心を軽くしてみて下さい。
心を開いて感じてみて下さい。
空をゆく雲の喜び、山々の喜びを感じてみて下さい。
鳥たちのさえずり、草花達の奏でる音楽に耳を傾けてみて下さい。
皆、喜びのうたをうたっています。
自分が自分であることを喜んでいます。
多くの喜びのうたを奏でているのです。
それが豊かさというものなのです。
あなたは自分であることを恥じているかも知れない。
あなたは自分を受け入れることが出来ないかもしれない。
あなたは自分の歩んできた道に自信が持てないかもしれない。
しかし、知ってください。
道に咲く雑草と呼ばれる草々であろうとも自分が自分であることを喜んでいるのだということを。
人は幸福という名の財宝を求めて旅に出る。
そして、成功という名の山の頂上を目指す。
皆、成功という名の山の頂上に幸福という名の財宝があると信じているのだ。
しかし、幸福という名の財宝はすでに常に自分の足元に眠っているのだ。
それに気づかぬ者があまりにも多いのだ。
知識はあれども、幸福を知らず。
神理を知れども、真の実践をせぬ。
そのようなものになってはならない。
真に知るとは、己の心に幸福が満たされてはじめて真に知ったと言えるのである。
上辺だけの知識など、まったくもって無意味である。
己が上辺だけの知識に振り回されていないか常に振り返るあなたであれ。
幸福の財宝を手にしてはじめて、真に知ったと言えるのである。
当たり前に足元にある大地をよく見よ。
当たり前の毎日によく目を向けてみよ。
そこに幸福の財宝が眠っているのだ。
そして真実に目が覚めたとき、あなたは気づくことだろう。
生まれてからこの方、自分は幸福の財宝に囲まれ続けていたのだと。
失敗を恐れて何もしない人生は、魂の退歩である。
人間は、永遠に生き続ける生命であるからだ。
人を憎む心を知らず、苦難を知らず、艱難を知らず、苦しむこともない。
そのような人生を生きて、いったい何が魂修行だと言えるであろうか。
失敗多きも良いではないか。
失敗の数だけ魂の経験が広がるということなのだ。
失敗の数だけ、あなたの魂の認識力は広がり、魂の器が広がっていくのだ。
失敗を魂の肥やしにせよ。
その肥やしであなたの中に新たなる作物が実っていくのだということを知れ。
いずれ、その作物が他の者を潤す時が来ることだろう。
その日の為に、数多くの作物を実らせようではないか。
全力を尽くして、失敗してもそれで良いではないか。
全力を尽くさず後悔するよりもずっと晴れやかではないだろうか。
あなたは、地上にいったい何をしに来たのだ?
魂の経験値を積みに来たのではなかったのか。
ならば、失敗を恐れずひたすらに進め。
御霊の声に従い、ひたすらに進め。
魂が後悔せぬ生き方をせよ。
人生は永遠である。
ひと時の間、失敗したように見えることがあろうとも、
永遠を生きる者に失敗などないのだ。
建前ではなく、本音と向き合うことが大切です。
本音とは、あなたの「本」当の心の「音」色だからです。
口では綺麗ごとを言っていても、本音は違うことはあるでしょう。
その本音こそが、あなたご自身の今の心の音色なのです。
あなたのその本音は、聞こえる人には今も聞こえているのです。
天上界の諸霊には、いつも聞こえているのです。
あちらの世界では、その音色を隠すことはできないのです。
どうして人間は、線を引きたがるのだろう?
線を引いて、枠を作って、その向こうには敵がいるとどうして思うのだろう。
神様は線を引いてはいないのにね。
どうして人間は、自分の理解できないものを間違っていると思うのだろう?
みんな、自分が理解できないものが怖いんだ。
そんなに怖がらなくてもいいのにね。
理解できれば、また仲良くできる人が増えるのにね。
世界が広がるのにね。
敵なんていないんだよ。
どこにも敵なんていないんだよ。
みんな怖がっているだけなんだ。
暗がりの世界で、みんな怖がっているだけなんだ。
みんな怖くて自分を守っているだけなんだ。
さぁ、明りをつけてよく見て、みんな怖がっているよ。
みんな、自分と同じだということが見えていないだけなんだ。
さぁ、明りをつけてよく見て、みんな寂しそうな目をしているよ。
みんな、本当は仲間を探しているんだ。
神様は線を引いてなんかいないよ。
自分で線を引いて、枠を作って、その向こうには敵がいると思っているだけなんだよ。
その線の向こうにも、自分の仲間がいるんだよ。
さぁ、線を消して歩こう。
さぁ、枠を壊して歩こう。
さぁ、手を繋いで歩こう。
さぁ、いっしょに歩こう。
どうして、人間は偉くなりたいんだい?
