村人から鶏を分捕ろうとする明らかに無教養な若(バカ)日本兵の描写から、占領が長く生活の一部になっていることが窺える。冒頭から繰り返される軍艦マーチは不穏を運ぶ乾いた風のようだ。

ある夜村人の一人マーが恋人ユゥーアルと睦み合っていると、「我(ウォー=私)」と名乗る何者かが大きな麻袋二つを持ってきて自分が戻るまで預かるよう銃で脅す。その中に入っていたのは日本人兵の花屋と日中国語を自在に操る中国人通訳。村会議の結果マーが二人の面倒を見ることになる。

ここで最初の『ロストイントランスレーション』が起こる。シナ人の捕虜になるなら死を選ぶという典型的軍国日本兵の花屋は罵倒と挑発を繰り返す。但し勿論日本語でだ。全く理解出来ない村人たちは「何だかやけに長い名前だな」などととぼけた反応を繰り返し、命が惜しい中国人通訳は花屋の意図と正反対の翻訳をする。「中国語で罵倒して俺を殺させる」という花屋に通訳が「お兄さんお姉さん新年おめでとう! 貴方は私のおじいさんで私は貴方の息子だ!」という中国語を教え込むシーンは抱腹ものだ。怒声で新年の挨拶をする日本人を訝しがる中国人カップルに、平然とした顔で「日本人はいつも怒ってるんだ」と言い放つ通訳。「俺がお前のおじいさんならお前は孫じゃないか」と優しく突っ込み餃子を作ってやるマーは世界中の田舎にいるだろう実直で面倒見のいい男だ。

結局二人を引き取ると言った「我」は現れず、持て余した村人達は二人を殺そうとするが、マーにそんなことは出来ず、はたまた伝説の処刑人リウは口だけの老いぼれで失敗し村人達にギャク切れする始末。二人を解放することが決まった頃には花屋も人の情と死への恐怖に目覚めている。その時に初めて『翻訳のズレ(と言うより曲解だが)』が通訳から彼に知らされる。軍曹である花屋は村人達に食料を分配することを約束し深々と頭を下げる。

ここまでが長い映画の前半で、ドタバタ喜劇に近い『ロストイントランスレーション』だ。間違った翻訳によって悪意や敵意が取り払われ、最終的にはそのものが消去された様子はイソップ童話や昔話が示唆する教訓話のようでもある。しかし後半の『ロストイントランスレーション』は全く次元の違うものになる。

捕虜二人とマーを初めとする村人達が向かうのは、村とは全く文脈の違う日本軍基地であり、そこで待っていたのは超軍国主義による身体的・精神的リンチとそれを牽引する酒塚隊長だ。彼は生還した花屋を袋叩きにしながらも村人に約束の量を遥かに超える食料提供を村人たちに提案する。一発触発な危険性を孕みながらも表面的な牧歌性は続く。子供に飴玉を与える海軍長を挟みマーと長老は初めて電話でやり取りする。無邪気に思いがけない幸運と(当時の)最先端技術と喜ぶ二人。そしてマーの村で日本軍と村人達の酒宴が幕を切る。

それこそが第二の、そして究極の『ロストイントランスレーション』の幕引きなのだ。人種と言語の相違を超えた酒盛りがピークに達したその時、酒塚隊長は突如花屋の殺害をシナ人に提案し、静まり返る場をまとめるように彼は『村人達はゲリラなのだ』と暗に宣戦布告する。この時に酒塚をなだめようとするのが酩酊した一人の村人だ。「武器を捨てろ」「マーが連れてくるのは女房であって敵ではない」「怖がる必要はない」と兄弟をいなすかのように酒塚の肩を叩く。場の殺気を感知した中国人通訳はそれを何一つ意訳せずに和訳する。しかし、この『完全な通訳』こそが数分後に始まる惨事を招く。翻訳によって酒塚の憶測が現実のものとなり、それまで微塵にも無かった殺意と悪意とが突如として酒宴を支配するのだ。

それ以降の筋は是非鑑賞することで確認して欲しい。日中関係、太平洋戦争をどのような視点で観るものであっても見るべきものだ。フィクションかノンフィクションか、右か左かを越え、もはや『戦争映画』というジャンルを越えているのが今作だ。注目すべきは劇中の登場人物のほとんどが、通訳/翻訳という仕事に全く疑問を持っていないことだ。自分達の意思はそのまま相手に通じ明記化されていることを信じて止まない。唯一疑問を呈するのが、食料譲渡を約束する花屋に対する村の長老である。異なる文脈を持つ者と接する緊張感はほぼ存在しない。外交官でも無いのだから当たり前かも知れないが、『他者に伝える』という根本的なコミュニケーションへの軽視が喜劇と悲劇の二重の『ロストイントランスレーション』を生み出しているのだ。

ラストのカラーのシーンは現実から乖離した『ロストイントランスレーション』が生み出した現実そのものだ。人間の歴史はうんざりする程こうした非現実と現実を重ね今に至っていることを直視させてくれる映画である。


