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LA VIDA DE MAR-RICO

デッサン代わり

糞みたいな青春こそが本物。「Spring Breakers」

2013年07月07日 10時16分39秒 | 映画評

20歳そこそこで「ガンモ」を撮ったハーモニー・コリンも40歳。 MJの死を予言した秀作「ミスターロンリー」のような詩的要素の強いものだけでなく、今でもエッジな作品が撮れることを証明したのが今作品だ。

MJに扮した男が猿の人形と一緒にバイクで滑走する「ミスター・ロンリー」の最初のシーン。誰かになろうとすることでしか生きられない者の孤独と滑稽さがその数分間に詰まっていた。
ビーチでビッチどもがおっぱい丸出しで酒を浴びる。空っぽの笑顔の男どもがおしっこするポーズで彼女たちの口にビールを注ぐ。劇中で何度も挿入されるゆっくりとしたこのシーンにもこの映画の全てが詰まっている。

田舎の大学の講義中。「ちんこ欲しい」とノートにいたずら書きするビッチちゃん。隣のビッチちゃんはちんこそのものを描いて思いっきりリアルにフェラチオの真似をする。それは20歳そこそこの男の子なら勃起してしまいそうな程生々しい。

彼女たちは際立って美しくも賢くも無い。おまけに詰まらない田舎に住んでいる白人娘だ。弾ける肉を薄皮一枚に押し込み、ただひたすら煙草と大麻の煙でいぶす。むちむちした太ももがじゃれ、ピンクの唇の隙間から煙が上る。
「ここにあるものは惨めなものばかり。だからここにいる人は皆詰まらない。」
机上の空論、ダサい大学生、どうでもいい今後を僅かな期間忘れるため、ダイナーを強盗してその金でフロリダへ出向く。

フロリダの空とプールの青さは気持ちいいほど空っぽだ。酒とドラッグとマンコとチンコ、安いアッパー系トランスとヒップホップしかない。ホワイトトラッシュのための、ダサアメリカ白人のために誂えられたパラダイス。酒飲んで、ハッパ吸って、セックスするかしないかじらして、隣の誰かの体をまさぐって、ゲンチャ乗り回して、プールで踊って。その繰り返しだ。

「本当の自分と本当に自分がしたいことがここにあるの。友達も沢山出来たわ。ここにいる人はみな暖かい。いつかおばあちゃんと一緒に来たい。」
ビッチちゃんの一人は何を血迷ったか祖母に電話する。旧体制から抜け出してコミューンに到達した70年代のヒッピー娘みたいな気分でいるのかも知れないが、そこには哲学はない。反抗も無いしファッションさえない。何も無いのだ。何も無い時間と空間とが彼女の自分探しの場所なのだ。

コリン作品を見るといつも重低音のようにじわじわと底から感じる。アメリカは今後、加速度的にスポイルされ駄目になり何も無い国になる。資源を湯水のように使ってどうでもいい文化と商品を量産し人々に売りつけてきた結果を、彼女たちビッチちゃんは曇りない鏡の如く反映している。大学に通うくらいなのでそこまで貧困でも低教育レベルでもないのだが、彼女たちには文化や情緒というものが感じられない。中流かやや上の少女たちでそうなのだから、下流の様子が想像が付く。

映画史上最も美しいシーンに数えられるだろう名場面がある。プールサイドでビッチちゃんとチンピラがピアノで弾き語るシーンだ。ショッキングピンクの目だし帽子を被り、ガガかMIA用のレスラー風水着を纏ったビッチ3人があろうことかブリトニーのべたなバラードを歌うのだ。ケープを纏った敬虔な尼僧のコーラスに見えた。「ケンパーク」の少年少女の3Pシーンもエデンの園と名づけたくなるような純粋な美しさがあったが、それに匹敵する美しさだった。ブリトニーという選曲も素晴らしい。
現代アメリカの巫女でもあるビッチちゃんたちの価値観も、美意識も、感傷も全てが安いのだが、その安さが極限までに純粋なのだ。彼女達の素直さが純度の高い安さを産んだのだ。

