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LA VIDA DE MAR-RICO

デッサン代わり

モノかヒトかは自分次第 『the Big One』

2014年01月11日 21時37分47秒 | 映画評
『法人』について初めて意識し、その後何かあると思い出してしまうのは岩井克人の法人論による。

法律の上で人格を持つのが『法人』。
その発祥は中世の修道院だったらしい。施しで生活し所有を認められない修道士の代わりに法人が『~修道会』として寄付を受け取り所有した。必要に迫られて発生したシステムだったのだ。
『法人』は信任者を必要とする。契約者ではない。法人の代わりに責任と倫理を持って財産を管理する人間だ。
その後法人は企業や会社へと変貌を遂げていく。法の上では人となり、財産や社員を所有する。同時に株主に所有されるモノでもある。

『会社は誰のものか?』と『資本主義から市民主義へ』は何度でも読み返したい名著だ。何がすごいって経済学部出身なのに株のシステムにさえ無知だった私が面白いと思えるほど、分かりやすく言葉をつむぐことだ。

株主市場主義という「法人/会社=モノ」なのがアメリカで、終身雇用に代表される「会社のイエ化、法人=人」なのが日本ということを岩井克人さんは言っていた。

『Big One』を見て、そして自分に勤める会社を見て、友人や知り合いの働く会社を聞いて思ったことがある。

労働者/消費者は会社をヒトだと信じ、経営/管理者は会社をモノとして扱う。
まるで男女のすれ違いのようだ。

マイケルは全国各地で一方的に解雇され不当な扱いを受ける労働者達に会う。

GMの工場が閉鎖された田舎。工場閉鎖を知ったのは前日でこれからは時給半分で働く以外に選択肢がない。

大型書店チェーン店のボーダーズに労働組合は無く時給はなんと6ドルだ。
「10ドルなんて贅沢は言わない。せめて8ドルにして欲しいよ」30代に思しき青年がそんな発言をする。良識的な雰囲気できちんと話す男性だ。

『全米最悪の都市』でサイン会を行ったムーアの前に現れた女性は前日解雇になったと涙ぐむ。今の子供たちが30、40になったときのことを考えると泣けてしまうのだという。

全国の工場は閉鎖され人件費の安いメキシコへ移る。インドネシアへ移る。第三世界へと移る。いわゆるSweat Shopだ。学校に行けない貧しい子供を1日中拘束しトイレに行くのも制限して安い給料で働かせる。

「競争力を保つためです。competitiveでいるためです。」
大企業の広報はそれ以外のことは言わない。
ムーアと唯一直接会ったNikeの社長も同様の趣旨の発言をした。それが資本主義、貧しい国に技術と仕事を与えてる、Nikeを世界一のメーカーにしたい云々。

彼らには全く罪悪感や反省の色が見えない。自分たちの決定で学校に行けなくなったり怪我したり死んだり不幸な人間が増えることに全く疑問を感じていない。

天災かコントロール出来ないロボットの仕業でもあるかのような対応をする。
つまり会社は人間としての倫理を持たず決定も出来ないモノなのだと主張しているのだ。

反対に社員はヒトとしての会社を愛し尽くし尽くされてきたと実感しているようだ。祖父の代からの仕事だった、こんなに冷たい仕打ちを受けると思わなかった、仲間にこんな仕打ちをするなんて信じられない等々。

映画の最期でNikeの工場で働きたい失業者たちが社長に訴えかえる。それもヒトとしてのNikeに。「俺はジョーダンしか履かない」「アメリカのNo1メーカーで大好きだ」
ビデオを見ても社長の顔色は変化なし。モノとしてのNikeに感情などない。

