意外なことに ウィキペディアに載っていたので見ると
大好きな私のバイブル的読本 「日月神示」も
解説があって楽しい。
スピリチュアルを学ぶにもインターネットもない時代だったので
私は手がかりを探しに いろんな宗教に首を突っ込んだ
でも・・ダメだった・・受け付けなかったのと
吐きそうになるくらい具合が悪くなり 玄関から即、踵を返した団体もあった。
私にとっては 教えの本である。
黒住教で教義を勉強し、心のあり方をこの神示とで
勉強させていただいた。
日月神示
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%88%E7%A5%9E%E7%A4%BA
私が「日月神示」を手にしたのは 28歳の時自分の中の扉が開いた
直後のことでした。日と月が妙に眩しく 心引かれたのだ。
むさぼるように読み・・。何かわからずに納得した。
それからスタートしたのです。 何かを探す旅が・・。
まもなく脳裏に 「てんかわ」と・・入ってきたので
どこかもわからずに地図を頼りに探して、橿原神宮で車を借り、天川村の天河弁才天社にたどり着きました。
28歳の秋でした。
ウィキペディアで
気になる 内容の抜粋がありました。・・。わかりやすく解説してくれているところもあるので載せてみよう。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
「臣民にわかる様にいうなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ」(富士の巻第十四帖)。
「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」(日月の巻第十五帖)と語っている。
今日はここに注目したいので
解説を載せてみたい。
::::::::::::::::::::::::::::::::
霊界と現界との関係
日月神示には霊界についての記述も多く見られるが、特に「二日んの巻」(ジシンの巻)や「龍音之巻」は、ほとんどがこれらについての記述である。主なものを以下に箇条書きで記す。
広く霊界といっても神界と幽界に大別され、神界は天国と霊国に分けられ、幽界はそれぞれ、陽界と陰界に分けられる。
天国には天人が、霊国には天使が住み、幽界は陽界には陽霊人が、陰界には陰霊人が住んでいる[16]。
幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の神懸かりの殆んどはこの幽界からの感応によるものであるから注意が必要である。
目に見えぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的なものになる。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいる為、その感応は極めて強く人間の目にはいかにも、もっともらしく映るので注意が必要である。
高度の霊がただちに肉体人に感応する事はなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならない。
高度なものはその人間の精神(心)に応じてそれと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現される。
下級霊が懸かった霊媒の所作や動作、言動は高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものであるがこれらは良く見極めれば判る。
特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降って来て人間に特別な通信をしたり、指示したりする事がある。また天使の霊が母体に宿り人間として生まれて来ることもある。末世にはこの種の降誕人が沢山ある。
人霊以外の霊で人間に憑依するのは、日本を例にとれば天狗、仙人、狐、狸、猫などが大部分である。
先祖霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意を要する。動物霊が祖先のことを知っているのは、その憑依の対象となる人間の肉体霊[17]の知ってることを、直ちに知り得るからである。
動物霊が人間の言葉を使うのは不可解にも思えるが、それは例えれば、他人の家に入り込んで其処に有る道具類をそのまま使うのと同じ道理である。動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、ある程度その人間の持つ言葉を使いこなせる。日本人に感応すれば日本語を、米国人ならば英語を語ることが出来る。
基本的に下級霊や動物霊は人間に感応はするが肉体の内部までは入り込めない。しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える場合が有る。
例外として人間の魂と動物の魂が入れ替わっている事も有る。こうした場合は肉体に入り込んだと考えて良い。例えばそれが狐なら狐の様相を露呈するから、すぐ判るが悪行を積んだ霊などの場合は、その時代時代に合わせて化けているので見破る事が中々難しい。
少しでも、怪しいと思った場合はそれが神の言葉でも裏表の見境もなく闇雲に信じてはならない。例え神の言葉でも自分で一応考えて、審神する事が重要である。
人間霊の場合でも或種の霊は、自分自身が高度な神界に住んでいると誤信しているものがいるが、こうした霊が感応した場合は自信を以って断言する場合が多い。人間の知らぬ世界の事を自信を以って強く告げてくるので、判別は困難で多くの場合、審神者は参ってしまう。
