先日 船旅の時に
寝たり起きたりしていた。
自然に自由にしていたのが良かったのかも知れませんが
目覚めるとエネルギーが来ていました。
手が熱くなり、びりびり痺れていた。
その後 下船の待ち時間に
挟 依彦さんの 本を読んでいた。
出口王仁三郎の霊界物語の解説だったのだが
その部分で
「一ニ三四五六七八九十百千萬」→「ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず」と読みますが
この解説がありました。
これは言霊的に数魂で意味があります。
エネルギーのある言葉です。
おなじみ、ひふみ祝詞のあとの天津祝詞の後に私も普段から
唱えることが多いものです。
何故だか・・本を読んでいるときに
ふと 光を感じて 「真の祈り」という感覚が入ってきました。
何故だか この数魂に光を感じ涙が出てきました。
どうしてなのか解らないのですが・・・・。
神社で散々祈りをささげてる私も
実は昔から自宅での祈りは 嫌いでした。
神棚に祝詞を上げるという行為が 形骸化されたものに感じて
抵抗があり、如何してもすっきりとあげられなかったのです。
それなら 朝起きたときのお日様に 空に雲に
感謝をささげる方が好きだったのです。
其れが ふと 真の祈りをささげたいと
何故だか思ってしまったのです。
真の祈り・・それなら 神棚に上げようと神社に上げようと
何処でも上げられると 思ってしまったのでした。
光を感じて 熱いものを胸の中に蓄え
数魂を心で唱えながら、感謝と喜びの感覚の中で
祈るのが私流になるのでしょう。
祈りは、人によりなんでもいいのだと思います。
自分がやりたいように・・唱えたいもので・・。
私は光を感じて 祝詞をあげるのかも知れません。
ただ 単純にそれでいいのだと
感じていました。
真の祈り・・其れは人それぞれ その人の中にあるのでしょう
わからないうちは何でも 気になるものであげればいいのだと思います。
そのうちに 自分の好きな光を 感じていくのだと
思いました。
光は自分の中にある
それが 言葉ではなく 腹の其処から
真の気付きとして 入ってきた日でした。
想いの純度を上げる
私にはそんな風に捉えられました。
自然にそのように思えたことに 意義と喜びがありました。
祈りはさんざんした・・でも
祈りの本質は 本当にしたいときに
祈る・・ということだけだったのだと
改めて確認し、腹から感じた・・。
良き日でした。
寝たり起きたりしていた。
自然に自由にしていたのが良かったのかも知れませんが
目覚めるとエネルギーが来ていました。
手が熱くなり、びりびり痺れていた。
その後 下船の待ち時間に
挟 依彦さんの 本を読んでいた。
出口王仁三郎の霊界物語の解説だったのだが
その部分で
「一ニ三四五六七八九十百千萬」→「ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず」と読みますが
この解説がありました。
これは言霊的に数魂で意味があります。
エネルギーのある言葉です。
おなじみ、ひふみ祝詞のあとの天津祝詞の後に私も普段から
唱えることが多いものです。
何故だか・・本を読んでいるときに
ふと 光を感じて 「真の祈り」という感覚が入ってきました。
何故だか この数魂に光を感じ涙が出てきました。
どうしてなのか解らないのですが・・・・。
神社で散々祈りをささげてる私も
実は昔から自宅での祈りは 嫌いでした。
神棚に祝詞を上げるという行為が 形骸化されたものに感じて
抵抗があり、如何してもすっきりとあげられなかったのです。
それなら 朝起きたときのお日様に 空に雲に
感謝をささげる方が好きだったのです。
其れが ふと 真の祈りをささげたいと
何故だか思ってしまったのです。
真の祈り・・それなら 神棚に上げようと神社に上げようと
何処でも上げられると 思ってしまったのでした。
光を感じて 熱いものを胸の中に蓄え
数魂を心で唱えながら、感謝と喜びの感覚の中で
祈るのが私流になるのでしょう。
祈りは、人によりなんでもいいのだと思います。
自分がやりたいように・・唱えたいもので・・。
私は光を感じて 祝詞をあげるのかも知れません。
ただ 単純にそれでいいのだと
感じていました。
真の祈り・・其れは人それぞれ その人の中にあるのでしょう
わからないうちは何でも 気になるものであげればいいのだと思います。
そのうちに 自分の好きな光を 感じていくのだと
思いました。
光は自分の中にある
それが 言葉ではなく 腹の其処から
真の気付きとして 入ってきた日でした。
想いの純度を上げる
私にはそんな風に捉えられました。
自然にそのように思えたことに 意義と喜びがありました。
祈りはさんざんした・・でも
祈りの本質は 本当にしたいときに
祈る・・ということだけだったのだと
改めて確認し、腹から感じた・・。
良き日でした。