消費者と労働者にとって厄介なのは会社がヒトとモノの部分を上手く使い分けることだ。

例えば日本は「会社=イエ(ヒト)」「会社=モノ」がコインの裏表のようにころころ変わり利用されるようになっていることだ。あまりにも都合よく反転するため若い人は対応できずにいるだろう。
「みんなやってるんだから残業して、飲み会行って、手伝って」というイエ主張がされたかと思うと、「不況だからサビ残にするよ、ボーナスカットにするからね、賃金上昇ももちないよ。だってしょうがないじゃん、それが資本主義っていう鉄人28号で僕ら何にも出来ないもんね!!」というモノ主張が当たり前のようにされる。挙句の果てに「出来ないないらイエから追放するよ!君を拾ってくれる余裕のあるイエなんかあるのかな!?」というイエからの脅しを受ける。なので一度イエに入るとほとんど何も断れずに黙々と働くことになる。家族や子供を持つと余計にイエから追放される訳には行かなくなる。
イエアピールを日常的にして情緒に訴え罪悪感を煽るのが日本の会社の更に厄介なところだ。「みんなでがんばろう」は「お前だけ抜け駆けすんなよ」「自分だけ楽しようなんて思うなよ」に翻訳される。

(駄目な日本企業は「駄目な亭主」に似ていると感じる。結婚生活が長いからという訳の分からない理由で甘えてきて、何かしてやっても感謝もなく当たり前面。離婚されることなんてないと思って努力などしない。離婚を口に出したら顔を真っ赤にして怒り出す。しないなんて保障はどこにも無いのにだ。)

NikeもGapも他ブランドも感動的なCMやマーケティングを作り『ヒト』の部分を強調している。ジョーダンやマドンナの物語に感動しつつそれがブランドそのものとなるのだ。でもその広告作成費が無かったら、値段は半分になり労働者の賃金は倍になるって可能性はないのだろうか。

会社がイエとモノを使い分けて迫ってくるとき、こちらも同じように分けて対応すべきだろう。


el momentito bonito

2013年10月20日 23時00分09秒 | 映画評


初めてこのシーンを見たときまるで敬虔な尼僧達がコーラスしているかのように感じた。
I felt like that some earnest nuns chorus when I saw this scene.



「Sticking with you」を聞きながら彼を解体するバスルームのシーンが最高なのだが無かった。
最期のシーンも好き。いつも一人でヘッドフォンを聞いている。
Could not find my most favorite Bath room scene so updated the last scene instead.
SOLITUDE may be the most beautiful thing the human can get.



Love the dance&kiss scene.and Bull teria sleeping next to Jane.

Back to Garden of Eden エデンの園への帰還 『KEN PARK』

2013年09月15日 20時19分09秒 | 映画評
ラリー・クラーク作品はティーンエイジャー達の無軌道な性をドキュメント的に描くことで知られる。しかしそれはあくまで表面的なものに過ぎない。彼が描くのはその背景にあるアメリカの家族とコミュニティの崩壊と変化だ。

『KIDS』が日本で公開され話題になったののが90年代半ば。日本社会が高度成長期のコミュニティと価値観を維持できなくなりそれが露になった時期と重なる。90年代半ばから後半にかけて青春期を過ごした人で『KIDS』が好きな人は結構多い。

若者の無軌道な性というテーマは特に新しいものではない。今では面倒臭い年寄りの代名詞となった石原新太郎の「太陽の季節」も村上龍の「限りなく透明に近いブルー」もケルアックの「路上」もそうだ。その3作品もそれぞれ価値観や社会基盤の崩壊を母体に描かれたのだろう。

クラークの作品は、超格差社会と個人主義へ繋がり、そしてピューリタンの価値観にしがみつきざるを得ないぼろぼろのアメリカンコミュニティを描いている。

『KEN PARK』の主人公4人の少年少女の家庭はそれぞれ歪んでいる。が不思議と機能不全とは言いがたい。土台が欠けたまま建てられたものの大きな地震も台風も来ないので住める住宅のようなものだ。

