3月14日ブログで私はこのような道筋を綴った。
途中でJR貨物列車を見た。後方は正方形の窓が整然と並ぶビルである。
その北隣りにはスポーツクラブルネサンス浦和さんがあった。
ヤフー地図で見ると正方形の窓のビルは浦和テクノシティビルである。
3月14日ブログで私は赤丸の三差路から西に延びる道を見た。
その三差路で2013年の夏、私はライオンズテクノシティ浦和さんの案内図を見た。
浦和テクノシティビルはC街区にある。
ABCの各街区をヤフー地図に示すとこのようになると思う。
平成2年の地図を見るとライオンズテクノシティ浦和さんの場所は空白になっている。
ABCの各街区はこのあたりになると思う。
現在のA街区の南、C街区の西は空白であるが、現在は常盤北小がある。
さいたま市立常盤北小学校のウェブサイトで沿革を拝見すると平成3年の開校である。平成2年の地図になくて当然である。
昭和51年の浦和市地図で見ると新潟鉄工と出ている。
昭和30年発行『浦和市制二十年史』は工業の沿革についてのくだりで “ 特に北浦和西部地域を工場地帯とする産業都市建設計画は北浦和駅の開設と、相まって急速に進展し、新潟鉄工所の招致運動に成功し、更にその周辺に大工場が相次いで設立を見た ” と記述している。掲載の写真。
さいたま市ウェブサイトさいたま市名誉市民を見ると、40番目は元与野市長の井原勇氏である。
ウィキペディア井原勇には、生涯のくだりで “ 旧制浦和中、東京大学工学部を卒業後、新潟鉄工所に入社 ” という記述がある。
井原勇の著書『巡り合わせの人生』(平成13年発行 非売品)によれば、井原勇氏が(株)新潟鉄工所に入社したのは昭和25年である。『巡り合わせの人生』所載の株式会社新潟鉄工所浦和工場の写真。
下の鳥瞰写真を拡大する。
工場の南にグランドのようなところが見える。
昭和36年の空中写真で全体を見る。
グランドのようなところは新潟鉄工所の福利厚生施設だったのではないかと思う。
『巡り合わせの人生』には “ 会社の経営が思わしくない頃のことである。工場敷地の南部分の土地を売却したいという計画があり、そこに、たまたま埼玉県から埼玉大学教育学部のグランドとして譲って欲しいという申し出があったので、県に譲渡することにした。ところが、実際には、そこに県営住宅が建設されてしまい、入居した人達からは、工場の音がうるさくて仕様がない、近隣住民に迷惑となる騒音は出さないで欲しいとクレームがついた。会社は音を抑えるために、密閉型の工場を造らなければならなくなってしまった。” という記述がある。
昭和50年の空中写真を見るとグランドがあったところの東側は団地に変わり、西側は常盤中学校だと思う。
さいたま市立常盤中学校のウェブサイトで沿革を拝見すると昭和22年に新潟鐵鋼所旧青年学校校舎買収のこと決定とある。新潟鐵鋼所は新潟鉄工所のことだと思う。なお、ウィキペディア青年学校にはおもな青年学校が官立(国立)、公立、私立に分類して紹介されており、私立のところに「新潟鉄工所青年学校」がある。
昭和47年に新校舎落成式とある。昭和50年の空中写真には新校舎が写っているのだと思う。
昭和24年の地図を見ると新潟鉄工場の左下に学校がある。昭和23年4月9日に移転してきた常盤中学校ではないかと思う。
そうすると新潟鉄工所の当初の敷地はこの範囲だったのではないかと思う。
昭和36年の空中写真に示す。
現在のこの範囲になると思う。
途中でJR貨物列車を見た。後方は正方形の窓が整然と並ぶビルである。
その北隣りにはスポーツクラブルネサンス浦和さんがあった。
ヤフー地図で見ると正方形の窓のビルは浦和テクノシティビルである。
3月14日ブログで私は赤丸の三差路から西に延びる道を見た。
その三差路で2013年の夏、私はライオンズテクノシティ浦和さんの案内図を見た。
浦和テクノシティビルはC街区にある。
ABCの各街区をヤフー地図に示すとこのようになると思う。
平成2年の地図を見るとライオンズテクノシティ浦和さんの場所は空白になっている。
ABCの各街区はこのあたりになると思う。
現在のA街区の南、C街区の西は空白であるが、現在は常盤北小がある。
さいたま市立常盤北小学校のウェブサイトで沿革を拝見すると平成3年の開校である。平成2年の地図になくて当然である。
