1月5日ブログで私はこのような道筋を綴った。
赤丸の交差点で南を見ると交差点の左角に石仏がある。

正面を見る。中央に「奉納大乗妙典六十六部日本廻」と彫られている。
「六十六部」とは何のことか?
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版)』には “ 経典を彌勒下生の時まで国々の霊場に保管しておく目的の納経は、昔わが国が六十六ヶ国に分かれていたため、全国を巡って納経するという六十六部信仰となった。この信仰によって建てた石塔が「廻国塔」である。” との記述がある。
ウィキペディア令制国には令制国の数として “ 令制国は、奈良時代までと明治時代に大きな改廃がなされたが、その間の平安時代から江戸時代までの長期にわたって変更がなかった。その数は68であるが、66とされることも多かった。この場合、対馬・壱岐が「嶋」として外れる。” との記述がある。
石仏は「奉納大乗妙典六十六部日本廻」に続く文字が埋もれて見えないのだが、元々は「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養塔」ではないかと思う。
正面の両サイドの上部は「天下和順」「日月清明」と彫られている。
両サイドの中間は「安永七戊戌」「六月吉日」だと思う。安永七年は1778年。
両サイドの下部は「下総國北柏井」「河原代村富山長谷」のように見える。
左側面を見る。道標で「このほう よの おふみや みち」だと思う。与野、大宮方面を示していると思う。
右側面を見る。「此方 阿け尾 ひら・・ 道」ではないかと思う。上尾、平方方面を示しているのではないかと思う。
先日いただいたコメントで迅速測図と現在地図を比べて見られるページをお教えいただいた。
そのページを開いて、六十六部道標の場所を探す。
赤丸の交差点は現在地図(右)の赤丸である。
迅速測図(左)のここ(赤丸)になる。
2017年07月05日ブログで私は北区奈良町の秩父西国坂東百箇所供養塔から与野に向かう道(赤矢印)を迅速測図で辿った(緑線)。
日進町の六十六部道標はこの交差点(赤丸)にある。
2017年07月05日ブログで私はこの道について、かつての鎌倉街道を継承してきた道ではないかと書いた。
六十六部道標は現在北方向を向いて建っているが、案内している方向が合っていない。
安永七年(1778)、大乗妙典六十六部日本廻(国供養塔)建立当時は正面が東方向を向いていたと思うのである。
赤丸の交差点で南を見ると交差点の左角に石仏がある。

正面を見る。中央に「奉納大乗妙典六十六部日本廻」と彫られている。
「六十六部」とは何のことか?
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版)』には “ 経典を彌勒下生の時まで国々の霊場に保管しておく目的の納経は、昔わが国が六十六ヶ国に分かれていたため、全国を巡って納経するという六十六部信仰となった。この信仰によって建てた石塔が「廻国塔」である。” との記述がある。
ウィキペディア令制国には令制国の数として “ 令制国は、奈良時代までと明治時代に大きな改廃がなされたが、その間の平安時代から江戸時代までの長期にわたって変更がなかった。その数は68であるが、66とされることも多かった。この場合、対馬・壱岐が「嶋」として外れる。” との記述がある。
石仏は「奉納大乗妙典六十六部日本廻」に続く文字が埋もれて見えないのだが、元々は「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養塔」ではないかと思う。
正面の両サイドの上部は「天下和順」「日月清明」と彫られている。
両サイドの中間は「安永七戊戌」「六月吉日」だと思う。安永七年は1778年。
両サイドの下部は「下総國北柏井」「河原代村富山長谷」のように見える。
左側面を見る。道標で「このほう よの おふみや みち」だと思う。与野、大宮方面を示していると思う。
右側面を見る。「此方 阿け尾 ひら・・ 道」ではないかと思う。上尾、平方方面を示しているのではないかと思う。
先日いただいたコメントで迅速測図と現在地図を比べて見られるページをお教えいただいた。
そのページを開いて、六十六部道標の場所を探す。
赤丸の交差点は現在地図(右)の赤丸である。
迅速測図(左)のここ(赤丸)になる。
2017年07月05日ブログで私は北区奈良町の秩父西国坂東百箇所供養塔から与野に向かう道(赤矢印)を迅速測図で辿った(緑線)。
日進町の六十六部道標はこの交差点(赤丸)にある。
2017年07月05日ブログで私はこの道について、かつての鎌倉街道を継承してきた道ではないかと書いた。
六十六部道標は現在北方向を向いて建っているが、案内している方向が合っていない。
安永七年(1778)、大乗妙典六十六部日本廻(国供養塔)建立当時は正面が東方向を向いていたと思うのである。
奈良町の百箇所供養塔隣りの石仏はユーモアたっぷり、木喰仏を彷彿させますね。