6月21日ブログで北区奈良町の秩父西国坂東百箇所供養塔について触れた。
この供養塔の左側面は「南 よのみち 文化十癸酉年閏十一月吉日」と彫られていた。
今日は「よのみち」について考えてみようと思うのだが、その前に「文化十癸酉年閏十一月」の「閏」についてみてみる。
国立国会図書館サイトの電子展示会に日本の暦がある。第二章いろいろな暦をみると、江戸時代には “ 2~3年に1度は閏月(うるうづき)を設けて13ヶ月ある年を作り・・・ ” との記述がある。そして大小対照表(年順)の文化10年を見ると、閏11月があり、1年13ヶ月になっている。
さて、百箇所供養塔の道標の「よのみち(与野道)」であるが、地図に示すと赤矢印の道だと思う。
百箇所供養塔の交差点から赤矢印方向を見た写真(6月11日ブログ)。
6月21日ブログで、私は現在のこの道は明治の迅速測図のこの道ではないかと推測した。
そうすると先ほどの赤矢印の道(与野道)は迅速測図のこの道でないかと思う。
迅速測図を縮小して、その道を南に緑で辿る。
さらに南方面に辿る。
赤丸の交差点は現在地図のここではないかと思う。
緑で辿ってきた道を現在地図でさらに辿ると円乗院の前の道である。
この道は本町通りで古くは鎌倉街道と呼ばれたという。新編武蔵風土記稿與野町の記述。
北区奈良町の秩父西国坂東百箇所供養塔の交差点から赤矢印方向に進むと大宮北高がある。
大宮北高の南に三貫清水緑地がある。
2012年8月、私は三貫清水緑地を北に向かって歩いた。
大宮北高に突き当たって振り返った。鎌倉街道標柱があった。
百箇所供養塔道標の与野道はかつての鎌倉街道を継承してきた道ではないかと思う。
昭和55年大宮市発行『大宮のむかしといま』に掲載の鎌倉時代の街道を見る。
百箇所供養塔道標の与野道が鎌倉街道を継承してきた道だとしたら、北は川田谷、鴻巣へ向かう道だったのではないだろうか。
この供養塔の左側面は「南 よのみち 文化十癸酉年閏十一月吉日」と彫られていた。
今日は「よのみち」について考えてみようと思うのだが、その前に「文化十癸酉年閏十一月」の「閏」についてみてみる。
国立国会図書館サイトの電子展示会に日本の暦がある。第二章いろいろな暦をみると、江戸時代には “ 2~3年に1度は閏月(うるうづき)を設けて13ヶ月ある年を作り・・・ ” との記述がある。そして大小対照表(年順)の文化10年を見ると、閏11月があり、1年13ヶ月になっている。
さて、百箇所供養塔の道標の「よのみち(与野道)」であるが、地図に示すと赤矢印の道だと思う。
百箇所供養塔の交差点から赤矢印方向を見た写真(6月11日ブログ)。
6月21日ブログで、私は現在のこの道は明治の迅速測図のこの道ではないかと推測した。
そうすると先ほどの赤矢印の道(与野道)は迅速測図のこの道でないかと思う。
迅速測図を縮小して、その道を南に緑で辿る。
さらに南方面に辿る。
赤丸の交差点は現在地図のここではないかと思う。
緑で辿ってきた道を現在地図でさらに辿ると円乗院の前の道である。
この道は本町通りで古くは鎌倉街道と呼ばれたという。新編武蔵風土記稿與野町の記述。
北区奈良町の秩父西国坂東百箇所供養塔の交差点から赤矢印方向に進むと大宮北高がある。
大宮北高の南に三貫清水緑地がある。
2012年8月、私は三貫清水緑地を北に向かって歩いた。
大宮北高に突き当たって振り返った。鎌倉街道標柱があった。
百箇所供養塔道標の与野道はかつての鎌倉街道を継承してきた道ではないかと思う。
昭和55年大宮市発行『大宮のむかしといま』に掲載の鎌倉時代の街道を見る。
百箇所供養塔道標の与野道が鎌倉街道を継承してきた道だとしたら、北は川田谷、鴻巣へ向かう道だったのではないだろうか。
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