仙人というのはどんなに高度に見えるものでも、幽界に属す。なぜなら、仙人界には戒律があるからである。神界には戒律はない。真の宗教に戒律はないのである。戒律がある宗教は亡びる。しかし、神界にも仙人的な存在はある。
竜体(竜神の事か?)を持つ霊は神界にも幽界にもある。竜体だからといってそれらが全て神界に属すると思うのは誤りである。
先祖霊が出る場合は、何か頼みたい事が有る場合が多い。浄化した高級霊ともなれば、人間の肉体に判るような感応はほとんどない。
先祖は現界に住んでいる肉体人を土台として修業するものである。また、同様に霊界に於ける自分は先祖との交流や交渉は深いものである。
下級霊や動物霊の場合は「酔いどれ」のように箸にも棒にもかからない事を言ってくる。霊の要求だからといって、そのまま受け入れるのではなく、よく判断した上で処理しなければならない。
霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多い。霊耳は耳をふさいでも内から聞こえてくる。
物を見るのは額で見ることが重要である。額の目に見の誤りは無く、額の判断に間違いは無い。また、悪の霊が懸かった場合は人間の「みぞおち」に集まり、そこで頑張るものである。
霊覚者や行者の中には奇跡的な事や非常識な行動をする者がよくいて、一般人はそれに騙される事がよくある。これらは、いずれも下級霊の仕業である。
正神には奇跡はない。高級霊は態度が立派である[18]。
どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはならない。馬鹿にすると反射的に審神者を馬鹿にして始末に負えないことになるので思慮が必要である。特にその霊が病気に関連をもっている場合は微妙である。霊には常に愛を持って接し、良い方向に導いて行こうとする努力が大切である。霊の邪道的要求を受けて一時的に病気を治すと、それに倍になってぶり返すものである。
悪霊自身は自身を悪だとは思っていない。
霊的良識は神示や神典類によって、また体験によって養われる。更には高度の科学書も参考になる[19]。
神界より真っ直ぐに感応する想念が正流である。幽界からや幽界を経て流れてくる想念が外流である。
人間の肉体は最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前において必ず霊的動きが有る。
人間界のことを良く知っている霊は人間界を去って間もない霊か地上世界に長く住んでいた動物霊か、人間に憑依していた霊である。
神の守護というのは人間からは全然判らないものである。判る様な守護は低い神や悪神の守護である。悪神でも大将ともなればその守護は人間には判らない。
日本には日本の守護の神、中国には中国の、外国には外国のそれぞれの守護の神がいる。
今の人間は9分9厘は幽界との繋がりを持つから、よくよく自分自身を審神し反省する必要がある。
霊媒を通じてこの世に呼びかける霊の9分9厘は邪霊である。今後は更に激しくなる。
幽界霊も時によっては正しく善なる事を言うが、それはただ言うだけである。例えるなら悪人が口先だけで善を語るようなものである。
良い言葉ならば、たとえ悪神が語ってもいいのでは?とも思えるが、それは理屈である。真の善言や真言は心、言葉、行ないが一致しているから直ちに力を持つが、それらが一致していないと力は出ないのである。言葉の上のみ同一であっても例えば、同じ「はい」という返事でも喜びの時と不満の時とでは違うように、偽りの言葉は落ち着いて聞けば判るものである。
その人間の心に相応した神しか拝めない。悪い心で拝めば、どんなに立派な神前でも悪神が感応する。逆に悪神を拝んでも正しい愛や喜びがあり、善い念が通じるならば悪神は引っ込んでそれぞれの善い神が現れる。
悪神が懸かった時は自分では偉い神様が乗り移ったと信じ込む場合が多い。それは自分の天狗のような高慢な心が原因である。
2重3重人格というのは2重3重の憑き物の転換によるものである。また、群衆心理とはその時の一時的な憑依霊の仕業である。
霊人には何でも判ってると思うのは大きな間違いである。
人は死ぬ時の想念がそのまま続くので、その想念に応じた世界に住むことになるのである。この世を天国として暮らしていた人は天国へ、地獄と感じて生きていた人は自ら地獄的な想念を作り出してそのような世界に住むことになる。
神的自分が本守護神であり、霊的自分が正守護神である。また、幽界的自分が副守護神である。本守護神は大神の歓喜である。
天界で起こった出来事は必ず現界にも起こる。しかし、その時の現界の状況により、ある程度左右され早くなったり、遅くなったりする場合がある。また、時によっては順序が違う場合もある。
天人や天使の行為が人間にうつるのであるが、逆に人間の自由や能力の如何によっての行為も天界や霊界に反映する。日本や外国では土地が違うように天界のうつり方も違うのである。
悪い事(天災や不幸等)を待つ心は魔の心である。いつどこにそれらが来るのかと待ち望んでいるような心は悪魔に使われているのである。
この辺はできれば理解しておきたい箇所だと思います。
引っかかるところがあれば 見てみるのもよいかも・・。
この中でもいろいろと書いてあるのですが
体験として納得の箇所がありました。
日月神示・・。どれだけの人が読み
どれだけの人が何を考え・・。
ここまで来たのだろう・・。
八通りに読める神示の内容に 時々読み返すと新たな発見があったりする。
また 読みたくなり朝から つい読みふけっていた・・。
菰野の月の宮が壊され
日月神示は もう心の中の産物になってしまったのか・・。
わからない。
でも
やはり本を手にすると はっきりと鼓動を感じるのだ。
PS
なんだか 今日は男性の神様が来てるのかなあ???