ブルーバレンタイン 持たざる者が欲しがるモノ

2012年06月19日 21時37分44秒 | 映画評
恋人と見てはいけない映画ベスト1と言う、名誉なんだか不名誉なんだか分からない称号を得た今作。

1組の若い夫婦の亀裂が決定的になるまでを二人の愛が成就するまでの過程と交互で描くという、斬新なスタイルで話題になった映画だ。「そして、シンデレラは幸せに暮らしました」のその後を徹底的にリアルに追求したらこんな感じになったろうね。世間知らずで惚れっぽい王子様と結婚したシンデレラはきっと継母以上に嫌な姑にいじめられ、マザコンの王子様は守ってくれず、せめて自分と血の繋がる子をと王子を生んで溺愛し、王様になった王子のキャバクラ通いに目くじらを立てながら、新たに世間知らずで惚れっぽい王子を育て上げるんだろう。継母たちのいじめに耐え抜いてきたんだからそれぐらいの強かさは持ってる筈だ。

すっかり旦那に愛想を尽かしたシンディとそこから目を背けるダメ愛しい夫のディーン。ディーンが何とか仲を戻そうと結婚記念日に二人だけでデートしようとするが、そのプランがまず痛すぎる。
場所は安モーテル、青春がピークの時に二人で聴いたcheesyなラブソング、そしてお決まりの安酒。シャワーの中での愛撫に全く反応しないシンディが痛いぞーーーーーーーー。私が男だったら目も当てられないシーンだ。

感情的に見れば「家族を愛し何とか修復しようと試みる優しい夫と完全に冷めきった冷たい妻」だ。ディーンに同情する声が私の周りも多数。しかしもうすっかりおばさんになってしまった私はそもそもの二人の社会的差異の方がずっと気になる。

シンディは中流かややそれより上の家庭で育っている。両親の揃った家庭で、高等教育か技術を持たないとまともに生きていくのは難しいという前提で育っている。かと言ってそこまで上流ではないので、ろくでもない彼氏が居て(それは十代か二十代初めの女の子が当然踏むステップとも言える)ただセックスするためだけに時間を過ごした経験もある。こういうのも色んな意味で「余裕がある」から出来るのだ。女の子のこういう経験をきちんと描く作品ってあまり無いのは気のせいか。

一方のディーンはいわばホワイト・トラッシュだ。確か(ここはうろ覚え)両親は離婚したか居ないかどちらか、高校卒業と同時にNYにやってきて引越し屋で働く。無茶苦茶気のいい奴なのは確かだが、教育を受けずその重要性を認識出来る環境で育っていない。家族に恵まれなかったのが反映し家族に憧れを抱いている。「幸せな家族を作ること」というコギャル(死語)みたいな夢が彼の夢なのだ。センスはいいがそれを実際的に生かす方法なんか全く知らないし知る機会も無い。結局安ビールを飲んでゲップする日々がスタートする。

「生まれが違う」とかそんなざーますおばさんみたいなことは言いたくないが、もともと持っているモノと欲しいモノが違い過ぎるのだ。シンディが男性に対して結構現実的であることも尾を引いている。遊びでセックス出来て経験人数も多い女の子が「結婚が夢」という生活力の無い純粋なだけの男性と上手く行くだろうか?逆のパターンなら(男が遊んでいて女の子が一途で、男が生計を立ててる)ならアリだろうが。

自分が計画立てて資格を取って仕事を始め面白くもあり責任も感じという時に、
高校時代に二人で行ったカラオケで歌ったミスチルの『抱きしめたい』か何かを後生大事にBGMにし、たまに友達の居酒屋かなんかの手伝いで日銭を稼ぎ、それで安い発泡酒を買ってきてカキピーと一緒に飲んでる旦那が居たら。。結婚記念日に家の近くのラブホで「抱きしめたい」を聴かされ呆れるのも疲れてシャワーを浴びてる時に彼が入ってきて愛撫を始めたら。。。

私も無視して寝ちまうわ。

「高校は出てるんだから何か資格取ったら?」「貴方はセンスがあるんだからデザインの勉強でもしたら?」
シンディは何度もそういうことを提案したのではないだろうか?
「俺は家族がいればいいんだ。」「俺の夢は君と娘といることなんだ、他に何も要らないよ」
そんな返事が還ってきたのかも知れない。

まずこんな純粋な男性が要るのだろう?純粋というか無知と言うかバカかわいいというか。。
それもNYに。。まああそこはどんなタイプの人間でもいるからな~。

「ある夫婦の愛の終わり」よりも「持たざる者の不幸」の方が気になってしょうがない映画だった。

そして何となく思い出したのが、発展途上国や貧しい国の子供達を的外れに美化したドキュメンタリーだ。
「家族が何よりも大事だから。」
「大きくなったらお医者さんになって皆の病気を治したいの」
そういってゴミ山で鉄くずを拾ったり、山道を何日も歩いて学校に行ったりする子供達を紹介して、
「こんなに貧しくても○○ちゃんはお母さんのために頑張っているのです」
「お金よりもずっと大事なものがあるのです。心の豊かさ(って何だよ)を忘れてしまった日本人がどーの」
と完全にこちら側(先進国日本)の文脈でコメント付けるあれ。

家族とゴミ山しか存在しない世界に住む少女がどうやって他のものを大事にするのだろう?
職業と言ったら医者と教師しか知らない少年が他に何になりたいと思うのだろう?投資銀行でも行きたいってか?

