あした天気にな~れ!

いまはまだモラハラの暗雲から脱出できないけれど、きっといつかは明るい日がくる。そんな願いをこめて……

すき焼き

2007-04-28 22:13:12 | 第1段階
2003年12月11日の朝だった。
妹から電話がかかってきた。
「マイが、熱があるのに病院に行ってないというの。悪いけど、ちょっと
様子を見てきてもらえないかしら」
マイというのは、彼女の娘、つまりわたしの姪だ。
親元を離れ、わたしの家から1時間くらいのところで一人暮らしをしている。

以前から妹は、寝たきりの母親の世話を一手に引き受けてくれている。
わたしは常々、手伝えないことを引け目に感じていたので、こんなとき
こそ少しでも妹の役に立ちたいと思った。だから、仕事の締切の間際で
きついスケジュールだったし、くたくたに疲れていたのだけれど、それを
悟られないよう、「いいわよ」と明るい声で返事をした。そして夫に事情を
説明し、冷たい雨がそぼ降るなかを出かけた。

マイは熱があるだけでなく、全身に発疹ができていた。風疹かもしれない。
周知のとおり、風疹は子供のうちにかかれば比較的軽い症状ですむが、
大人になってからかかると重症になる。悪くすると入院になるかもしれ
ない。だるそうなマイをなんとか説得し、病院に連れていった。午前中の
診療受付に、ぎりぎり間に合った。

評判のいい病院らしく、ずいぶん混んでいて、延々と待たされた。
ようやく順番が来て、マイが診察室に入ったあと、わたしは遅い昼食を
食べに行き、ついでに妹に報告した。病院にもどってみると、マイは
点滴を受けていた。やはり風疹だったが、幸い、入院はしなくてもいい
とのことだった。

点滴が終わるまで付き添い、マイを部屋に連れて帰り、寝かしつけたあと、
わたしは食料を買いにいった。「水分をたくさんとってください」と病院で
言われていたので、スポーツドリンク、お茶、ジュース、牛乳……どれも
重たいものばかりだ。それに、熱があっても食べられるよう、喉越しのいい
もの、栄養のあるもの、さわやかな果物。少なくとも3日間は部屋から
出なくてもいいよう、山ほど買った。ずっしり重い荷物を両手に提げて
マイの部屋に戻ったときは、わたし自身、へとへとになっていた。

もう夕方だった。マイは眠っていた。どうしよう。せめて一晩、付き添って
看病してやりたいのは山々だったが、わたしも疲れていたし、締切が近い
仕事も心配だった。かわいそうだけど帰ることにして、置き手紙を書いて
いると、マイが目を覚ました。
「マイちゃん、ごめん。わたし帰らなくちゃならないの」
彼女は熱で潤んだ目で見上げ、こくんとうなずいた。

後ろ髪を引かれる思いで最寄りの駅に向かう途中、家に電話を入れた。
すると夫は、開口一番、「おれ、夕食はすき焼きがいい」と言った。
「マイの容態はどうだった?」でもなければ、「お疲れさま」でもない。
マイが病気だから看病に行く、ということは話してあったのに。

わたしは料理をする体力が残っていなかったので、どっちみち手間の
かからない鍋物にするつもりだった。でも疲労困憊して食欲がなく、
すき焼きのようなこってりしたものは食べたくなかったので、寄せ鍋に
しようと思っていた。だから「寄せ鍋にしたいんだけど」と言ったのだが、
夫は「おれ、すき焼き」とくり返すばかりで、こちらの言うことには耳を
貸そうともしなかった。わたしは言い争う元気もなく、そのまま電話を
切った。

そして帰りの電車のなかで考えた。「寄せ鍋にしたら、あの人は怒る
だろう。すき焼きにしたら、わたしは食べられず、あの人はひとりで
食べることになり、怒るだろう。どっちにしても怒る。だったら、好きな
ものを食べさせてやろう」

疲れた身体にむち打って、なおも降りしきる雨のなか、すき焼きの材料を
買って帰った。案の定、夫は怒った。「おれがまだ話している最中に、
勝手に電話を切るとは何ごとだ。しかも、すき焼きをひとりで食えと
いうのか。おまえみたいな性悪女は見たことがない。出て行け!」

わたしは自分の部屋に逃げこみ、ベッドに倒れこんだ。こちらの言うことを
聞こうとしなかったのは、あなたのほうでしょ。わたしのことも、マイの
ことも心配せずに、あなたは自分の夕食のことだけ心配していた。身勝手
なのは、どっちよ! そう反論する気力も、わたしには残っていなかった。

この事件で、わたしの「我慢のコップ」は満杯になった。表面張力で
ぷるぷる震え、かろうじてこぼれないだけだった。

我慢のコップ

2007-04-26 11:57:28 | 第1段階
カウントダウンは着実に進んでいた。
いったんはずれた(本人がはずした)”たが”は、なかなか簡単には
元どおりにはまらないものらしい。

