犬と奥さん

ある日、夕食を食べながら、夫は唐突に言った。
「おれのゴルフ友達に、某有名会社の社長の奥さんがいるんだ」
それだけで話が終わるとは、わたしは思わなかった。

たとえば、「ご主人が仕事で忙しくて、彼女はほうっておかれる
から、ゴルフにのめり込んでいるんだ」とか、
「彼女の内助の功がすばらしいから、ご主人が出世したんだな」
とか。いずれにしても、そんなふうな話がつづくものと思い、
先をうながす意味で相づちを打った。
「ふうん、それで？」

とたんに夫は怒りを爆発させた。わけがわからず呆然としている
わたしに、夫は追い打ちをかけた。
「いま、So What? と言っただろう！　なんてひねくれた女なんだ！
根性が腐ってる！　暗い性格だ！　出て行け！」

わたしは食事を中断して自分の部屋に逃げ込み、ようやく気づいた。
「有名会社の社長の奥さんが自分の友達だ」――それだけで夫の話は
完結していたのだ。そのことを自慢したかっただけなのだ。
「へえ、すごいわねえ」とか、「そんな有名人と知り合いなの？」
というような言葉を期待していたのだろう。期待どおりの言葉が
聞けなかったから、怒ったのだ。

自分の部屋で心を落ちつけようとしているあいだに、新婚時代の
ことを思い出した。

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当時、わたしたちが住んでいたマンションの近くに、わが家とおなじ
犬種の小型犬を飼っている人がいて、散歩のとき出会うと世間話を
するようになった。その飼い主は、いつも自慢していた。
「うちの犬は、某有名化粧品会社の社長が飼っている犬の子供
なんですよ」

わたしと夫は、陰で笑ったものだ。
「有名会社の社長の犬と関係があるからって、それが何なのよねえ」
「まったくだ。おかしいよな」
夫とおなじ価値観であることがうれしかった。

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いまの「奥さんの話」は、あのときの「犬の話」と同じではないか。
そりゃ、奥さんと犬を同列に並べるのはいけないけれど、根本的な
ものの考え方としては同じだ。

夫は怒鳴るようになっただけでなく、価値観まで変わってしまったのか。
そう思うと、とても悲しかった。いつの間に変化したのだろう？
もしかしたら、とっくに変化していたのに、わたしが気づかなかった
だけなのだろうか？　気持ちや価値観がすれ違ったまま、何年も
夫婦をつづけていたのだろうか？

わたしは友達に電話した。
「いつの間にか価値観がこんなに違っていたなんて、愕然とするわ」
「会社勤めをしていれば、長いものに巻かれなければならないことも
あるものよ。それはマーチだってわかるでしょ。彼も、自分を曲げ
なければならないことが、いろいろとあったんじゃないかしら」

ふ～ん、そんなものかな、と思いながら、何か釈然としないものが
残った。定年退職し、自分を抑えたり曲げたりする必要が
なくなったいまこそ、昔から持っていた本来の価値観がもどって
きてもよさそうなものではないか。不思議でならず、別人のように
変化した（と、当時は思っていた）夫を、悲しく思うばかりだった。

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「モラハラ」を知ったいまは、あれがどういうことだったのか、よく
わかる。夫の価値観は、終始一貫、変化などしていなかった。
新婚時代に、わたしが誤解していただけだ。
夫が犬の飼い主を笑ったのは、他人が自慢するのが許せなかったからだ。
わたしを怒鳴ったのは、自分が自慢するのはいっこうにかまわないからだ。

自慢することで、他人を見下したい――そんなモラの心理を、当時の
わたしはまだ理解していなかった。

（追記：もしかしたら、あの犬の飼い主も、あんなにつまらないことで
自慢するとは、モラだったのかもしれない）