伊能忠敬第7次測量隊は第7次測量日記を見ると江戸を出て9日目は騎西町から忍行田町までを測量し、その日は忍行田町で宿泊した。
2020年05月31日ブログ(伊能忠敬が歩いた埼玉郡北部の道)では騎西町から赤城村までの道筋を辿ってみた。赤城村は騎西町から忍行田町までの中間にあり、中食をとった場所である。
今日のブログでは江戸を出て9日目の行程のうち赤城村から忍行田までの道筋を辿ってみたいと思う。
伊能図で赤城村から忍行田までを見る。
赤城村から忍行田までの道を赤で示す。
迅速測図で赤城村から忍行田まで次の2区間に分ける。
2-1の区間。2-2の区間。
伊能忠敬第7次測量隊が歩いたと思われる道を赤で辿ると次のようになった。
2-1区間。2-2区間。
次に現在の地図(ヤフー)で、迅速測図に赤で示した道を辿ってみることにする。次の4区間に分ける。
4-1の区間、4-2の区間、4-3の区間、4-4の区間。
各区間で迅速測図の道と照らして継承していると思われる道を辿ると次のようになった。
4-1区間、4-2区間、4-3区間、4-4区間。
今回のスタート地点は迅速測図ではいきなりクランク状に曲がる(赤丸)が、現在の道はほぼ直線(赤丸)でスタートする。
現在地図のその付近を拡大する。
迅速測図の道はこのような道だったのではないかと思う。
赤丸の交差点を東から見た2012年7月ストリートビュー。
迅速測図に赤で示した交差点は道筋としては現在のこの交差点(赤丸)に対応すると思うが、実際の場所は違っていると思う。
現在地図に迅速測図の道を描くとこのようだったのではないかと思う。
赤丸の交差点を南から見た2019年3月ストリートビュー。
緑丸の交差点で北を見た2015年8月のストリートビュー。西を見たストリートビュー。
現在地図で行田市役所付近を見る。
その辺りを迅速測図で見る。
迅速測図に黄で示した道は現在地図のこの道(赤)と概ね重なるのではないかと思う。
赤丸のところは「郡」と表示されている。「郡役所」だと思う。
ウィキペディア北埼玉郡によれば、1879年(明治12年)に北埼玉郡が発足し、郡役所が成田町に設置された。
現在の赤丸の辺りだと思う。
ウィキペディア新編武蔵風土記稿で埼玉郡忍領を見る。
「行田」も「成田」もない。忍城并城下町の中に含まれているのかも知れない。
伊能図には「行田」「忍」「阿部鉄丸居城」とある。
ウィキペディア忍城には “ 1823年(文政6年)に阿部氏が白河に移り、桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入った ” と記述されている。
伊能忠敬第7次測量隊がここを歩いた(測量した)のは文化6年だった。
2020年05月31日ブログ(伊能忠敬が歩いた埼玉郡北部の道)では騎西町から赤城村までの道筋を辿ってみた。赤城村は騎西町から忍行田町までの中間にあり、中食をとった場所である。
今日のブログでは江戸を出て9日目の行程のうち赤城村から忍行田までの道筋を辿ってみたいと思う。
伊能図で赤城村から忍行田までを見る。
赤城村から忍行田までの道を赤で示す。
迅速測図で赤城村から忍行田まで次の2区間に分ける。
2-1の区間。2-2の区間。
伊能忠敬第7次測量隊が歩いたと思われる道を赤で辿ると次のようになった。
2-1区間。2-2区間。
次に現在の地図(ヤフー)で、迅速測図に赤で示した道を辿ってみることにする。次の4区間に分ける。
4-1の区間、4-2の区間、4-3の区間、4-4の区間。
各区間で迅速測図の道と照らして継承していると思われる道を辿ると次のようになった。
4-1区間、4-2区間、4-3区間、4-4区間。
今回のスタート地点は迅速測図ではいきなりクランク状に曲がる(赤丸)が、現在の道はほぼ直線(赤丸)でスタートする。
現在地図のその付近を拡大する。
迅速測図の道はこのような道だったのではないかと思う。
赤丸の交差点を東から見た2012年7月ストリートビュー。
迅速測図に赤で示した交差点は道筋としては現在のこの交差点(赤丸)に対応すると思うが、実際の場所は違っていると思う。
現在地図に迅速測図の道を描くとこのようだったのではないかと思う。
赤丸の交差点を南から見た2019年3月ストリートビュー。
緑丸の交差点で北を見た2015年8月のストリートビュー。西を見たストリートビュー。
現在地図で行田市役所付近を見る。
その辺りを迅速測図で見る。
迅速測図に黄で示した道は現在地図のこの道(赤)と概ね重なるのではないかと思う。
赤丸のところは「郡」と表示されている。「郡役所」だと思う。
ウィキペディア北埼玉郡によれば、1879年(明治12年)に北埼玉郡が発足し、郡役所が成田町に設置された。
現在の赤丸の辺りだと思う。
ウィキペディア新編武蔵風土記稿で埼玉郡忍領を見る。
「行田」も「成田」もない。忍城并城下町の中に含まれているのかも知れない。
伊能図には「行田」「忍」「阿部鉄丸居城」とある。
ウィキペディア忍城には “ 1823年(文政6年)に阿部氏が白河に移り、桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入った ” と記述されている。
伊能忠敬第7次測量隊がここを歩いた(測量した)のは文化6年だった。
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