朝から高校生の息子に煙草をねだる母親。大きな腹を抱えたまま酒と煙草をたしなむ母親。娘の彼氏の体を弄ぶ美しい母親。狂信的な父親を残し死んだ母親。彼女達は皆それぞれに愛らしさがあり、子供への愛情が足りない感も無い。
父親たちは少し違う。
美少年の息子が気に入らないマッチョな父親。自分の理想を娘に押し付ける父親。そして居ない父親。
マッチョで押し付けがましい神であり、肝心なときに居ない神。それが現代アメリカの父親像の一つなのかも知れない。
自分勝手に力を振るう父親とそれを自然と受け入れる幼女のような母親の姿がそこにある。

『KEN PARK』に比べると『American Beauty』の家族の歪みは非常に日本人には理解しやすい。彼らはアッパーミドルクラスの家族だからだ。『KEN PARK』はロウアーミドルクラスの家族だろう。なので歪みがもう一段階ひねられている。

4人の少年少女はそんなアメリカン・ファミリーのもとで何の疑問もなくすくすく育つ。少年達は筋肉もきちんと付いておらず声もまだ高く折れそうな肢体をスケートボードに乗せる。少女は彼らよりは成熟しているがそれは体が女に近づいてる意味であり知性や思慮が身についてるわけではない。

『American Beauty』の一人娘である暗い目のソーラ・バーチは、会社でうだつの上がらない父親とボジティブを振りかざし理想の親子を演じる母親とをはっきりと憎み軽蔑している。大きなテーブルでナイフとフォークを並べたディナーをとり、可愛らしく十分に広い一人部屋を与えられ大事に育てられた一人娘は無表情でチアリーディングのダンスを踊る。彼女の無気力さを投げやりな態度は思春期の通過儀礼で必需品でもある。それは一過性のものと言ってよい。

『KEN PARK』の主人公達にはそんな余裕が無い。彼らには反抗も疑問もほとんど感じられない。ただ親たちの勝手な言動に素直に混乱するだけだ。何の準備も危機感も無いまま危険地帯に行って弄ばれる存在に近い。

唯一可能性のある少年には両親が居らず、友人達の親以上に無神経な祖父母がいるだけだ。少年は祖父母も自分自身も殺すことを選び人生を拒否する。

映画の終わりで穏やかな音楽と共に残された3人の少年少女たちが3Pしている。生き残ったわけではなくただ取り残された3人である。

主婦に弄ばれるときの緊張感や彼氏とのSMまがいのセックスの攻撃性などは微塵もない穏やかな時間を3人は過ごす。他に何もやることがない。戦うことも考えることもコミュニケーションをとることも拒否して癒しあう性行為はエデンの園の再現のようだ。
「ユートピアは誰もがセックスし合って戦争のない世界」と3人の一人が言う。
蛇が咥えた林檎をかじる前の世界。罪も悪も何も意識しなくてよい世界を彼らは選択する。

きっと彼らはごくごく自然と彼らの親たちの世界へと突入していくのだろう。エデンの園があったことなどすぐに忘れる。彼らはケン・パークが居たことすらうろ覚えなのだから。

感傷を拒否し続けた報いが来る。

2013年07月28日 11時54分01秒 | 映画評
映画や本の中の登場人物は年をとらない。でも私は年を取った。

全く何の予備知識も無しにシネマライズへ足を運んだのはキャッチコピーと予告編から感じられる気配だった。21,2歳の頃だった。若いときの自分の嗅覚は恐ろしい程正確だったように感じる。

ヘッドフォンをつけるとユメは現実になる。

稀有なキャッチコピーだ。単館系と言われるものは概して良いコピーが多い。

監督のリン・ラムジーも、主演のサマンサ・モートンも、エイフェックス・ツインも知らなかった。
しかし大好きなヴェルヴェッツの知らない曲が最も重要なシーンに溶けるように使用されていた。