青春なんて消耗品。キャッチコピーとして優れているが、同時に青春そのものの本質を捉えていると思う。性も感傷も全てが商品化されているアメリカとさらに隅々までそれらかが細分化されている日本では、青春はドラッグストアで売ってる使い捨ての付けまつげと同じだ。ファストファッションのアクセサリと同じだ。300円で買えてお得な気分になれて、ちょっと気になる男の子の性欲を刺激出来て、その足で行ったラブホテルに置き忘れられる大振りなだけで重さの全く無いピアスでしかない。青春は誰もが手に入れられる何の価値も無い糞みたいなクズ商品でしかない。消費主義末期、貨幣がオナニーすることで自己増殖する資本主義末期の現代で、それこそが本物の純度の高い青春だ。

しかし純度を追い続けるのは危険だ。ひたすら利益を求める投資家のようにどんどんリスクにハマり続ける。「退屈な日常」を振り切ってSpring Breakを極限まで進めたビッチちゃん二人(チンコとフェラチオの二人)は、とうとうパラダイスの先の先まで到達する。最後のシーンで彼女達は車を走らせながら、ぞっとするほど詰まらなそうで憂鬱そうな顔をしていた。彼女達にはもう「退屈な日常」以外何も待っていない。二人はそこの住人となってしまった。全てが終わった後でクズで糞な青春の正体に気づく。

Spring Breakers forever! クズで糞な青春を過ごさないためには一生クズで糞な青春を過ごすしかない。そんな危険な誘惑に甘さと懐かしさを感じてしまうのは、資本主義の日本国で生まれ育ったからこそ。
ハーモニー・コリンに「日本もどんどんアメリカに近づいてるよ」と伝えたい。

鑑賞二回目でスクリレックスにドはまりし、ここ数日爆音で聴き続けている。もとはハードコアパンクバンドのボーカルだったというが、コリーフェルドマンに似た小柄な少年。パンクなモーツアルトといった感だが、甘さと安さを昇華した、これぞLA出身。ドキュンを格好良く撮るのではなく、美しく撮る(こうなりたいとは思わせない)コリンとの共通点をなんとなしに感じる。
出だしの「Scary ~」とおっぱい丸出し映像を見ながら切ない感傷的な気持ちになり、涙ぐんでしまった。どんなに探してもあんなろくでもないパラダイスしか残っていない。欲望は無限、貨幣の増殖も無限、だから快感も無限。もっといいもの、もっとすごいカタルシスがあると思う。でも実態は違う。欲望も貨幣も実体は無い。金融経済と実体経済に大きくズレがあるように、パラダイスにも快感にも、予想と実体とに乖離がある。でもそれに気づかずパラダイスだと思って糞とゴミを消費するしかないってことだ。
それをコリンが提示している。






大阪恋泥棒って誰が名前付けたの?「The Great Happyness Space」

2013年04月07日 10時45分47秒 | 映画評
正式名称は「The Great Happyness Space」。
イギリスの監督が日本、大阪のホストクラブ「スタリリッシュカフェらっきょ」(このセンスも邦題と同じくらい突っ込みどころ満載)のホストクラブを取材。働くホスト達とお客さんの女の子達に交互にインタビューしながら、ホストクラブという「The Great Happyness Space」を媒体とした彼らの関係を追っていく。
関東人なら間違っても思いつかない映画とクラブの名前だが、作品の雰囲気は吉本喜劇ともメロドラマとも程遠い。

70分くらいの小作で無料映画サイトで見られる。ナレーター無しの全編日本語なので、海外のサイトから見ても問題無いだろう。

2006年 大阪。雑居ビル内のこじんまりとしたホストクラブ「らっきょ」を経営する自身もホストの壱世君。周りのホスト達も女性心を掴む彼の話術や振る舞いには一目置いている。月収100万、多いときは500万を稼ぐ彼らの仕事はクラブに来る女性達とお酒に付き合いちやほやしてやりたまには叱ってやったりセックスしたりすること。指名してもらい一本数万円もするシャンパンを注文してもらうために、店内外関係なく彼女達に尽くし尽くされしている。

このドキュメンタリーが日本のテレビのホスト特集と違う最初の点が、お客の女の子達の顔にモザイクがかけられず公開されていることだ。ホストクラブにはまっているなんて余程醜い容姿なのではという私の予想が覆される。彼女達は驚くほど若くそして半分は普通に可愛らしかった。高校を出たばかりの危なっかしい女の子たちという印象だ。「壱世のお嫁さんになりたい」「壱世が好き」「壱世は人間ができているから」とべた褒めのべた惚れ状態。