どうして、他の人よりも自分が偉くなりたいんだい?
偉いって何だろう?
偉くなってどうしたいんだい?
どうして、人間はスゴイと思われたいんだい?
どうして、他の人よりも自分がスゴクなりたいんだい?
スゴイって何だろう?
スゴクなってどうしたいんだい?
みんな、同じなんだよ。どうして人と同じでは嫌なの?
みんな、嬉しいときは、誰も同じように嬉しいんだよ。
みんな、悲しいときは、誰も同じように悲しいんだよ。
みんな、苦しいときは、誰も同じように苦しいんだよ。
みんな、一緒じゃないのかい?
幸せって何だろう?
偉くないと幸せになれないのかな?
スゴクないと幸せになれないのかな?
幸せを感じて生きている人が、いっぱいいるよ。
毎日、自然に囲まれて幸せな人がいるよ。
鳥達の歌声を聴いて、ウキウキしている人たちがいるよ。
家族と仲良く暮らして、幸せを噛みしめている人がいるよ。
一緒に夕食をして、みんな今日何があったかを話し合うんだ。
そして、みんなでお互いの幸せを喜び合うんだ。
みんな、偉いから幸せなのかい?
みんな、スゴイから幸せなのかい?
さぁ、幸せを探してみよう。
僕らはみんな、幸せに囲まれているよ。
さぁ、幸せの青い鳥を見つけよう。
幸せの青い鳥は、どんなに外を探してもいないよ。
だって、ずっと家にいたんだもの。
家に帰ったら、幸せの青い鳥がいるよ。
さぁ、今日も家族と夕食を食べよう。
喜びの種を見つけよう。
今日も、生あるを喜ぼう。
今日も、昨日と同じ朝が来たことを喜ぼう。
今日も、清々(すがすが)しい朝を喜ぼう。
今日も、自分のいる場所があることを喜ぼう。
今日も、美味しい食事があることを喜ぼう。
今日も、話をする人がいることを喜ぼう。
今日も、笑い会える仲間がいることを喜ぼう。
今日も、帰る家があることを喜ぼう。
今日も、眠れる場所があることを喜ぼう。
いつも人生には喜びの種がいっぱい散らばっているのだから。
不満な自分など要らない。
不服な自分など要らない。
不安な自分など要らない。
不幸な自分など要らない。
いつも人生には喜びの種が星空のように散らばっているのだから。
喜びの種を見つけよう。
いっぱいいっぱい見つけよう。
喜びの種をいっぱい見つけた人が幸せな人なのだから。
汝、真の知者となれ。
真の知者は、知識を必要とはしない。
真の知者は、知識を得ても喜ばない。
真の知者は、内なる智慧を蓄えることに専心している。
知識は知識であって、記憶と供に消えて行くのだ。
それは、まさに砂浜の城のようなのだ。
時の波に洗われ、いつかその形が消え行くようなものであるのだ。
知識を得て、己を覚者だと誤解してはならない。
本当の智慧は、内に芽生えるものであり、内より出(いずる)ものである。
ある者はそれを神智と呼び、また、ある者はそれを般若波羅蜜多と呼ぶ。
内なる智慧は、心清らかな者のみに許された特権であるとも言えよう。
この世の特権を求めてはならない。
この世の特権など、たとえ得たとてたかが数十年のものである。
しからば、永遠の特権を求めよ。
心の清らかさを求め、汝の内に、神の国と神の義を求めよ。
それが真の知者への道である。
日々に喜びを忘れてはならない。
日々、喜びの中を生きよ。
日々に喜びを見出して生きよ。
それを生きがいと呼ぶのであろう。
何事にも喜びを見出すものは、幸せなものである。
苦難困難の中にも喜びを見出すものから、人は希望とは何かを学ぶ。
苦難困難の中にも喜びを見出すものに、苦難困難はないに等しいのだ。
光明に生きるものは、何事にも喜びを見出すものであるのだ。
鏡を見よ。その不安でいっぱいな顔は、一体誰の顔なのだ。
鏡を見よ。その恐怖に慄(おのの)いている顔は、一体誰の顔なのだ。
喜びを忘れてはならない。
汝、神の子よ。汝、光の子よ。希望の火を灯せ。
それが汝の使命である。
何事にも喜びを見出し力強く生きていけ。
どんなときも喜びを見出して生きるものから、人は希望をもらうのだ。