夫はしだいに大声をあげることが多くなった。
わたしのほうは、「せっかく第三者まで交えて徹底的に話し合い、
やり直すことにしたのだから」という思いがあったので、その都度
自分の意見を言ったり、注意をしたり、いやだという意思表示をしたり、
なるべく夫に対して心を閉ざさないようにしていた。

この時期、いちばんつらかったのは、「いつになったら食費を入れられる
ようになるんだ」と言われることだった。

「はっけよい!」の話し合い(こちら)で決めたとおり、6月から夫は
わたしの食費も出してくれるようになっていた。でも、出してくれるのは
食費だけ。光熱費は相変わらずわたし持ちだし、固定資産税は折半だ。
それ以外にも、母親への仕送りや、自分の国民年金、国民健康保険料、
生命保険料など、わたしにはたくさんの出費があり、食費だけ出して
もらっても焼け石に水、出してもらわないよりまし、という程度だった。

本来ならわたしは、「はっけよい!」の話し合いをきっかけに、家計の
総合的な見直しをやりたかった。折半方式が破綻していることは目に
見えている。これからは夫婦の収入を合算し、そのなかでやりくりして
いければ、と思っていたのだが、残念ながらそういうことにはならな
かった。

夫の頭のなかには「夫婦単位」という考えかたはなく、あくまでも「自分
単位」だったのだ。だから、わたしの分まで食費を出すということは、
夫にとっては自分の自由になるお金が少なくなるということでしか
なかった。

「いつになったら食費を云々」というのは、よくある「誰のおかげで
メシが食えると思っているんだ」のバリエーションだ。もちろん、毎日
そう言われるわけではなく、6カ月間で数回だけだったが、それでも
わたしにとっては充分に針のむしろだった。しかも、ほかのささいな
ことでも大声を出されることが多くなっていたのだから、なおのことだ。

「はっけよい!」のあとの6カ月間に、こうしてわたしの「我慢のコップ」
は次第に満杯に近づいていった。そしていよいよ12月に、そのコップを
満杯にする事件が起きたのだった。

譲歩

2007-04-24 12:29:48 | 第1段階
「はっけよい!」のあと、ぎこちない修復の日々が始まった。
いったん壊された人間の心は、そう簡単に修繕できるものではない。
いくら「やり直す」ことにしたからって、「はい、そうですか」と翌日から
ニコニコすることはできなかった。それは予想がついていたから、
話し合いのなかで、「明日からすぐにラブラブってわけにはいかないわよ」
と釘を刺しておいた。夫もそれは承知しているようだった。

何はともあれ、わたしはできるだけ以前とおなじ態度で接するように
努力し、夫のほうも癇癪を押さえている様子がうかがえた。

秋には、夫の姪の結婚式にふたりで出席した。わたしはこの結婚式に
出席したくなかった。それというのも、夫がモラと化す前に、わたしの
甥の結婚式に出席するのをドタキャンしたことがあるからだ。その理由は、
「故郷のお祭りに行きたいから」だった。直前に、高校時代の友人から
誘われたらしい。いくら何年かに1度のお祭りでも、すでに返事が出して
ある結婚式に出席するのをキャンセルしてまで行くのは非常識だ。
もちろん抗議したけれど、聞く耳を持つ夫ではなく、強引に出かけていった。

わたしは仕方なく、姉に「夫が急に出張になっちゃって」と断って、
ひとりで出席した。ずいぶん肩身が狭く、みじめだった。

お祭りから帰ってきた夫は、「友達が祭の衣装まで用意しておいて
くれた」と上機嫌で出してみせたけれど、わたしはそれを洗濯するのが
いやでいやでたまらなかった。

6月の「はっけよい!」のなかで、わたしはそのときのことを指摘し、
「秋に予定されているあなたの姪の結婚式には、出席しませんからね。
それで五分五分でしょ」と言った。これには夫も困ったらしく、
「なんとか出席してくれ」と説得にかかった。

結局、出席することにしたのは、夫の説得に負けたからではない。
「これからふたりでやり直そうとしている矢先なのだし、別に義弟や
姪に恨みがあるわけではないのだから」と思ったからだ。

この件では、わたしは最大限の譲歩をしたつもりだったが、夫がそれを
どれだけ認識し、感謝していたのかは、いまとなっては疑問だ。

モラハラを理解してもらう難しさ

2007-04-21 19:11:08 | いまのわたしの思い
日本経済新聞の土曜日版「NIKKEIプラス1」では、毎週、アンケートを
元に「何でもランキング」というものをやっている。普段は「行って
みたい温泉」とか、「お取り寄せのできるスイーツ」など気楽な内容の
ものが多いのだが、今日は「夫に言われて傷ついた一言」という、気に
なるランキングだった。