そして次に日本のテレビと違う点が「ホストクラブが存在する世界」を自明のこととして取材していないこと。NO1を争う男同士の熱い戦いが描かれることはない。何故こういう商売があり女性たちが大金を払って欲しくも無いシャンパンを開けるのを丁寧にカメラは追う。

熱い想いを寄せられる壱世君はどう見ても魅力的ではに。すすけた茶髪、不摂生が原因だろう目の隈、全身から溢れる胡散臭さと安っぽさ。妙なハイテンションで酒を一気したりカラオケするかと思いきや、浅い慰めや褒め言葉を吐いてみたり。傍から見ると安っぽい駆け引きのドラマなのだが、他のホスト曰く
「女の子は表面的な優しさ、わかり易い優しさを求めてる。」
これには少しぎくりとした。

しかしナイーブで青臭い女の子達だけが客ではない。むしろそうではない女性の方が数が多そうだ。

暗い表情を長い髪で隠す女性は誕生日にらっきょに来て自分でボトルを何本も開ける。というか半分無理やり抜かれる。コールするホスト達を苦しそうな表情で見つめているが、拒まずにしかし不味そうに酒を飲む。
「女の子は仕事より愛をとってしまう、それで貢ぐことになっても。」と儚げに言う彼女の仕事はソープランドで、愛とはホストのために酒を注文することだ。老けた20代にも、中身が空っぽの30代にも見える悲しい女性だ。

「私の仕事はセックスの手前まですること。手で抜いたり、口でやったりするん。」とご丁寧にリアクション付きで話すのは、色白の中学生のような女の子。クラスに電車に職場に、どこにでもいそうな普通の女の子だ。しかし彼女は毎日落ち込みながらも体を売っている。
「給料もらっても何欲しいかわからん。らっきょでみんなの笑顔が見たい」毎日何人かの男の性処理の相手をして3,4万をもらい、それを握り締めてホストクラブの戸を叩く少女。

「23。ふうぞく」長い髪で目が見えない女の子はチワワをなで続けている。20歳を過ぎているとは思えない幼稚な語彙でぽつぽつと語る。「(ストレスって?と聞かれ)むりやりされたりとか...」5Wのある文章を作成することすら出来ない、極端に教育レベルの低そうな女の子。

「壱世にあって婚約者と別れた」「壱世の休み場所を作ってあげたい」「壱世のためなら死ねる」
一見清楚な雰囲気の女性もソープランド勤めだと言う。辻褄があっているのか破綻しているのか、一途なのか押し付けがましいのか分からない。可愛らしい彼女を壱世君は「一番いや」と吐き捨てる。しかしその生理的な嫌悪がなんとなしに理解出来るタイプだ。
若さ故の無知とお馬鹿以外でホストにはまる女は間違いなく欠陥品だろう。

「日本のサービスの過剰さは異常だ。ふんぞり返って誰かにあれこれ指図している人間は、別の誰かに執拗にぺこぺこしている。それはホストに貢ぐ風俗嬢とよく似ている」

以前ブログサーフィンで見つけた名句だ。確か中国人の経営者か学者の言葉だった。日本の過剰なサービスがホストクラブを産み、彼らは言わばその最後の受け皿なのだ。一列前にいる風俗の女の子達の過剰さを受け入れ去勢済みのダックスフンドの用に癒す。精神的にも肉体的にもハードで何も残らない仕事。日本が吐くゲロの始末をしているようにも思えてしまう。


鬱になる余裕もない『レクイエムフォードリームズ』

2012年09月23日 21時26分49秒 | 映画評
イギリスのどこかの機関が「鬱になる映画ベスト1」に選んだという今作。10年以上前の作品で名前すら知らなかったのだが、思いの他印象に残る良い作品だった。鬱になると言うより、この映画の世界が自分を含め、先進国の中産階級の人々に日に日に身近になっている恐さを感じた。