男っぽい私でした。^^:
大好きな私のバイブル的読本 「日月神示」も
解説があって楽しい。
スピリチュアルを学ぶにもインターネットもない時代だったので
私は手がかりを探しに いろんな宗教に首を突っ込んだ
でも・・ダメだった・・受け付けなかったのと
吐きそうになるくらい具合が悪くなり 玄関から即、踵を返した団体もあった。
私にとっては 教えの本である。
黒住教で教義を勉強し、心のあり方をこの神示とで
勉強させていただいた。
日月神示
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%88%E7%A5%9E%E7%A4%BA
私が「日月神示」を手にしたのは 28歳の時自分の中の扉が開いた
直後のことでした。日と月が妙に眩しく 心引かれたのだ。
むさぼるように読み・・。何かわからずに納得した。
それからスタートしたのです。 何かを探す旅が・・。
まもなく脳裏に 「てんかわ」と・・入ってきたので
どこかもわからずに地図を頼りに探して、橿原神宮で車を借り、天川村の天河弁才天社にたどり着きました。
28歳の秋でした。
ウィキペディアで
気になる 内容の抜粋がありました。・・。わかりやすく解説してくれているところもあるので載せてみよう。
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「臣民にわかる様にいうなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであろうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであろうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱いすることぞ」(富士の巻第十四帖)。
「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」(日月の巻第十五帖)と語っている。
今日はここに注目したいので
解説を載せてみたい。
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霊界と現界との関係
日月神示には霊界についての記述も多く見られるが、特に「二日んの巻」(ジシンの巻)や「龍音之巻」は、ほとんどがこれらについての記述である。主なものを以下に箇条書きで記す。
広く霊界といっても神界と幽界に大別され、神界は天国と霊国に分けられ、幽界はそれぞれ、陽界と陰界に分けられる。
天国には天人が、霊国には天使が住み、幽界は陽界には陽霊人が、陰界には陰霊人が住んでいる[16]。
幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の神懸かりの殆んどはこの幽界からの感応によるものであるから注意が必要である。
目に見えぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的なものになる。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいる為、その感応は極めて強く人間の目にはいかにも、もっともらしく映るので注意が必要である。
高度の霊がただちに肉体人に感応する事はなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならない。
高度なものはその人間の精神(心)に応じてそれと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現される。
下級霊が懸かった霊媒の所作や動作、言動は高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものであるがこれらは良く見極めれば判る。
特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降って来て人間に特別な通信をしたり、指示したりする事がある。また天使の霊が母体に宿り人間として生まれて来ることもある。末世にはこの種の降誕人が沢山ある。
人霊以外の霊で人間に憑依するのは、日本を例にとれば天狗、仙人、狐、狸、猫などが大部分である。
先祖霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意を要する。動物霊が祖先のことを知っているのは、その憑依の対象となる人間の肉体霊[17]の知ってることを、直ちに知り得るからである。
動物霊が人間の言葉を使うのは不可解にも思えるが、それは例えれば、他人の家に入り込んで其処に有る道具類をそのまま使うのと同じ道理である。動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、ある程度その人間の持つ言葉を使いこなせる。日本人に感応すれば日本語を、米国人ならば英語を語ることが出来る。
基本的に下級霊や動物霊は人間に感応はするが肉体の内部までは入り込めない。しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える場合が有る。
例外として人間の魂と動物の魂が入れ替わっている事も有る。こうした場合は肉体に入り込んだと考えて良い。例えばそれが狐なら狐の様相を露呈するから、すぐ判るが悪行を積んだ霊などの場合は、その時代時代に合わせて化けているので見破る事が中々難しい。
少しでも、怪しいと思った場合はそれが神の言葉でも裏表の見境もなく闇雲に信じてはならない。例え神の言葉でも自分で一応考えて、審神する事が重要である。
人間霊の場合でも或種の霊は、自分自身が高度な神界に住んでいると誤信しているものがいるが、こうした霊が感応した場合は自信を以って断言する場合が多い。人間の知らぬ世界の事を自信を以って強く告げてくるので、判別は困難で多くの場合、審神者は参ってしまう。