人々に希望を知らしめるのも神の子の仕事である。
日々に喜びを見出せないものは、自分が神の子であるということを忘れてしまっているのだ。
さぁ、思い出せ。
汝は神の子である。
神とは、光であり、闇を照らすものである。
汝が前に光を灯せ。
汝が前に希望の火を灯せ。
それが神の子である汝の仕事である。
こうしてみれば、皆、本来の仕事をサボっているものばかりであるのだ。
この世的な仕事に明け暮れ、
己の評価を求めることに明け暮れ、
己の生活に明け暮れ、
金儲けに明け暮れ、
本当の仕事を忘れているもの達ばかりであるのだ。
おかげで、地上は闇夜の世界となっているではないか。
さぁ、光を放て。
暗闇にこそ、光は必要であるのだ。
闇夜こそ、星は美しく輝くのだ。
汝、神の子として光を放て。
夜空の星のように、美しく輝け。
汝は、希望の星とならねばならぬ。
それが、汝の使命である。
遊び心を忘れてはならない。
遊び心は、単調な日々に楽しみをもたらし、周りをも楽しい気持ちにさせるのだ。
遊ぶことが嫌いな人はいない。
遊びの中で、人は今まで見えなかったものに気づく。
遊びの中に、心の豊かさを学ぶのだ。
豊かさとは、遊び心の中にもあるのだ。
鏡を見よ。その真面目腐った顔は、いったい誰の顔なのだ。
鏡を見よ。その苦悶(くもん)に満ちた顔は、いったい誰の顔なのだ。
遊ぶ気持ちを忘れてはならない。
汝、神の子よ。汝、光の子よ。心の豊かさを実現せよ。
それが汝の使命である。
遊び心を持って生きよ。
遊び心とは、ユーモアであるということを知れ。
ユーモアとは、楽しむ心であるということを知れ。
何事も楽しむものは、常に光を放っているのだ。
人は、ユーモア溢れる者に魅力を感じるものであるのだ。
汝のユーモアで周囲の人の心の凝りを解(ほぐ)すことも神の子の仕事である。
笑顔を忘れてはならない。
笑顔の日々は、あなたを幸福にし、周りをも幸福にするのだ。
笑顔を見て、怒る人はいない。
笑顔を見て、人は自分の中にある優しさに気づく。
笑顔を見て、人は生きる希望を得るのだ。
愛を与えて生きるとは、笑顔の日々でもあるのだ。
鏡を見よ。その暗い顔は、いったい誰の顔なのだ。
鏡を見よ。その不機嫌な顔は、いったい誰の顔なのだ。
鏡を見よ。その苦渋(くじゅう)に満ちた顔は、いったい誰の顔なのだ。
笑顔の日々を忘れてはならない。
汝、神の子よ。汝、光の子よ。光を放て。
それが汝の使命である。
笑顔の日々を生きよ。
それは小さな使命に見えるかもしれない。
しかし、一生笑顔を絶やさぬことは、前人未到(ぜんじんみとう)の大業(たいぎょう)であるということを知れ。
大仰(おおぎょう)な使命を望むな。大業を成し遂げたいと見栄を張るな。
ただ、笑顔という小さな積み重ねを大切にせよ。
光の中を生きるとは、笑顔を忘れないということでもあるのだ。
それが神の子の仕事であるということを、ゆめゆめ忘れてはならない。
無邪気に笑え。
子供になって無邪気に笑え。
無邪気に遊べ。
子供になって無邪気に遊べ。
無邪気に喜べ。
子供になって無邪気に喜べ。
無邪気とは、邪気がない姿なのだ。
邪(よこしま)な心がないということなのだ。
幼子の如く生きるとは、子供になって無邪気に生きるということなのだ。
子供のような心で生きることは、恥ずかしいことではないのだ。
とても大切なことであるのだ。
天国の門をくぐるには資格がいるのだ。
無邪気に生きる心が天国の門を開く鍵であるということを忘れてはならない。
もうそんなに頑張らなくて良いのですよ。
背伸びをして生きなくても良いのですよ。
あなたはあなたで生きて良いのですよ。
等身大のあなたで生きれば良いのですよ。
認められたい、褒められたい、分かって欲しいという気持ち。
その気持ちを神は常に知っておられますよ。
神は、あなたが頑張ってきたこと、全部知っておられますよ。
神は、あなたの素晴らしいところ、全部知っておられますよ。