舞台はアメリカニューヨーク、ブルックリン。コニーアイランドという海沿いの街の団地に住む母と息子が主人公だ。夫を亡くした母と定職に就かずクスリにはまるいい歳の息子。母親は生活の空虚さからか、日がな一日ソファに座って素人参加のクイズ番組を眺めることに残りの人生を費やす。息子はクスリを買う金欲しさに母親の生命線であるテレビを売り払い、母親はそれを買い戻しに中古屋へ向かう。善良で都合の悪いことには目を背ける母親は息子に対して叱ることも家から追い出すこともしない。

コニーアイランドと言う地は、中心街のマンハッタンを山手線内部だとすると湘南エリアのような具合にあなるだろうか?しかし湘南といっても鎌倉や逗子ではなく、江ノ島あたりが近い。マンハッタンから40分くらいで行ける海辺にはボードウォークとレストランが並び、有名な遊園地がある。スパイク・リーの『he got game』でも登場している市民の憩いの場所だ。しかし海は汚くて入れたものじゃないし、夜はボードウォークの下で今作の主人公たちのようにクスリに耽っている若者もいる。決して優雅なエリアではない。そばには確かに公営住宅がいくつかあった。ロシア人コミュニティが近く、建物の前や海の近くで日向ぼっこしている老人たちも見かけることがあった。

息子のハリーは友達と一緒にクスリにはまり、彼女のマリオンも次第にそれにはまっていく。母親は「抽選でテレビに出ることになった」という一本の電話を受け、息子の高校卒業式に着た(これで息子が高卒であることが分かる)赤いワンピースを着るためにダイエット・ピルを飲み始める。しかしこれもハリーが常用しているクスリと変わらず、中毒化していく。冷蔵庫が動き出したり、テレビに自分が映っている幻影を見るようになるが、それでもクスリを飲むのとテレビを見るのは辞めない。「それはヤクだから止めろ」と言う息子に向かって「テレビになれば皆が私を好きになってくれるはず」と固辞する母親は見ていて切ない。信じられない程善良で愚かで、周囲の人々を疑うことを知らない女性なのだ。テレビ局に乗り込みうわごとを言う彼女は電気ショック療法を施され廃人化してしまう。

一方ハリーは売人からクスリが手に入らなくなり、友人と一緒に車でフロリダへ買い付けに出かける。その間マリオンは自分の体を売ることで金とクスリを得るようになる。当初はモテない中年男、次は変態の黒人ディーラー、そして最後は秘密の乱交パーティへと移るのだが、その内容が凄まじい。ディーラーの部屋の一室で行われているパーティには恐らくウォール街で働いている類の高給取りたちのために開かれている。女たちが何人か集められ、舞台の上で彼らがリクエストするありとあらゆる性行為をしなければならない。マリオンはそこで他の女とディルドを共有してアナルファック(!!!)をする羽目になる。機械的に腰を動かす女二人を囲んで変態たちは歓声を上げ紙幣を投げる。その時のマリオンの目は完全に死んでおり、自分の体を自分のものと認識するのを止めた目だ。
想像するのも嫌なえげつない行為だが、それを見て喜ぶ人間というのもやはり尋常ではないストレスに晒されているのだろう。ウォール街で働く多くの人が変態クラブのコールガールとクスリのお世話になっているというのは良く聴く話だ。


人生に罪悪感は要らない『セブンデイズインハバナ』

2012年09月22日 23時58分02秒 | 映画評
予告編を見ただけで、潮と排気ガスの匂いがよみがえりハバナに飛んでいきたくなるのがこの映画。恋しくなってしまうので見ないようにしてるくらいだ。

しかしキューバは実際行ったところで何も無い。国際空港は田舎の駅みたいだし、コンビニは全くコンビニエンスでは無いし、街には本当に“モノ”が無い。美味しいレストランも無いし、買い物するところもあまりないし。。「何も無くてクソみたいなところだ」とは私が以前会った日本男性の弁。口にはしなかったが「キューバの良さを感じられないお前の方がクソだ!」と密かに思っていた。

じゃあ、キューバの良さって何?と言えばこの映画でかなりそれが感じられるのではないかと思う。月曜日から日曜日までのハバナの小さなドラマを集めた今作は、国内外の7人が監督している。そしてほとんどが“外国人(外)からみたキューバの魅力と特性”で描いているからだ。

