感謝のないところに、愛は生まれない。
心から「ごめんなさい」と思えてはじめて、感謝できたと言える。
「ごめんなさい」と思えない感謝は、うわべだけの感謝である。
それは、謝りを感じていないからです。
◎まず、自らを愛せよ
汝、まず、自らを愛せよ。
自らを愛するとは、日々清らかな心で生きていかんとすることだ。自分自身の人生を愛することだ。自分自身の人生を抱きしめることだ。
自らを愛せぬ者に、人を愛することはできない。自らの人生を抱きしめれぬ者に、人を受け入れ許すことはできない。
汝、自らの穢れ多きを知れ。自らの穢れ多きを知らず生きてはならない。
そして、汝、神に詫びよ。神に詫び、己の穢れを取り払い、清らかな心で生きていかんと決意せよ。己の穢れに気づかねば、さらなる穢れをまとうこととなり、やがては自らの人生を自らの足で歩むことができなくなって仕舞うのだ。
己の穢れを取り払い、清らかな心で生きていかんと決意せよ。それこそが、自らを本当に愛し大切にする道である。
汝、自らの罪多きを知れ。自らの罪多きを知らず生きてはならない。
そして、汝、自らを許せ。罪深き自らの人生を抱きしめることだ。神が人を許すのではない。自らが自らを許す以外に罪は決して消えることはない。そのようなあなたであろうともまだ生かされているということは、すでに神はあなたを許しているのだということを知らねばならぬ。
罪穢れ多き自分の人生を愛しみ抱きしめよ。自らの人生を抱きしめれぬ者に、人を受け入れることは出来ぬ。自らを許せぬ者に、決して人を許すことはできないのだ。
自らを真に愛し許せぬ者に決して愛は分からぬ。自らを忌み嫌い、自らの人生を呪う者は、神を呪うているのだ。なぜなら、自分自身も神の子であるからなのだ。
「愛を与えよ。愛が大切だ。人を愛せよ」と口にする者は多いが、真に愛を知っている者は、ほんの一握りであるのだ。
そのような耳障りのよい言葉を口にする者の多くは、自分がよく見られたいという穢れた思いで言葉を発しているのだ。彼らは人を愛してはいない。自らをも愛せてはいない。自分が愛されたいがゆえに愛の大切さを口にしているのだ。
決して、そのような偽者になってはならぬ。
◎本来、罪なし
罪は本来ないのだ。しかし、罪がないのではない。罪はあれども、罪は光を当てたときに消えるのである。神の光に照らされたとき、太陽の前の霜のように解けてなくなるのである。
しかれども、心の曇りが神の光を遮っているいるのである。それゆえ、心の曇りを晴らさねばならぬ。すがすがしい澄み渡った青空のような心でなくては、天上よりの光が地に届かぬからである。
私はあなただ。私は今あなたの中から呼びかけています。
どうか心を澄まし、あなたの心の声に耳を傾けて欲しい。
あなたの心のなかより語りかけている私の願いに耳を傾けて欲しい。
あなたの命はこの大宇宙に満ち満ちているあなた方が神と呼ぶエネルギーでできているのだ。
今、他人だと思っているのは、あなたであり私であるのだ。
他を傷つけるという行為は、思いは、私を傷つけあなたを傷つけているということに気づいてほしい。
他を愛し慈しむ思いは、私を愛しあなた自身を愛するということなのだと知って欲しい。
あなたの外には、私はいない。あなたの外に本当のあなたはいない。
あなたが探し続けている安らぎは、あなたの中にいるのです。
他と手を取り合うという行為は、思いは、あなたが広がるということなのだ。
それが私の願いなのです。
さぁ、勇気を出してあなたの心の声に耳を傾けて下さい。
そこにあなたがずっと探し続けてきたすべてがあるのです。
大宇宙には、その私の思いが、願いが満ち満ちているのです。
もう、何万年も、何億年も、何十億年もまえより、この宇宙に発し続けている私の願い。
それは、あなたが私であるということに気づくことなのです。
ここにも、あそこにもあなたがあり、私があるということに気づいて欲しいのです。
今の地上には、自らの心の穢れに気づかぬ者が多い。
いや、気づかぬのではない。目を背けて生きているのだ。
心の穢れから目を背けているうちに、自らを見失っているのである。
そこまでいけば、神も救えぬのであるということを知らねばならぬ。
心の穢(けが)れに気づいたものは幸いである。
心が穢れてしまったと、決して自らを嫌ってはならぬ。
卑(いや)しめてはならぬ。呪ってはならぬ。
心の穢れに気づいたということは、あなたは本来とても美しい心根を持っているということなのだ。
今、その本来の美しい心根が自らの穢れを知らせているだけなのだ。
その美しい心根こそがあなたの本当の姿であるということを知らねばならない。
それゆえ、自らを嫌い、卑しめ呪うてはならない。
神はあなたを常に見守りたまいて、あなたのその美しい心根を愛しておられるのだ。
今日から、その美しい心根で生きようと決意せよ。