昭和51年の浦和市地図で見ると新潟鉄工と出ている。
昭和30年発行『浦和市制二十年史』は工業の沿革についてのくだりで “ 特に北浦和西部地域を工場地帯とする産業都市建設計画は北浦和駅の開設と、相まって急速に進展し、新潟鉄工所の招致運動に成功し、更にその周辺に大工場が相次いで設立を見た ” と記述している。掲載の写真。
さいたま市ウェブサイトさいたま市名誉市民を見ると、40番目は元与野市長の井原勇氏である。
ウィキペディア井原勇には、生涯のくだりで “ 旧制浦和中、東京大学工学部を卒業後、新潟鉄工所に入社 ” という記述がある。
井原勇の著書『巡り合わせの人生』(平成13年発行 非売品)によれば、井原勇氏が(株)新潟鉄工所に入社したのは昭和25年である。『巡り合わせの人生』所載の株式会社新潟鉄工所浦和工場の写真。
下の鳥瞰写真を拡大する。
工場の南にグランドのようなところが見える。
昭和36年の空中写真で全体を見る。
グランドのようなところは新潟鉄工所の福利厚生施設だったのではないかと思う。
『巡り合わせの人生』には “ 会社の経営が思わしくない頃のことである。工場敷地の南部分の土地を売却したいという計画があり、そこに、たまたま埼玉県から埼玉大学教育学部のグランドとして譲って欲しいという申し出があったので、県に譲渡することにした。ところが、実際には、そこに県営住宅が建設されてしまい、入居した人達からは、工場の音がうるさくて仕様がない、近隣住民に迷惑となる騒音は出さないで欲しいとクレームがついた。会社は音を抑えるために、密閉型の工場を造らなければならなくなってしまった。” という記述がある。
昭和50年の空中写真を見るとグランドがあったところの東側は団地に変わり、西側は常盤中学校だと思う。
さいたま市立常盤中学校のウェブサイトで沿革を拝見すると昭和22年に新潟鐵鋼所旧青年学校校舎買収のこと決定とある。新潟鐵鋼所は新潟鉄工所のことだと思う。なお、ウィキペディア青年学校にはおもな青年学校が官立(国立)、公立、私立に分類して紹介されており、私立のところに「新潟鉄工所青年学校」がある。
昭和47年に新校舎落成式とある。昭和50年の空中写真には新校舎が写っているのだと思う。
昭和24年の地図を見ると新潟鉄工場の左下に学校がある。昭和23年4月9日に移転してきた常盤中学校ではないかと思う。
そうすると新潟鉄工所の当初の敷地はこの範囲だったのではないかと思う。
昭和36年の空中写真に示す。
現在のこの範囲になると思う。
浦和工場は舶用の主機、補機を製造していた小型ディーゼルエンジン製造の工場でした。戦中は戦車のエンジンを作っていたとも聞いています。
蒲田のエンジン工場も、映画の撮影所がトーキー時代の始まり共に、試運転の音が入ってしまうといって、大船に移転していきました。あとから住宅街になって騒音対策をするという話はどこでもあるお話ですね。
工場の北部には「健康保険会館」があったはずです。昭和50年代は、浦和工場で関東地区の運動会などをやっていて、前日、野島社長が好きな麻雀を役員を集めて健保会館でやっていた思い出があります。
移転はやはり業績が原因で、もともと小工場が多かった構造的な問題を、内燃機も太田工場へまとめるという理由で実施しましたが、売却時の事情は知りません。
与野には、大変お世話になった方が住んでいるという噂は、若手であった私にも聞こえてきました。
わたしは昭和50年代に与野駅から都内まで通勤しておりましたが、電車が与野駅を出るとすぐ右側に新潟鉄工所さんの大きな看板が見えました。埼玉県なのに「新潟」だったので記憶に残っています。
新潟鉄工所さんについてはそこに会社があったということ以外は何も知りませんでしたが、今回いろいろお話しいただき会社の雰囲気が見えてきました。ありがとうございました。
わたしが20代に勤務していた会社でもソフトボール大会とか駅伝大会とかの行事があったことを思い出しました。
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山口俊夫
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