それによると、世の中の妻たち(モラハラの被害者ではない)は、
つぎのような夫の言葉で傷ついているという(著作権侵害にならない
ことを祈りつつ、引用してみたい)。

1. 「君も太ったね」
2. 体調が悪いのに「ごはんはないの?」
3. 「家にいるんだからヒマだろ」
4. 「片づけが下手だ」
5. 育児など手伝ってほしいといったら「仕事で疲れているんだ」
6. 「うるさい」
7. 話し方について「しつこいな」
8. 「誰のおかげで生活できているんだ」
9. 「で、結論はなに?」
10.「おれの金を自由に使って何が悪い」
11.「君には関係ない」
12.子供の素行の悪さについて「お前に似たんじゃないのか」
13.「もっと効率よくやれば」
14.子どものことを相談して「どうでもいいじゃないか」
15.「うちの親の悪口はいうな」

ほとんど、モラのせりふといっしょではないか。

だから、モラハラの被害者が、「夫にこんなことを言われた、あんな
ことを言われた」と説明しようとすると、「そんなのはどこの家庭でも
あることよ」とあっさりあしらわれ、「あなたのやりかたが悪いんじゃ
ないの」ということになってしまう。

モラハラ独特の、あのすさまじい怒りの恐ろしさ、無視されることで
じわじわと追いつめられていく苦しさ、つねに神経を張りつめて
いなければならない異常な緊張感は、どう伝えていけばいいのだろう。

記事のなかでは、東京学芸大学教授で精神科医の田村毅さんの言葉が
紹介されていた。
  ――引用――
  田村さんは「地雷はあえて踏んでよし。大切なのはその後の対応」
  と話す。互いに言い返すなど思うことをぶつけたほうが、理解が
  深まるという。口をつぐみ、沈黙の貝殻に閉じこもるとよくない。
  ――引用終わり――

モラハラでない場合は、たしかにそれが正論なのだろうが、地雷を
踏んだら最後、心をずたずたにされてしまう妻たちは少なくないのだ。
地雷を踏まないよう、毎日、戦々恐々として神経をすり減らし、心を
病んでいく妻たちがいることを、もっとわかってもらうには、どうし
たらいいのだろう。そのために、いま、わたしに何ができるだろう。

(お断り:この記事は、「NIKKEIプラス1」の「何でもランキング」や
田村教授の発言を批判したり否定したりするものではありません。
モラハラを伝えるのがいかに難しいかを、そしてうまく伝えられない
もどかしさを書くために引用させていただいただけですので、ご了承
ください)


「はっけよい!」の意味

2007-04-18 20:48:20 | いまのわたしの思い
(突発事件のせいで、わき道にそれてしまいましたが、今回からまた
本筋にもどります)

いま、ここで振り返り、「はっけよい!」の意味を考えてみたい。
「モラからは一刻も早く離れるべし」というモラハラのセオリー(?)
からすると、「やり直し」を決めたあの話し合いは一見、逆行している
ようだが、あのときのわたしには必要なことだった。

あの時点では、わたしは夫と別れる決心が100%ついていたわけでは
なかった。わたしの性格として、「やり直せるかもしれない」という
気持ちが少しでも残っているあいだは、きっぱりと決断することが
できないのだ。

じつは、夫の定年より前に、わたしは別居しようとしたことがある。
結局は未遂に終わったのだが。

          **********

わたしは47歳のとき、すさまじい更年期障害に見舞われた。疲労感、
不眠、めまい、肩こり、食欲異常、血圧・体温の乱高下……なかでも
つらかったのは、疲労感だ。寝ていてさえ、手足を切って捨ててしまい
たいくらい、だるかった。

もちろん、治療を受けた。HRT(ホルモン補充療法)と漢方薬の
二本立てだ。それでもはかばかしくなく、だるくてたまらない日々が
つづいた。思わずため息がもれることもあった。

そのとき夫はこう言った。
「ため息ばかりついて暗い顔をしていては不愉快だから、出ていけ!」
あまりの残酷な言葉に、めったに泣かないわたしが、このときばかりは
泣いてしまった。すると夫は、追い打ちをかけた。
「みゃーみゃー泣けばいいと思いやがって」

家を出よう、と思った。そして小さな中古のマンションを探し、購入
した。もちろん、貯金をあらかたはたいても足りなかったから、ローン
を組んだ(もうフリーランスになっていたけれど、あのころはまだ、
銀行の審査に合格するくらいの収入はあったのだ)。

でも、すべて手続きが終わったときは数週間がすぎていて、ふと
迷いが生じた――はたしてわたしは正しいことをしようとしているのだ
ろうか。結局、一度も入居しないまま、賃貸に出すことになった。
(それでも、ローンの返済や諸経費を考えたら赤字なのだけれど)

          **********

あのときの経験から、少しでも迷いが残っていたら、うまく別居できない
ことはわかっている。のちに、「やれるだけの手は尽くした。それでも
ダメだった」という結論に達するために、あの話し合いはどうしても
必要だった。行司役を買って出てくれたMさんには、深く感謝している。

いまにして思えば、あの「はっけよい!」は「第一段階の終わりの始まり」
だった(「4つの段階」)。あの話し合いの直後から、カウントダウンが
始まったのだ。