ちなみに私はニューヨークから、メキシコのカンクン経由でハバナへ向かった。カンクンでは最悪な目に遭ったがカンクン経由にして良かったと思う。何故ならキューバの立ち位置がとてもよくわかったからだ。
カンクン空港は恐ろしい程巨大で、第一空港から第二空港に向かうまでに20分くらい歩かなければならなかった。空港内にはバーガーキングなどのアメリカチェーンが所狭しと並びドルも使える。街から宿に行くまでに見えるのは、ネオンが光るアメリカ系のホテルやカジノ、日本の自動車会社の工場が沢山見えた。空港では大勢のタクシー運転手たちがグルになって代金をボロうと待ち構えていた。きっとその多くはアメリカに出稼ぎに行った者だったのだろう。私もまんまとふんだくられた(情けないやら悔しいやら)。
カンクンはアメリカの植民地でしかない、というのが私の印象だ。アメリカ人のバカンス用ビーチとなったカンクンはもはやアメリカ合衆国内と変わらなかった。フロリダに行くのと大差ない。

そこから星条旗の匂いが一切無いハバナに降り立つと、拍子抜けすると同時にものすごいすがすがしさを感じる。伊豆の温泉街と変わらない規模とインフラの国際(!)空港、空港を出た瞬間にまとわりつく潮風、舗装されていない道を黒い煙を吐きながら走るおんぼろクラシックカー、原色のホットパンツを履いたクバーナたち、町中をごろごろしているやけに自由で幸せそうなわんこたち。グローバリゼーションって何?とキューバは全身で言っている。均質化する世界の中であまりに呑気に非生産的(西洋的な視点から言えば)な生活を送るラテンの人々。

ヘミングウェイや村上龍がキューバを愛する理由が分かる。ちなみに『五分後の世界』はキューバからインスピレーションを受けている。「日本が敗戦を受け入れなかった場合」というパラレルワールドが描かれているのだが、キューバは西側諸国とその価値観を輸入してきた国にとって、パラレルワールドそのものなのだ。

映画はキューバのマイペースな現状を、パラレルワールドに降り立った外国人たちを描いている。経済危機の共産主義国、という暗い形容の割りにはセクシーでお洒落なおかまちゃんやギャルたちがサルサクラブで遊び、おっさんたちは楽しそうに飲んだくれている国。東ドイツ、ソ連、昔の中国やベトナム、東欧でこんな光景があったのだろうか? 
その一方で、身分証の携帯が義務付けられ、警察権力が強く、海外に行くこともできず、給料も上がらない不自由な国なのだ。能天気さと不自由さがどう折り合っているのがよく分からないのがキューバの魅力でもある。

7つの小作はどれも魅力的だが、私が最も好きでキューバの魅力そのものだと感じたのが『セシリアの誘惑』。

クラブで歌うセシリアは若く性的魅力に溢れ、かつ素朴さと純粋さを感じさせる最強女子だ。スペインから来た男は彼女に夢中になり、一緒に帰ろうと誘う。穏やかで物腰が柔らかい彼に魅かれホテルの部屋までついて行くセシリア。しかしいざその時になると彼女は自分のアパートに帰ってしまう。
彼女を待っているのは、同じく若くて性的魅力に溢れ、かつ無骨さを持ち合せた野球選手の恋人だ。無口で男らしく、でもだからこそ臆病な彼に、セシリアは愛しながらも苛立っている。何故なら彼にはキューバを出て勝負する勇気が無いからだ。彼と愛し合いながらも、他のとスペインに行くと彼女は告げ、臆病者とののしる。恋人は黙ってソファに座り、そのまま朝を迎える。

セシリアにとって二人の男性は両方とも魅力的で両方ともに魅かれている。そのシンプルな価値観がとても清々しく描かれていた。二人のどちらの方がいい条件だとか、上手く二人を使ってやろうとか、そんな二流トレンディドラマのようなけちで姑息な思考は無い。だから、愛している恋人にも正面からそれを告げる。

Yo se que quiero quedarme contigoと彼女は歌うのだが、それは「私は貴方と一緒にいたいってわかってるの」という意味。quedarmeは「残る」という意味でもある。

結局セシリアはソファで眠る恋人をベッドに横たえ(その腕力に驚いた。。)その隣に眠る。彼と一緒にいたいのを彼女は最初から知っていたのだ。

しかしその後他の作品にも登場したセシリアと恋人は船に乗って亡命することを決意する。海から母親に電話し、親子は泣き崩れる。亡命すれば今度いつ会えるか分からない。国を離れるという決意がいつもキューバ人の目の前にはぶらさがっているのだ。