仙人というのはどんなに高度に見えるものでも、幽界に属す。なぜなら、仙人界には戒律があるからである。神界には戒律はない。真の宗教に戒律はないのである。戒律がある宗教は亡びる。しかし、神界にも仙人的な存在はある。
竜体(竜神の事か?)を持つ霊は神界にも幽界にもある。竜体だからといってそれらが全て神界に属すると思うのは誤りである。
先祖霊が出る場合は、何か頼みたい事が有る場合が多い。浄化した高級霊ともなれば、人間の肉体に判るような感応はほとんどない。
先祖は現界に住んでいる肉体人を土台として修業するものである。また、同様に霊界に於ける自分は先祖との交流や交渉は深いものである。
下級霊や動物霊の場合は「酔いどれ」のように箸にも棒にもかからない事を言ってくる。霊の要求だからといって、そのまま受け入れるのではなく、よく判断した上で処理しなければならない。
霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多い。霊耳は耳をふさいでも内から聞こえてくる。
物を見るのは額で見ることが重要である。額の目に見の誤りは無く、額の判断に間違いは無い。また、悪の霊が懸かった場合は人間の「みぞおち」に集まり、そこで頑張るものである。
霊覚者や行者の中には奇跡的な事や非常識な行動をする者がよくいて、一般人はそれに騙される事がよくある。これらは、いずれも下級霊の仕業である。
正神には奇跡はない。高級霊は態度が立派である[18]。
どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはならない。馬鹿にすると反射的に審神者を馬鹿にして始末に負えないことになるので思慮が必要である。特にその霊が病気に関連をもっている場合は微妙である。霊には常に愛を持って接し、良い方向に導いて行こうとする努力が大切である。霊の邪道的要求を受けて一時的に病気を治すと、それに倍になってぶり返すものである。
悪霊自身は自身を悪だとは思っていない。
霊的良識は神示や神典類によって、また体験によって養われる。更には高度の科学書も参考になる[19]。
神界より真っ直ぐに感応する想念が正流である。幽界からや幽界を経て流れてくる想念が外流である。
人間の肉体は最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前において必ず霊的動きが有る。
人間界のことを良く知っている霊は人間界を去って間もない霊か地上世界に長く住んでいた動物霊か、人間に憑依していた霊である。
神の守護というのは人間からは全然判らないものである。判る様な守護は低い神や悪神の守護である。悪神でも大将ともなればその守護は人間には判らない。
日本には日本の守護の神、中国には中国の、外国には外国のそれぞれの守護の神がいる。
今の人間は9分9厘は幽界との繋がりを持つから、よくよく自分自身を審神し反省する必要がある。
霊媒を通じてこの世に呼びかける霊の9分9厘は邪霊である。今後は更に激しくなる。
幽界霊も時によっては正しく善なる事を言うが、それはただ言うだけである。例えるなら悪人が口先だけで善を語るようなものである。
良い言葉ならば、たとえ悪神が語ってもいいのでは?とも思えるが、それは理屈である。真の善言や真言は心、言葉、行ないが一致しているから直ちに力を持つが、それらが一致していないと力は出ないのである。言葉の上のみ同一であっても例えば、同じ「はい」という返事でも喜びの時と不満の時とでは違うように、偽りの言葉は落ち着いて聞けば判るものである。
その人間の心に相応した神しか拝めない。悪い心で拝めば、どんなに立派な神前でも悪神が感応する。逆に悪神を拝んでも正しい愛や喜びがあり、善い念が通じるならば悪神は引っ込んでそれぞれの善い神が現れる。
悪神が懸かった時は自分では偉い神様が乗り移ったと信じ込む場合が多い。それは自分の天狗のような高慢な心が原因である。
2重3重人格というのは2重3重の憑き物の転換によるものである。また、群衆心理とはその時の一時的な憑依霊の仕業である。
霊人には何でも判ってると思うのは大きな間違いである。
人は死ぬ時の想念がそのまま続くので、その想念に応じた世界に住むことになるのである。この世を天国として暮らしていた人は天国へ、地獄と感じて生きていた人は自ら地獄的な想念を作り出してそのような世界に住むことになる。
神的自分が本守護神であり、霊的自分が正守護神である。また、幽界的自分が副守護神である。本守護神は大神の歓喜である。
天界で起こった出来事は必ず現界にも起こる。しかし、その時の現界の状況により、ある程度左右され早くなったり、遅くなったりする場合がある。また、時によっては順序が違う場合もある。
天人や天使の行為が人間にうつるのであるが、逆に人間の自由や能力の如何によっての行為も天界や霊界に反映する。日本や外国では土地が違うように天界のうつり方も違うのである。
悪い事(天災や不幸等)を待つ心は魔の心である。いつどこにそれらが来るのかと待ち望んでいるような心は悪魔に使われているのである。
この辺はできれば理解しておきたい箇所だと思います。
引っかかるところがあれば 見てみるのもよいかも・・。
この中でもいろいろと書いてあるのですが
体験として納得の箇所がありました。
日月神示・・。どれだけの人が読み
どれだけの人が何を考え・・。
ここまで来たのだろう・・。
八通りに読める神示の内容に 時々読み返すと新たな発見があったりする。
また 読みたくなり朝から つい読みふけっていた・・。
菰野の月の宮が壊され
日月神示は もう心の中の産物になってしまったのか・・。
わからない。
でも
やはり本を手にすると はっきりと鼓動を感じるのだ。
PS
なんだか 今日は男性の神様が来てるのかなあ???
男っぽい私でした。^^: