storytellerはヒトが言語を獲得したと同時に必要とされただろう。語られるべき物語はいつしか語り部から離れ民話や神話へと脱皮し、幾多の小説や詩や映画と未完成のまま個人の裡に眠る像へと受け継がれる。
Juergen Tellerと言う名には示唆的かつ宿命的なものを感じる。
彼が「気鋭写真家」と評され続けて何年になるのだろう、と昨年末創刊された「GILFYcomplete」というカタログを目にして思った(被写体の土屋アンナはJuergen Tellerとは好相性だった)。
私はJuergenの写真、つまりJuergen Tellerを「いつの間にか」知っていた。その源泉は十代のころなめるように見ていた雑誌の特集や有名ブランドの広告やケイト・モスの写真集なのだが、どの作品が私のJuergen Teller初体験なのか確定出来ない。
彼の写真はいつも「匂って」いた。嗅覚(きゅうかく)は感覚の中で最も無意識のうちに刺激される。だから私はJuergen Tellerに初めて触れた時分を特定出来ない。
Juergen Tellerの放つ「匂い」は着くたしたパジャマのように閉鎖的・個人的でありながら、誰もが同質のものをひとつやふたつは隠し持っていることを「匂わせる」点で普遍的とも言える。
96年に出版された彼の写真集その名も『Juergen Teller』はまさにそんな匂いに満ちている。被写体は故カート・コバーン、グランジ女王時代のコートニー・ラブ、若き日のハーモニー・コリンとクロエ・セヴィニー、90’sの最強ミューズのケイト・モス(との相性は抜群だ。)などなど。
アイコンたちが軒を連ねるこの本の数ページを占めているクリステン・マクメナミーはギリシャ神話のエロース(キューピッドの原型となった性愛を司(つかさど)る青年神)を彷彿(ほうふつ)とさせる容姿と肢体を持ちその中性的な官能美で人気を博した90’sのトップモデルだ。
『Juergen Teller』の裡で彼女は完璧なスタイリングに守られていない。ショーの合間に撮られたことがうかがえる数枚の枠でクリステンは生々しい腹の手術線を露にし、煙草を吸い、ふざけ、手持ちぶさたにうろうろし、果てには鏡の前に待ちくたびれたかのように憂んだ表情で座っている。
同写真集のインタビューでJuergenはこう語る。
「バックステージで僕はモデルたちの自らの身体や外見に対する不安を感じた。僕は彼女たちの不安を取り除くのではなく、美は弱点やもろさの裡にみいだせると写真で示したかった」
imperfect beauty(不完全な美)それがJuergen Tellerそのものだ。
未分化の何か、または途上にある何かとその不安定さを彼は抽出する。(それがケイト・モスとの黄金コンビを産み出した一番の理由だろう。)被写体たちは羊水にも羊膜にも守られていない胎児のように脆弱性と原始性を露にされ、鑑賞者は前触れなく本質的な秘密をあばき出されたような気まずさと衝撃を味わう。
そして想像力ある鑑賞者であれば、Juergen Tellerから「可能性」と言うフェロモンを嗅ぎ取ることができるだろう。途上にある被写体と彼等の生きる物語は瞬時にして変化することが示唆されているからだ。
さらに思慮のある鑑賞者であれば、その「可能性」が被写体を独立した個として成立させていることが理解出来るだろう。物理的な理由だけではなく鑑賞者は被写体には決して近づけない。「可能性」は共感は許しても一体感は拒否するからだ。
世紀末から新世紀にかけてJuergen Tellerが必要とされ、また彼のエッセンスがまぶされた追随者たちが後を絶たないのは脆弱性をはらみ次の文脈へと綱渡りしつつある世界と個人が確固として存在するからだろう。
(oh my news にて掲載 現在閲覧不可)
Juergen Tellerと言う名には示唆的かつ宿命的なものを感じる。
彼が「気鋭写真家」と評され続けて何年になるのだろう、と昨年末創刊された「GILFYcomplete」というカタログを目にして思った(被写体の土屋アンナはJuergen Tellerとは好相性だった)。
私はJuergenの写真、つまりJuergen Tellerを「いつの間にか」知っていた。その源泉は十代のころなめるように見ていた雑誌の特集や有名ブランドの広告やケイト・モスの写真集なのだが、どの作品が私のJuergen Teller初体験なのか確定出来ない。
彼の写真はいつも「匂って」いた。嗅覚(きゅうかく)は感覚の中で最も無意識のうちに刺激される。だから私はJuergen Tellerに初めて触れた時分を特定出来ない。
Juergen Tellerの放つ「匂い」は着くたしたパジャマのように閉鎖的・個人的でありながら、誰もが同質のものをひとつやふたつは隠し持っていることを「匂わせる」点で普遍的とも言える。
96年に出版された彼の写真集その名も『Juergen Teller』はまさにそんな匂いに満ちている。被写体は故カート・コバーン、グランジ女王時代のコートニー・ラブ、若き日のハーモニー・コリンとクロエ・セヴィニー、90’sの最強ミューズのケイト・モス(との相性は抜群だ。)などなど。
アイコンたちが軒を連ねるこの本の数ページを占めているクリステン・マクメナミーはギリシャ神話のエロース(キューピッドの原型となった性愛を司(つかさど)る青年神)を彷彿(ほうふつ)とさせる容姿と肢体を持ちその中性的な官能美で人気を博した90’sのトップモデルだ。
『Juergen Teller』の裡で彼女は完璧なスタイリングに守られていない。ショーの合間に撮られたことがうかがえる数枚の枠でクリステンは生々しい腹の手術線を露にし、煙草を吸い、ふざけ、手持ちぶさたにうろうろし、果てには鏡の前に待ちくたびれたかのように憂んだ表情で座っている。
同写真集のインタビューでJuergenはこう語る。
「バックステージで僕はモデルたちの自らの身体や外見に対する不安を感じた。僕は彼女たちの不安を取り除くのではなく、美は弱点やもろさの裡にみいだせると写真で示したかった」
imperfect beauty(不完全な美)それがJuergen Tellerそのものだ。
未分化の何か、または途上にある何かとその不安定さを彼は抽出する。(それがケイト・モスとの黄金コンビを産み出した一番の理由だろう。)被写体たちは羊水にも羊膜にも守られていない胎児のように脆弱性と原始性を露にされ、鑑賞者は前触れなく本質的な秘密をあばき出されたような気まずさと衝撃を味わう。
そして想像力ある鑑賞者であれば、Juergen Tellerから「可能性」と言うフェロモンを嗅ぎ取ることができるだろう。途上にある被写体と彼等の生きる物語は瞬時にして変化することが示唆されているからだ。
さらに思慮のある鑑賞者であれば、その「可能性」が被写体を独立した個として成立させていることが理解出来るだろう。物理的な理由だけではなく鑑賞者は被写体には決して近づけない。「可能性」は共感は許しても一体感は拒否するからだ。
世紀末から新世紀にかけてJuergen Tellerが必要とされ、また彼のエッセンスがまぶされた追随者たちが後を絶たないのは脆弱性をはらみ次の文脈へと綱渡りしつつある世界と個人が確固として存在するからだろう。
(oh my news にて掲載 現在閲覧不可)