神は、あなたが辛い思いをしてきたその気持ち、全部分かっておられますよ。
もう、人から認められなくてもよいではないですか。
天上界の諸霊は、あなたが一生懸命にがんばってきたことをちゃんと知っておられるのですから。
もう、人から褒められなくてもよいではないですか。
天上界の諸霊は、あなたの素晴らしいところをちゃんと褒めておられるのですから。
もう、人から分かってもらえなくてもよいではないですか。
天上界の諸霊は、あなたのことをちゃんと分かって下さっているのですから。
これだけ多くの方々にあなたは愛されているのです。
認められているのです。理解されているのです。
それに気づいて下さい。
神はずっとあなたに手を差し出しておられるのです。
神はずっとあなたを愛しておられるのです。
神はずっとあなたを包み込んでおられるのです。
あなたが神を信じようと信じまいとに関わらず。
天上界の諸霊はずっとあなたに手を差し出しておられるのです。
天上界の諸霊はずっとあなたを愛しておられるのです。
天上界の諸霊はずっとあなたを包み込んでおられるのです。
あなたが天上界の諸霊を信じようと信じまいとに関わらず。
大切なことは、あなたが神に心を向けるということです。
天上界の諸霊に心を向けるということです。
神の手をギュッと握ることです。
天上界の諸霊の手をギュッと握ることです。
皆、あなたが気づくことをずっとずっと待っているのです。
あなたが神の手を握ることをずっとずっと待っているのです。
さぁ、心を開いて神様に心を向けてみて下さい。
さすれば、あなたの心に優しい愛の光がさすことでしょう。
その心に響く優しい愛の光を知ってください。
愛とは、祝福です。他を愛(め)で祝福する心です。
祝福とは、自分以外の生けるものの喜びを共に喜ぶ心です。
鳥たちの喜びのうたを祝福しましょう。
植物達の生長を祝福しましょう。
山や川、海、大地といった大自然の豊かさを祝福しましょう。
他の人が嬉しそうにしている姿を、自分の喜びとして共に喜びましょう。
人を祝福できるというたったそれだけで、あなたはあなたを離れることができるのです。
祝福の反対は、妬(ねた)み、嫉(そね)みの心です。
妬み嫉みという種は、憎しみ、恨みという芽を出します。
憎しみ、恨みという芽は、争いの木となりて、ついには戦争という実を実らせてしまいます。
他を妬む心、他を嫉む心から離れ、神の創られた世界を祝福しましょう。
私たちは、神の生命です。
すべては神の子です。
今、あなたはこの真理を知りました。
もうあなたは、一人ではありません。
あなたは、世界とつながっていることを知ったのです。
もうあなたは、世界を、人を祝福できるということです。
祝福する心は、世界を良くする祈りとなります。
祝福する心は、世界を平和へと導く祈りとなります。
自分の欲得の為に、世界平和を祈ってはなりません。
真に、世界平和を願うならば、世界を祝福し、人を祝福しましょう。
祝福という心の大切さを知ってください。
汝よ、己を振り返る勇気を持て。
日々、己の生き易さばかりを求めてはならない。
結果を恐れるな。
結果を恐れて、立ちすくむ卑怯な自分をこそ恐れよ。
汝よ、潔くあれ。
非の打ち所の無い者なんていないのだ。
完璧な人間なんていないのだ。
己の生き方に非を認める勇気を持て。
己の非を認めてこそ、勇気ある者であるのだ。
己の非を認めてこそ、真の生長はあるのだ。
草木たちは、常に天へ向かって生長しているではないか。
天へ向かい、どこまでもどこまでも真っ直ぐ伸びていかんとしているではないか。
草木たちに学べ。
いと尊き人間よ。
草木たちに負けるな。
己の非を認められなくなったとき、汝の生長は止まるのだ。
生長が止まれば、根は腐り、枯れていくのだ。
それが木枯(けが)れであるのだ。
それゆえ、日々、己の穢れを取り払わねばならぬ。
穢れを取り払うとは、腹をくくり己を省(かえり)みるということである。