20歳そこそこで「ガンモ」を撮ったハーモニー・コリンも40歳。 MJの死を予言した秀作「ミスターロンリー」のような詩的要素の強いものだけでなく、今でもエッジな作品が撮れることを証明したのが今作品だ。
MJに扮した男が猿の人形と一緒にバイクで滑走する「ミスター・ロンリー」の最初のシーン。誰かになろうとすることでしか生きられない者の孤独と滑稽さがその数分間に詰まっていた。
ビーチでビッチどもがおっぱい丸出しで酒を浴びる。空っぽの笑顔の男どもがおしっこするポーズで彼女たちの口にビールを注ぐ。劇中で何度も挿入されるゆっくりとしたこのシーンにもこの映画の全てが詰まっている。
田舎の大学の講義中。「ちんこ欲しい」とノートにいたずら書きするビッチちゃん。隣のビッチちゃんはちんこそのものを描いて思いっきりリアルにフェラチオの真似をする。それは20歳そこそこの男の子なら勃起してしまいそうな程生々しい。
彼女たちは際立って美しくも賢くも無い。おまけに詰まらない田舎に住んでいる白人娘だ。弾ける肉を薄皮一枚に押し込み、ただひたすら煙草と大麻の煙でいぶす。むちむちした太ももがじゃれ、ピンクの唇の隙間から煙が上る。
「ここにあるものは惨めなものばかり。だからここにいる人は皆詰まらない。」
机上の空論、ダサい大学生、どうでもいい今後を僅かな期間忘れるため、ダイナーを強盗してその金でフロリダへ出向く。
フロリダの空とプールの青さは気持ちいいほど空っぽだ。酒とドラッグとマンコとチンコ、安いアッパー系トランスとヒップホップしかない。ホワイトトラッシュのための、ダサアメリカ白人のために誂えられたパラダイス。酒飲んで、ハッパ吸って、セックスするかしないかじらして、隣の誰かの体をまさぐって、ゲンチャ乗り回して、プールで踊って。その繰り返しだ。
「本当の自分と本当に自分がしたいことがここにあるの。友達も沢山出来たわ。ここにいる人はみな暖かい。いつかおばあちゃんと一緒に来たい。」
ビッチちゃんの一人は何を血迷ったか祖母に電話する。旧体制から抜け出してコミューンに到達した70年代のヒッピー娘みたいな気分でいるのかも知れないが、そこには哲学はない。反抗も無いしファッションさえない。何も無いのだ。何も無い時間と空間とが彼女の自分探しの場所なのだ。
コリン作品を見るといつも重低音のようにじわじわと底から感じる。アメリカは今後、加速度的にスポイルされ駄目になり何も無い国になる。資源を湯水のように使ってどうでもいい文化と商品を量産し人々に売りつけてきた結果を、彼女たちビッチちゃんは曇りない鏡の如く反映している。大学に通うくらいなのでそこまで貧困でも低教育レベルでもないのだが、彼女たちには文化や情緒というものが感じられない。中流かやや上の少女たちでそうなのだから、下流の様子が想像が付く。
映画史上最も美しいシーンに数えられるだろう名場面がある。プールサイドでビッチちゃんとチンピラがピアノで弾き語るシーンだ。ショッキングピンクの目だし帽子を被り、ガガかMIA用のレスラー風水着を纏ったビッチ3人があろうことかブリトニーのべたなバラードを歌うのだ。ケープを纏った敬虔な尼僧のコーラスに見えた。「ケンパーク」の少年少女の3Pシーンもエデンの園と名づけたくなるような純粋な美しさがあったが、それに匹敵する美しさだった。ブリトニーという選曲も素晴らしい。
現代アメリカの巫女でもあるビッチちゃんたちの価値観も、美意識も、感傷も全てが安いのだが、その安さが極限までに純粋なのだ。彼女達の素直さが純度の高い安さを産んだのだ。
青春なんて消耗品。キャッチコピーとして優れているが、同時に青春そのものの本質を捉えていると思う。性も感傷も全てが商品化されているアメリカとさらに隅々までそれらかが細分化されている日本では、青春はドラッグストアで売ってる使い捨ての付けまつげと同じだ。ファストファッションのアクセサリと同じだ。300円で買えてお得な気分になれて、ちょっと気になる男の子の性欲を刺激出来て、その足で行ったラブホテルに置き忘れられる大振りなだけで重さの全く無いピアスでしかない。青春は誰もが手に入れられる何の価値も無い糞みたいなクズ商品でしかない。消費主義末期、貨幣がオナニーすることで自己増殖する資本主義末期の現代で、それこそが本物の純度の高い青春だ。
しかし純度を追い続けるのは危険だ。ひたすら利益を求める投資家のようにどんどんリスクにハマり続ける。「退屈な日常」を振り切ってSpring Breakを極限まで進めたビッチちゃん二人(チンコとフェラチオの二人)は、とうとうパラダイスの先の先まで到達する。最後のシーンで彼女達は車を走らせながら、ぞっとするほど詰まらなそうで憂鬱そうな顔をしていた。彼女達にはもう「退屈な日常」以外何も待っていない。二人はそこの住人となってしまった。全てが終わった後でクズで糞な青春の正体に気づく。
Spring Breakers forever! クズで糞な青春を過ごさないためには一生クズで糞な青春を過ごすしかない。そんな危険な誘惑に甘さと懐かしさを感じてしまうのは、資本主義の日本国で生まれ育ったからこそ。
ハーモニー・コリンに「日本もどんどんアメリカに近づいてるよ」と伝えたい。
鑑賞二回目でスクリレックスにドはまりし、ここ数日爆音で聴き続けている。もとはハードコアパンクバンドのボーカルだったというが、コリーフェルドマンに似た小柄な少年。パンクなモーツアルトといった感だが、甘さと安さを昇華した、これぞLA出身。ドキュンを格好良く撮るのではなく、美しく撮る(こうなりたいとは思わせない)コリンとの共通点をなんとなしに感じる。
出だしの「Scary ~」とおっぱい丸出し映像を見ながら切ない感傷的な気持ちになり、涙ぐんでしまった。どんなに探してもあんなろくでもないパラダイスしか残っていない。欲望は無限、貨幣の増殖も無限、だから快感も無限。もっといいもの、もっとすごいカタルシスがあると思う。でも実態は違う。欲望も貨幣も実体は無い。金融経済と実体経済に大きくズレがあるように、パラダイスにも快感にも、予想と実体とに乖離がある。でもそれに気づかずパラダイスだと思って糞とゴミを消費するしかないってことだ。
それをコリンが提示している。