青い画面の中で、ソファに寝転びながら、繰り返し同じ曲をウォークマンで聴き、煙草をひっきりなしに吸うヒロインを見て、この人は私だと思った。

ある朝恋人が手首を切って死んでいる。彼の書いた小説と短い遺書がPCに残されている。
彼の名前も、小説の内容も、二人の関係も、一切触れられない。

「勇気を持て」という言葉が彼女に残されている。その通り彼女は勇気を持って行動する。

20世紀から現在まで、映画や音楽は感傷を呼び起こすために使用されている。
「泣ける映画」「感動する映画」「結婚式でかけたい曲」「カラオケで彼女に歌って欲しい曲」全てが感傷的になるために用意されたものだ。

モーヴァンはヒロインも、映画そのものも感傷を拒絶している。感傷的にならないことがサバイバルに必要だからだ。

サバイバルする必要の無い長閑な人たちはモーヴァンの選択が理解出来ないだろう。「泣ける映画」を見て泣き、「カラオケで彼女に歌って欲しい曲」を彼女に歌ってもらって愛を確かめているだろう。

死んだ彼の詳細が語られないのも、バスルームで彼氏が静かにばらばらになるのも、全て感傷との決別なのだ。

モーヴァンは若く、スーパーで働くワーキングプラの女の子だ。彼女は衝動的にそうした行為をしているように見える。
しかし彼女は感覚が異常に良いのだ。感度が良すぎる。だからほとんど喋らない。喋らずにただ感じている。
そして彼の死がモーバンの感覚を強烈に刺激する。

劇中にモーヴァンは様々なものを愛撫する。木の芽、湧き水、蟻、乾いた土、親友の女の子。演じるサマンサ・モートンの瑞々しく艶かしいことと言ったらない。
まるで全身性感帯のように見える。

原作をざっくり読んだが、最後モーヴァンはレイブで授かった命をたたえて次の移動を開始することで終わる。
映画では、荷物を詰めてアパートを離れ親友とパブで待ち合わせる。
「また一緒に来ない?お金ならあるし。」
モーヴァンと親友には僅かな期間の間に温度差が出来ている。
「現実を見て。私はここで満足よ」
確かそのようなことを言う。親友は得体の知れない生き物を見るようにモーヴァンを見ている。「一体どうしちゃったの?」と目が言っている。
モーヴァンは顔色を全く変えずに場を離れ、一人で駅に向かう。大音量のクラブの中でも彼女が聞いているのは彼が作ってくれたテープだ。

感傷への拒否は共有を拒否することに繋がる。

久々にモーヴァンを見ると、親友と同じく心配になる。
「そのまま直線的に進むとやばいことになるかも知れない」と思う。他人との共有を拒否することは危険だ。
しかしもし身近にいても何も忠告は出来ないなと思う。もしかしたらやばいことになるかもと思いつつも関与出来ないと思う。

若い人の感度の良さに危うさを感じるのは私が年を取ったからだ。

勤務先のビルのベンチにかなりの頻度で座っているおばあちゃんがいる。沢山の紙袋にゴミなのか持ち物なのか分からないものを入れて熱心に何かを読んでいる。朝から晩まで。こないだは誰か見えない相手に向かって微笑みながら話していた。

友達が用事で行く東京都庁の前には必ず同じホームレスがいるらしい。両腕に和彫りの刺青がごっそり入った男で、ショッピングカートか何かに猫を何匹も連れており彼らに首輪をしているらしい。自分はホームレスなのに猫には離れないよう紐を付けているのが奇異だが切なくも感じる。にゃんこたちには離れないで欲しいのかも知れない。

彼らは感傷を拒否し続けた代償を払っているのかも知れない。感傷が嫌いな私は彼らを見たり聞いたりすると部分的に未来の自分を見ている気持ちになる。

永遠に感傷を拒否するのはきっと無理だ。モーヴァンはあの後どうなったのだろう。映画を見たとき私は彼女とほぼ同い年だった。