複雑な状況の中で、シンプルに生きている(ように見える)のがキューバの魅力なのだ。そこには罪悪感も自己犠牲も無い。魅力的かどうか、そうしたいかどうかということが大事になるのは状況が複雑だからこそからかもしれない。

ハバナから晩秋のニューヨークへ帰り地下鉄に乗った私が見たのは、黒い服に身を包んだ疲れたアメリカ人たちだった。カラフルなキューバ人たちとは正反対だった。この国が“Land of plenty”とは全く思えなかった。








若さという資源の罠「フィッシュ・タンク」

2012年09月16日 02時55分35秒 | 映画評
若いことはそれだけで可能性そのものだ。しかし若さ以外に何も持っていない若者は多い。教育・家庭環境に恵まれ、人生を戦略的に捉えるだけの知力と精神的余裕を持つ十代は先進国でも一握りのはずだ。

階級社会が固定しているイギリスでには、「ケス」「スウィートシックスティーン」のケン・ローチ、「僕と空と麦畑」「モーヴァン」のリン・ラムジーなど、労働者階級に生きる人々を感傷無く描く映画監督たちがいる。今作の監督アンドレア・アーノルドも彼らと視点を共有している。

15歳のミアが生きるのは下流社会そのものだ。いくつかの評で”中産階級”とされていたが間違いなく下流だ。おそらく10代でミアを産んだ母親(ローチ監督の「この自由な世界で」で主役を演じていた女優だ)は、仕事をしている様子もなく男や友人を連れ込んで馬鹿騒ぎする毎日。キッチンでは母の友人がこともあろうにペッティングしている。10歳にも満たない妹は40過ぎの売春婦並みに口が悪く、姉と一緒に部屋で酒と煙草をたしなんでいる。父親は居ない。女3人のコミュニケーションはののしることで成立しており、妹は母親を"メスイヌ”呼ばわりさえするが咎めるものはいない。家族が住むのは低所得者が住む公営住宅だ。

友人もおらず信頼する人を持たないミアの支えはヒップホップダンスだけだ。素人目にも上手いとはいえず、趣味の域を出ない。しかしミアは黙々と場所と時間を見つけては音楽をかけ練習し続ける。

そこに現れるのが母親の恋人らしき男コナーだ。物腰が柔らかく、(公営住宅の住民に比べて)知性と良識のある彼にミアは魅かれる。唯一思春期の女の子として接してくれる優しい男性に対しても、ミアはスラングで応酬することしか出来ないが、それでも二人の距離は狭まり、ある時一線を越える。

イギリス労働者階級映画の例に漏れず救いがほとんど無い映画だ。問題の多いミアだが、彼女自身には問題は無い。知的・社会的・経済的に劣悪な環境をただただ反映しているに過ぎない。あまりにもひどい環境にいるため、コナーが彼女に与えた程度の優しさ(気まぐれ的なもの)でも心が多分に動かされてしまう。
多少ロマンティックには描かれているのと俳優の見た目の良さで誤魔化されているが、コナーという男も決してまともな大人ではない。家族の居る身分で子持ちのシングルマザーと付き合い、挙句の果てには15歳の娘にまで手を出している。平気でミアにアルコールを勧め、味気ないセックスをしながら「大人は違うだろ?」などと彼女に言う。少女のことを真摯に考えてなどさらさらないのだが、それでもミアには良く見えてしまうのだ。

最終的にミアは家を後にし、母親と初めて向かい合って踊り、妹を抱きしめる。お世辞にも頼りになるとは思えない彼氏と車に乗り込む彼女に未来があるとはとても思えない。同じく労働者階級の女性「モーヴァン」が身の回りの荷物だけを持って寒空の下町を後にする姿には、希望とは程遠くても力強さがあった。ミアには力強さは感じられず、遠い地で母親と似た人生を歩む船出のようだった。ミアはまだ若い。重要なことはほとんど何も学んでいないし、"一人で生きていこうとする"のは早い。男性に関してもダンスに関してもまだ決定的な失敗や絶望を味わっていない彼女が家を出るという設定が唐突で安易な気がした。