全く彼らの目線に立てていない。情報量が極端に少ないからそこから彼らは選んでいるだけだ。
そう言うのは間違いなのだろうか?
想像力を一切働かせない番組の作り方にいらいらするのは私だけなのだろうか??











ニューヨーク生活 映画編 Beetle Queen conquers Tokyo

2010年06月02日 10時31分46秒 | 映画評
日本の自然の艶やかさは理想とされる美人のそれに通じるかも知れない。西洋の“セクシー”とも、ルーツの近い漢民族の嗜虐的な美とも異なるもの。どこまでも受容的でそれ故にしなやかな支配権を持つかのような、大地に染込む夥しい雨粒のような圧倒的な静寂を湛えたエロス。

「Beetle Queen conquers Tokyo」は自然博物館に勤務する20代半ばのアメリカ人女性が初めて監督したドキュメンタリー映画だ。カブト虫を初めとする昆虫が老若問わず人気商品となり他国では考えられない大きな市場を産む日本。映画はその熱狂の理由を歴史的背景から分析し日本の世界観と価値観を探り、本格的な文化論を展開する。

その昔神武天皇は日本を“あまつ(とんぼ)の国”と詠んだ。卑小で儚い命の昆虫に、日本人は自身と人生を投影してきた。例えば蛍は失恋の象徴で、とんぼは勇敢さを表す。まるでネイティブ・アメリカンが動物を力や知恵の象徴として敬ったようにだ。しかし日本人の昆虫への関心は多少趣が異なる。フィルムに映し出される、体液で濡れた体をくねらせる昆虫達は非常にエロティックで、仮面のようなその表情はより食と性という本能に忠実であることを感じさせる。更に短い生の中で子孫を残さなければならない訳で、セックスに対する切実さは哺乳類の比では無い。儚さとエロスは密接な関係にあるのだ。

神道は厳しい戒律や教義を持たず、大陸から伝わった仏教が交じり合うことを許した。この世に存在するものは全て魂を持つと言うアニミズムは、来世昆虫のような小さな生物に生まれ変わるかも知れないと輪廻転生を受け入れたのである。一神教と比べると明らかだが、神道も仏教も人間を世界の中心では無く自然や宇宙の一部として捉えている。映画は“もののあはれ”と自然への一体感が昆虫への深い愛情とリンクしていることを、日本書紀や源氏物語など古典を引用し丁寧に示唆する。

しかし現在の熱狂振りはその愛情に起源を持つものの、現曲折した“偏愛”と呼ぶに相応しい。サイズや艶により細かく値を変えられるブラスティック箱に入ったカブト虫。小さな建売住宅のリビングで養殖されたそれを小突き回す子供達。デジタルの昆虫達が戦うビデオゲームを瞬きせずに見つめる子供達。彼らに教室で手取り足取り昆虫採集の方法を教える業者達。
“世間”を母胎とし高度成長を青春期にして成熟した日本型資本主義の姿がその背景に見える。

「カブト虫を売って買ったんだよ。」
静岡の山奥でカブト虫を捕まえ幼虫を飼育して大金を手にした男は真っ赤なフェラーリを自慢する。伸びた茶髪とランニング姿で沼津ナンバーのフェラーリを走らせる男は、文化的情緒とは明らかに無縁だ。しかし商品である昆虫を扱うその仕草は奇妙に慇懃で下世話な艶かしさすら感じさせる。

“世間”が許す限り存在するもの全てを商品とし、そして全ての存在と媒体とは“世間”によって商品化される。カブト虫も、その餌も、飼育法も全て余すところ無く売買される対象となる、“世間”が欲望する限りどんな些細な事柄でも材料でも値が付けられ、一度商品となるとそれはどんどん洗練されて行く。

昆虫達は神秘的でエロティックな巫女から、格子に囲まれて身動きできない女郎と化したのだ。前述した業者の男は女郎屋だったのである。

「禅や俳句など、日本人は最小限のもので以って最大限に表現するという手法を古代より用いてきた。最小の世界に、世界全体を見たのだ。」
NYの小さな映画館で、日本語のナレーターが理解できたのは私だけだったろう。それは今ではNHKのアナウンサーでさえ難しいだろう完璧な半濁音の日本語だ。

アニミズムの島国が抱いていた最小の世界にも、変幻自在の資本主義は難なく入り込んだ。真っ白な半紙そのものの神道は、海の向こうから流れてきた混ざり物だらけの液体に浸って溶け、その輪郭を無くしている。

http://beetlequeen.com/

※West4の映画館IFCセンターで4日迄上映中